※この記事は、CIRCUS第2回特集「いいカラダ。」の記事です。

 

私にとっての理想のカラダとはどんなカラダだろうか。たとえば、1日だけ誰かのカラダと交換してやると言われるなら、ミランダ・カーにしてください、とか思うのだが、ではあんなカラダが理想かと聞かれると、そうでもない。維持するのが大変そうだ。

 

私は目下減量中である。数年の間隔でじわじわ太っていき、それを半年ほどかけて元に戻す、というのをもう何回も繰り返している。だったら太るな、という話なのだが、これがなかなか難しい。私は無類の「米好き」だからだ。

 

私は甘いものをあまり食べないし、ほとんど間食をしない。毎日お酒は飲むけれど、量は一定だから、これもあまり影響しない。私の脂肪はほとんどが米によって生成されているのだ。理由がはっきりしているから、米を減らせば体重は減る。

 

太ったり痩せたりを繰り返していると、カラダがココロにどれだけ影響を与えているかを実感する。ブクブクと太るにつれ、いろいろな事がどうでもよくなってくる。「どうせ」とか「別に私なんか」とか、そういった言葉が口に上る回数が増えてくる。ポジティブ・シンキング用の回路を遮断する何かが、脂肪細胞から分泌されているのじゃないかと思うくらいに、太ると思考がネガティブに偏っていくのだ。自分で作り上げた皮下脂肪の檻に閉じ込められて、なんだか息苦しくなってくる。それに耐えられなくなってきて初めて、私は米と距離をおく気になるのだ。

 

某フィットネスジムのCMで、たるんだカラダにしょぼくれた顔の「使用前」と、割れた腹筋で、ちょっとイヤらしいくらいのドヤ顔をした「使用後」が出てくる。もちろん演出はあるとはいえ、あの感じは結構わかる。自信回復とかなんとか言う以前に、痩せるとそれだけで何かから解放された感じがするものなのだ。

 

ココロが定義するセルフ・イメージとしての自分のカラダと、実際のカラダとのギャップ、さらに実体としてのカラダが押し付けてくる、カラダに見合ったココロとのギャップ、この差に人は居心地の悪さを覚え、悩みをかかえてしまうのだと思う。

 

 

その関係性について考えたとき、思い出すのが『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』というカルト・ムービーだ。ジョン・キャメロン・ミッチェルの戯曲を、ミッチェル自ら監督・脚本・主演を務めて映画化したもので、日本でも舞台版は何度か上演されている。

 

 

ヘドウィグは売れないロック・シンガーだ。彼女の曲をパクってスターになった歌手トミーに、ストーカーのようについてまわり、彼のライブ会場のすぐそばで、自分のバンド「アングリーインチ」のライブを嫌がらせのように行うドサ回りのツアーをやっている。ゴージャスな金髪のウィッグに、赤い口紅。しかしヘドウィグは「女性」ではない。

 

冷戦時代の最中、ベルリンの壁ができた年に、東ドイツで男の子として生まれたハンセル(ヘドウィグの少年時代の名)は、実父の性の対象として幼少期を過ごす。壁を超えて、米軍ラジオからは、数々のディーバ達の歌や、デヴィッド・ボウイやルー・リードのような、ジェンダーを超えたロックスターの曲が流れてくる。ハンセルは彼らに憧れを抱きながら成長していく。

 

米軍ラジオは、壁の向こう側にある自由の象徴だ。少年時代のハンセルが、ルー・リードの『ワイルドサイドを歩け』を口ずさむシーンがある。当時アンディ・ウォーホールのザ・ファクトリーを出入りしていたトランスジェンダー達についての曲だ。

 

ホリーはマイアミからヒッチハイクでやってきた

途中で眉毛をひっこぬき 足の毛をそり落として 彼から彼女になった

彼女は言うんだ ねぇ坊や あんたもヤバい道を歩いてごらんよ“

 

この曲が収められたアルバム『トランスフォーマー』は1972年のリリースである。ハンセルは12歳前後といったところか。壁の向こうからの自由への誘いは、妖しい呪文のように少年の心に浸みこんでいったのだ。

 

 

青年になったハンセルは、黒人の米兵ルーサーに見初められ、彼と結婚して自由の国アメリカに渡ることになる。ルーサーと、自由になるためには犠牲が必要だという母親に言われるままに、性転換手術をうけるのだが、もぐりの医者の雑な手術は失敗し、股間には切除しそこなった1インチの肉塊が残されてしまう。「怒りの1インチ(angry inch)」、これがバンド名の由来だ。

 

そもそも、ハンセル自身が手術で女性のカラダを手に入れることを望んでいたかどうか、曖昧だ。劇中では、この時ハンセルは26歳と言っているが、その歳の男にしてはあまりにも幼く、受身な存在だ。自分がそれを望んでいるかどうか、おそらくその時点では考えてもみなかったのだろう。だから、言われるままに手術を受け、結果として男にも女にもなりきれないカラダに戸惑うしかないのだ。

 

それでも、母親のパスポートでアメリカへ渡り、ヘドウィグという名でルーサーとの夢の生活を始めるが、ルーサーはすぐに若い金髪の少年に乗り換え、彼女はあっさり捨てられてしまう。しかも、ベルリンの壁が崩壊し、犠牲と引き換えに手にしたはずの自由にすら意味がなくなってしまうのだ。

 

夫がいる間は、地味な三つ編みのウィッグで、「可愛い妻」として振舞っていたヘドウィグだったが、失意の中、夫に以前もらった派手なウィッグを身につけ、厚いメイクアップで変身する。幼い頃から憧れたディーバたちのように。

 

「怒りの1インチ」のせいで、完全な女性になりきれないヘドウィグは、金髪のウィッグと赤い口紅で女性らしさを誇張しなければならなかった。そうでもしないと、失ったものが大きすぎて、自分が何者なのかわからなくなってしまうからだ。

 

 

映画の軸となる曲『愛の起源(Origin of Love)』は、プラトンの『饗宴』の中で、アリストパネスが語る「3つの性」がモチーフになっている。

 

古来人間は、頭が2つ、手が4本、足も4本ある丸い生き物で、その性別は3種類あった。太陽の子孫である「男男」、大地の子孫である「女女」、そして月の子孫である「男女」。傲慢が過ぎて神の怒りを買った人間は、ゼウスによってそれぞれ2つに切り裂かれてしまう。切り裂かれた人間たちは、自らの半身を探し求め、再び1つになることを切望する。これが愛の起源である、というのだ。

 

ヘドウィグは、自らの半身といつか出会うことを夢見ている。男でも女でもない不完全な自分にも、どこかに魂の片割れがいると思っているのだ。その片割れと出会うことで、自らは報われ、完全な状態になれると信じて歌うのだ。