ある日、ヘドウィグは冴えない少年トミーに出会う。ヘドウィグは、彼にロックンロールの手ほどきをし、曲の書き方を教える。才能を開花させるとともに、トミーはヘドウィグに想いを寄せるようになるが、彼は「1インチ」の存在を知った時、混乱して、彼女を拒絶し去っていってしまう。彼もやはり、彼女の「半身」ではなかった。

 

トミーは、『愛の起源』を自作の曲として発表し、スターになっていく。音楽を教えたのも私、ロックスターにふさわしい芸名を考えたのも、曲を書いたのも私、なのに脚光を浴びるのはトミーだけ。私は今も惨めなまま、傷だらけのコラージュ、とヘドウィグは歌う。

 

そうした怨嗟は、ヘドウィグの現在の「夫」イツハクにも向けられる。イツハクは元々、クロアチアのドラァグ・クイーン(注1)だったが、ツアー中のヘドウィグに拾われ、国を出るために結婚してアメリカへやってくるのだ。しかし、「夫」になると同時に、イツハクは女装を禁じられ、髭面で、頭にバンダナを巻いた、まるでガンズのアクセル・ローズのような装いを強いられる。ヘドウィグが自由のためにカラダを犠牲にしたように、イツハクにも犠牲を強要するのだ。才能への嫉妬もあったかもしれないが、それ以上に、イツハクが「望めばいつでも男に戻ることができる」ことに対しての嫉妬が、ヘドウィグがイツハクを執拗に虐待する理由なのだろう。イツハクをいたぶる事で、自らの境遇の惨めさを埋めようとしているのだ。

 

しかしイツハクは再び女装してステージに立つ夢を捨てられず、こっそりミュージカル『レント』のオーディションを受け、合格してしまう。イツハクは言う。「もう疲れたんだ。お前も疲れてるんだろ?」

 

イツハクは、最初は国を出るためにヘドウィグを利用したにすぎない。しかし、彼は彼なりにヘドウィグを愛している。身の回りの世話を焼き、意地の悪い仕打ちに耐えても彼女のそばにい続けたのは、他に行き場がなかっただけではない。イツハクは、ヘドウィグ自身も他に行き場がないことを、そして彼女が追い求めている物が、ただの幻だということを知っている。だから、彼がヘドウィグを見る目はいつも悲しげだ。

 

『レント』のエンジェルは、HIV陽性でありながら愛に生きる、劇中では幸せな役柄だ。イツハクがこの役を求めたのは、単にドラァグ・クイーンの役だからというだけでなく、出口のないヘドウィグとの関係に疲れ果て、偽りの自分から解放されるためだったのだ。

 

イツハクの「裏切り」に、ヘドウィグは激昂するが、その言葉によって、目を背けてきた自分の心の底を覗かざるを得なくなる。そして気づくのだ。今の姿は自分が本当に望んだものではなかったのだと。こんな自分にした元夫や母親やトミーを呪い、誇張や欺瞞で不完全な自分を繕うことに、どれだけの時間を費やしたかに気づいてしまうのだ。

 

その後、とあるスキャンダルにより、意図せずしてバンドは知名度を上げ、ヘドウィグは一躍時の人となる。テレビ出演も果たし、ライブは盛況になるが、ヘドウィグは満たされない。自分のライブを放り出し、トミーのライブ会場に迷い込んだヘドウィグは、トミーが歌詞を変えて歌う自らの曲『薄汚れた街』を聞く。

 

“君は運に見放されたと言うけど 空の上にはきっと空気しかないのさ

自然を超えた力も 運命の恋人も存在しないのさ”

 

 

この映画の人物は、誰もが完全な自分を求めて苦悩している。ヘドウィグはもちろん、イツハクも、そしてヘドウィグを愛しながら受け入れられなかったトミーでさえも。『愛の起源』の歌詞にある、ゼウスの稲妻に打たれて引き裂かれた半身は、他の誰かではなく自分のココロとカラダだったのだ。

 

ヘドウィグは、ようやく呪縛から解き放たれる。自らを完全な存在としてくれる運命の誰かを追い求めるのをやめ、そのままの自分として生きていくことを受け入れる。トミーを許し、イツハクを解放してやり、引き裂かれたココロとカラダに折り合いをつけるのだ。

 

 

カラダとココロはひとつであるようで、ひとつでない。どちらが主導権を取るかでいつも小競り合いをしているようなものだ。カラダに支配されるココロは窮屈だし、ココロの命じるようにはカラダは振舞ってくれない。生まれもっての容姿もそうだし、加齢によって思うように動けなくなることもそうだろう。

 

理想のカラダを語ろうとすると、とかくココロの側から見た理想に偏ってしまいがちだが、本当の意味で人が求めるのは、カラダとココロの間に齟齬がないことなのかもしれない。どのようなカラダであろうとも、ココロと折り合いが付けられるのであれば、それでいいのだ。

 

映画のラストシーンで、ヘドウィグは裸のまま夜の街へ彷徨い出て行く。足取りは赤ん坊のように覚束ない。なぜなら彼女(彼)は半身を欠いた不完全な人間ではなく、その存在そのものがすでに完全な1人の人間として、今まさに生れ落ち、歩き始めたところだからなのだ。

 

 

※この記事は、CIRCUS第2回特集「いいカラダ。」の記事です。

 

(注1) ドラァグ・クイーン(drag queen) 女装により女性性を過剰に演出する男性のこと。日本のLGBTメディアでは、違法薬物のドラッグ(drug)と混同されないよう「ドラッグ」ではなく「ドラァグ」と表記することが通例となっているので、文中では全て「ドラァグ・クイーン」に統一している。