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テーマが「レオナルド・ダ・ヴィンチ」となると、世界中の学者が血道を上げるのが常であるらしい。とにかく、レオナルドの研究や新発見となると、どんなにくだらない内容でもニュースになる。

先日ニュースになっていたのは、レオナルドの代表作『最後の晩餐』の絵の中で、イエス・キリストとその弟子たちはいったいなにを食べているのかが判明したというものだった。

レオナルドの傑作中の傑作『最後の晩餐』は、損傷が激しいことでも有名だ。イタリアの熟練の修復師と学者たちが執念にも似た二十年をかけて修復をしても、イエスと弟子たちの前に置かれた皿にはどんな料理が乗っていたのかは不明のままで、諸説珍説があった。今回のニュースは、特に目新しいものではなかった。イギリスのBBC放送の特集で訪れたジャーナリストのステファン・ゲーツが、「一部の学者が主張している、『ウナギの切り身にオレンジを添えたもの』に見える」と述べたというのがニュースの内容であった。

肉・魚を柑橘類で味付けする料理は、なんだかヌーベル・キュイジーヌを彷彿とさせるが、400年前のイタリアの宮廷では普通に供されていた料理である。

しかし、レオナルドはウナギを料理したことがあったのだろうか?彼が「料理男子」であったことは、数々の史料や手稿から明らかになっている。人体解剖でさえ行っていたレオナルドである。さぞかし見事にウナギもさばいたのでは、と勝手に想像して、レオナルド関連やイタリア食文化関連の書籍をあさってみたが、レオナルドとウナギの関係はついに見つけられなかった。

それで偶然見つけたのが、レオナルドと「米」の関係だった。レオナルドは、「米」から作る糊について記述していた。米を沸騰した湯に入れてゆでる。茹で上げたものを麻の布に張りつける。乾いたものが「非常に質の良い糊」として使用できるというものだ。化学薬品など存在しなかった当時は、ありとあらゆる植物や食材が画材として使われていた。最も有名なのが、卵を使ったテンペラ画である。

レオナルドはさらに、知性を必要とする言葉遊びゲーム「レブス ( Rebus )」の作成のさいにも、「米 ( Riso ) 」という言葉を使っており、彼の生活の中に米は確実に存在していたことを裏付けている。

 

ところで、レオナルドがミラノで活躍をはじめるのは1495年頃である。そして、米の生産がミラノ周辺ではじまったのはなんとそれよりわずか20年ほど前の1475年なのだ。

「米」の存在は、古代ローマ時代から「アジアの物産」として知られており、輸入品のひとつであったようだ。当時の「米」はだからイタリア半島の人にとって「舶来品」である。おもに「下痢止め」の薬として使われており、日常的な食材ではなかった。おもしろかったのは、我が家の娘が下痢をしたさいにかかりつけの小児科医に電話をしたところ、「とりあえず白いご飯 ( riso bianco ) でも食べさせて様子を見てください」と言われたことがあるのだ。2000年後の現代も、白米はヨーロッパでは下痢に効くとされているらしい。

 

話を戻して、1475年頃に、ミラノの公爵が「米」を自分の領地で栽培しようと決めたのは、湿地帯が多く耕地にできない土地をなんとかしたかったという非常に現実的な理由からであった。「米」の栽培法は、アラブ人からスペインにまず到達し、スペインの王族がナポリを支配下に入れたことからイタリア半島にも伝えられたと推測されている。このスペインの王族とミラノの公爵は何度かの政略結婚で縁戚関係にあったたことが、ミラノに米が伝えられた理由であろう。米は「水田」にしなければいけない。と言うことは、灌漑施設が必須である。湿地帯を整備したかった公爵には賭にも似た農業政策であったことだろう。

 

とろこで、収穫された「米」」のうまさに感動した公爵は、「米はわが領地からは門外不出」という法律まで出している。唯一、戦友であったフェッラーラの公爵にだけ12俵の米を送った記録がある。フェッラーラもポー川流域にある町で、湿地対策に頭を悩ませていたのだろう。いくら門外不出としても、一度流出した「米栽培法」は各地に拡散しはじめた。とはいえ、水の条件が厳しい米の栽培は、トスカーナより南には普及しなかった。乾いた土と空気のなかでは、米は育たない。降雨量が少ないローマでは、米料理はほとんど存在しない。日本でもよく知られている「リゾット」は、北イタリアの名物料理なのである。

イタリア人は、肥沃な土地であればパンの原材料である小麦を生産するのが通常である。湿地帯や貧しい土壌の土地には豆類などを栽培していたのに、米ならば他の農産物が不作の年でも収穫できたのだから、イタリア人は驚喜した。ミラノを州都とするロンバルディーアから、ヴェネツィアを州都とするヴェネト地方にまでその栽培は広がっていき、たくさんのレシピも生まれた。現在、ヴェネトの名物料理と言われている「グリーンピースのリゾット ( Risi e Bisi ) 」もこの時代に生まれ、ヴェネツィア貴族たちにことのほか喜ばれた。中産階級になると、魚のハゼから出汁を取ったリゾット ( Risotto di Go` ) をよく食したようだが、ハゼがあまりに不細工な魚であったため、上流階級は好まなかったそうだ。

 

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photo by julie west

 

ところで当時の米のレシピには、「ミネストローネ」と呼ばれるスープと「リゾット」の二種類が主流であった。ミネストローネには、米はスープの一具材として入れる。リゾットの法は、文字通り米が主役の一品だ。その違いは、リゾットのほうは米を先に入れておいた鍋にスープを加えて米を柔らかくしていくのに対し、ミネストローネのほうは先にスープを作り、食べる頃合いを計算して米をスープに投入するということにある。

料理家によると、食事の時間を計算してスープに米を入れるタイミングが非常に難しく、早すぎれば米は固いままだし、あまり長時間煮すぎると米はどろどろになってしまう。現代のイタリアの米料理の主流が「リゾット」であるのは、その調理法がより簡単であるというのも一因である。

 

ところで、米の生産がまだ珍しかった400年前は、米を食するのは上流階級だけであったようだ。収穫すれば必ず高く売れる農産物であったから、農民たちはこぞって「米」の生産をしようとする。

ところが、水田が増えると「蚊」が増える。それにより、水田周辺の町ではマラリアが大流行しはじめた。1600年代にはいると、水田から発する空気が「マラリアの原因」という迷信が普及し、米の生産を禁止する領主も現われた。キリスト教会や修道院も、同様の理由から米の生産にストップをかける。

米の栽培と病気の関係が潔白と証明されたのは、なんと20世紀の初頭まで待たなくてはならなかった。潔白を証明したのは、フランス人の病理学者シャルル・ルイ・アルフォンス・ラブラン (Charles Louis Alphonse Laveran ) とイタリア人の病理学者カミッロ・ゴルジ ( Camillo Golgi ) で、二人ともノーベル賞受賞者である。

ところが、米の栽培に問題がなくなったとたんに、皮肉にもイタリアの水田の稲は葉枯病で総薙ぎとなる。ある説に寄れば、この時点でイタリア半島にレオナルドの時代から栽培されていた稲は絶滅したとも伝えられており、古文書に残るレシピの米と現代の米は種を異にするため、現在の米が普及した時点で古来から愛されてきた「米のスープ」のレシピが廃れ、「リゾット」が主流になったという説もある。

実際、現在「イタリア料理」として残る「リゾット」のレシピは、近代になって普及したものがほとんどである。米の種の大半が入れ替り、調理法も工夫をしないと以前ほど米をおいしく食せなくなったのだろう。

 

1955年に文学者でエンジニアでもあったカルロ・エミーリオ・ガッダが著わした『米とリゾット』によれば、リゾットに使用される米はマントヴァやパドヴァで生産される粒が大きい米を使うべし、とある。

これに、黄金の色を料理に表現できるという理由でヨーロッパ人に愛されてきた高価な「サフラン」を加えたのが、現在の「ミラノ風リゾット ( risotto alla Milanese ) 」である。

 

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photo by cyclonebill

 

当時、料理の色は非常に重要視されており、キリスト教会では「純潔」の色とされていた「白」を料理で表現するために、牛乳やアーモンド、鶏肉や砂糖が珍重されていたらしい。これに、「米」も加わることになる。レオナルド・ダ・ヴィンチよりも一世代前のルネサンス人で当時のカリスマ・シェフであったマエストロ・マルティーノ・デ・コモ ( Maestro Martino de Como ) は、「白」を表現するために当時の料理に大量に使われていた牛乳やラードを避け、米や鶏肉のスープを使ったあっさりした料理を提唱している。たかだか料理人、といっても立派なルネサンス人であったマルティーノ・デ・コモは、当時の貴族たちが大枚をはたいてオリエントの香辛料を購入することも「理不尽」と考えていたようだ。

身近にあるローリエ、ローズマリー、マジョラムなどを料理に加えて、地産地消を唱えた最初の料理人でもあった。著作『料理術 ( Libro de arte conquinaria ) 』は、当時のエリートたちが使ったラテン語ではなくイタリア語で記されており、そのイタリア語も料理同様、シンプルでわかりやすい文体となっている。

そして当時の料理本としては画期的にも、調理時間が明記されているのが特徴だ。とはいえ、時計など普及していなかった当時、調理時間はキリスト教徒ならば誰でも知っている「主の祈り ( Pater Noster )」を唱える回数であったというのがまた愉しい。

マルティーノ・デ・コモは、米をよく砕いて粉にしたものを材料として使用していることも多い。「ブラン・マンジェ」というフランス語の冷菓があるが、イタリア語では「ビアンコマンジャーレ」と呼ばれたそれは実は「白い食べ物」の総称で、中世では甘いお菓子のみではなく白い食材を使った料理全般を指していた。マルディーノ・デ・コモのレシピにも、「米粉」と山羊の乳を使ったゼリーや、「米」と「米粉」双方を使ったミネストローネなどが残されている。「米粉」を使用することで、スープやリゾットはよりクリーミーになるというのが理由だ。

マルティーノ・デ・コモは北イタリアの出身で、イタリア各地の宮廷に仕えていた。レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノ入りする数年前までは、ミラノの貴族ジャン・ジャコモ・トリヴルツィオ ( Gian Giacomo Trivulzio ) という傭兵専属コックとなっており、二人が直接出会う機会はなかったまでも、マルティーノがミラノの宮廷に残した米のレシピを味わう機会はあったかもしれない。

 

日本人の私にとって、「リゾット」は「おじや」みたいな意味で食する。ただ、大粒の米を使うゆえ、リゾットの米は芯にザラッとする食感があり、繊細な日本の米を愛する者にはいただけないシロモノである。

イタリア人は夏になると、「米サラダ ( Insalata di riso ) 」なる料理をよく食べる。米をゆでて水で洗い、トマトや酢漬けの野菜、オリーブ、魚のオイル漬けなどと混ぜて食べる料理だが、混ぜるものは各家庭で異なる。育ち盛りがいる家庭では、シーチキンやウィンナー、マヨネーズまで混ぜてしまう。茹でたあと水洗いした米を使うこの料理、日本人が愛する米の粘りなどみじんもなく、私は米への冒涜だと思いいつも麦で代用している。

日本から持参した炊飯器でイタリアの米を炊くには、「原種米 ( Riso originario ) 」という比較的小粒の米を選ぶ必要がある。「原産種の米」とあるのだから、イタリア半島に伝わった本来の米かと思いきや、500年の歴史のなかで米はさまざまな困難の時代を超えてきており、レオナルドの時代の米は現在では食することは不可能になっているのである。

 

参照元

http://www.huffingtonpost.it/2016/07/02/ultima-cena-da-vinci-dettaglio_n_10783062.html

・Leonardo non era vegetarian Oscar Farnetti 監修 Maschietto Editore 刊

・Il Genio del gusto Alessandro Marzo Magno 著 Collezione Storica Garzanti 刊