ここ数年、ホテルやクラブなどで、70年代から80年代の曲をかける大人向けのディスコイベントが催されるようになった。これが結構盛況なのだそうだ。当時ディスコ通いをしていた世代が、遊びを求めて集まるのだという。正直言って、すごく興味がある。

行ってみたいとも思うのだが、ちょっと怖い。私は当時のディスコには行ったことがないからだ。今のクラブがどうなのかは知らないが、70年代のディスコは「不良の遊び場」というイメージが強く、フツーの子どもだった私が足を踏み入れるような場所ではなかった。ではなぜそんなに興味を持つのかというと、私は当時のディスコでかかっていたソウルやファンクが大好きだからなのだ。

 

小学生の頃、両親にテレビは夜9時までと決められていた。その当時は、9時以降は大人の時間という感じで、放送されている番組も大人向けだった。下ネタや下品なギャグもあれば、ドラマのラブシーンではバストトップ丸出しのセミヌードくらい当たり前だった。大人向けとはいうものの、こうした番組こそバカな小学生の大好物だ。それほど家が厳しくない男子が、翌日の教室でこの手の番組の話をするだけで、ちょっとした人気者になれた。それを横目に、「男子ってイヤねー。」などと言いつつ、実は聞き耳を立てていたりするのが女子なのである。

 

そんな私が、9時を過ぎてもテレビを観ていて許されたのが、祖父母の家だった。祖父は練馬で和菓子店を営んでいて、ちょくちょく一人で泊まりに出かけていたのだ。店をやっているから、翌日のための仕込みや、帳簿付けなど、遅くまで何かと仕事がある。その間テレビはつけっぱなしで、特にすることのない私は店の包装紙の裏に落書きなどしながら、ずっと普段見られない大人のテレビを眺めていたものだった。

 

11歳くらいの頃だと思うが、いつものように祖父母の家でテレビを観ていたら、それまで観たことのないような番組が始まった。縮れた髪をモコモコ膨らませた黒人の男女が、ブラウン管の中で踊っている。派手なスーツの司会者も、紹介されて出てくる歌手やバンドも、みんな黒人だ。それが『ソウルトレイン』だった。

 

 

『ソウルトレイン』は、アメリカでは1971年から30年以上に渡って放送された人気音楽番組で、毎回何組かのゲストが登場し、その演奏(口パクだったけれど)に合わせて、ソウルトレイン・ギャングと呼ばれるダンサー達が、ダンスを披露するというものだった。日本では、この当時だけテレビで放送されていた。

 

そのダンスも、流れている音楽も、小学生の私には初めて目にするようなものばかりだった。そもそもテレビでさえ、黒人を目にすることなどめったになかった頃だ。さらに、途中で流れるアパレルブランドJUNのCMもお洒落で、衝撃だった。私はその大人の世界にすっかり魅了され、さすがに毎週ではなかったが、泊まりに行くたび『ソウルトレイン』を喜んで観るようになったのである。

 

 

それぐらいの歳になると、同級生の中にも洋楽を聴く子が増えてくる。男子はレッド・ツェッペリンやキッスのファンが多く、女子にはベイ・シティ・ローラーズや、オリヴィア・ニュートン・ジョンが人気だった。そんな中で、私が初めて買った洋楽のドーナツ盤はスタイリスティックスの『Only You』だ。今でもジャケットの写真を覚えている。50年代風のジュークボックスにもたれて微笑むアフロヘアの黒人女性。なぜ50年代風かというと、1955年に発表されたプラターズの曲のカバーだったからだ。つまり、その時点ですでに懐メロだったのだ。

 

 

スタイリスティックスは、70年代に活躍したフィラデルフィア・ソウルのコーラスグループで、リードシンガーのラッセル・トンプキンスJr.のファルセットボイスが最大の売りだった。その声で、元々はいかにも50年代風だった『Only You』を、ベトベトに甘く華やかなスウィート・ソウルに変えてみせたのだ。もちろん、小学生当時はそんなことは知らない。ただその曲が気に入ったから買っただけだ。レコード店で手に取るまで、スタイリスティックスが黒人グループであることすら知らなかったのだから。

 

さすがにそれでは同級生と話が合わなさすぎるから、一方でベイ・シティ・ローラーズも追いかけつつ、ラジオでひっそりとソウルを聴いていた。FEN(現AFN、在日米軍向け放送)で、タイトルは忘れたが1時間ソウルとファンクだけの番組があって、全部英語で何を言っているのかさっぱりわからなかったけれど、よく聴いたものだ。

 

 

 

70年代末になり、ディスコ全盛の時代がやってきた。78年公開の『Saturday Night Fever』は日本にも一大ブームを起こした。ビージーズの『Stayin’ Alive』は今でも知らない人がいない程の大ヒット曲になったが、私はそれほど好きにはなれなかった。ご存知の通り、ビージーズは白人の兄弟トリオだ。ディスコサウンドにはなっているけれど、なんとなく味が薄いというか、物足りない。映画で使われた曲なら、タヴァレスの『More Than A Woman』やイヴォンヌ・エリマンの『If I Can’t Have You』の方がはるかに好きだ。さらに、この頃はミュンヘン・サウンドといってヨーロッパ系グループによる曲が人気だった。ボニーM、アラベスク、ジンギスカンなどが大ヒットしていたが、これもあまり好きではなかった。安っぽいと思っていた。ストーンズやロッド・スチュワートなどの白人アーティストたちもこぞってディスコサウンドに手を出し始め、まさに世の中ディスコ一色といった感じになった。

 

この当時、アメリカの公民権法の制定から、たかだか20年も経っていなかったことを考えると、黒人も白人も同じフロアで、同じ音楽に身体を揺らすディスコの盛り上がりは、単純に楽しいから、ということを超えた意味があったのかもしれない。番組の開始当初は黒人アーティストしか出演していなかったソウルトレインにも、ときおり白人アーティストが出演するようになっていった。

 

『ソウルトレイン』で、ソウルやファンクに出会ってしまった私は、ディスコに興味津々だった。そこではきっと、ソウルトレインギャングのように、思い思いのファッションに身を包んだお兄さんお姉さんが華麗な踊りを繰り広げているのだろうと、ワクワクしたものだ。しかし、いかんせん小中学生に出入りできるような場所ではない。せいぜい憧れを募らせながら、自分の部屋でなんちゃってディスコダンスを踊るのが関の山だった。

 

 

そうこうするうちに、私は大学生になった。パーマをかけて聖子ちゃんカットにしたり、ハマトラが流行って女子全員ハイソックスにミハマのフラットシューズを履いたりしているうちに、堂々とディスコに出入りできる歳になっていたのである。

 

初めて行ったのがどの店だったか、よく覚えていない。六本木のロアビルかスクウェアビルの中にあったどれかだと思う。友達に連れられて行った念願のディスコだったはずなのだが、これが全然おもしろくなかった。ディスコのトレンドはすっかり変わってしまい、流れていたのはマイケル・ジャクソンやジャーニーで、フロアでは似たような服を着た大学生とサラリーマンとOLが足踏みのように踊っているだけだったのだ。その頃には千葉県の奥地に引っ越していて、終電に乗るためにはフロアが盛り上がる前に帰らなくてはいけなかったというのもあって、なんとも満足のいかない結果だった。

 

 

その後も何度かディスコに足を運んだが、毎度そんな感じだったので、私はいつのまにかディスコに興味を失ってしまった。バブルが訪れ、ボディコンとジュリアナの時代になっても、お立ち台に乗ることも、ジュリ扇を振り回すこともなかった。私が憧れていたのは、70’Sのソウルやファンクが流れる、あの『Soul Train』のような世界なのであって、ユーロビートやテクノで踊りたかったわけではないのだ。

 

 

そんな理由があって、大人向けディスコイベントとやらに興味津々だった私だが、一度テレビのニュース番組で、そうしたイベントに集う男女の特集を観たのだ。年齢相応に貫禄の出た体つきのお姉さま達が、濃い目のメイクと露出やや高めのドレスに身を包んで集まってくる。漂う威圧感。女豹感ハンパない。私にあれができるかと考えたら、なんだか気持ちが萎えてきた。かといって、地味な服を着て行って、踊りもしないで眺めているなら壁の花どころか壁のシミである。どうやら憧れは憧れのままにしておいた方が良さそうに思うのだ。