「へえー。ウィーンのオーケストラで働いているんですね!どちらオーケストラにお勤めなんですか?」
「トーンキュンストラーオーケスターニーダーエスタライヒです。」
「えっ、、?」
「トーンキュンストラーオーケスターニーダーエスタライヒ。」
「あっ、、、。そう、なんですねー。。。」
現在働いているオーケストラに移籍してからというもの、何度と繰り返されるこのやりとり。
うちのオーケストラは名前がやばい。
ヘタすると、リハーサルしないと発音できないレベルである。
ウィーンフィルとか、ウィーンシンフォニカーに勤めている人は、このやりとりと無縁なのかと思うと、心底羨ましい。
こんな早口言葉みたいな名前にするんだったら、もっと潔く「モーツァルトオーケストラ」とか「シュトラウスオーケストラ」とかにしといてくれたらよかったのに、なんて恨めしく思うことすらある。「東急ストアにお勤めなんですね。」と言われたことがある、私の身にもなってほしい。
もちろんこの名前、意味がないわけではない。
「トーン」はドイツ語で音、「キュンストラー」は芸術家を意味する。
だから「トーンキュンストラー」というのは、「音の芸術家」という意味。
こうやって訳してみると、まあまあ綺麗である。
だから名前で苦労するのは、日本人が相手の時だけかというと、そうでもない。
「トーン」にはドイツ語で音という意味以外にも、粘土という意味もあるので、「トーンキュンストラー」というと、「陶芸家なんですねっ。」と茶化されてしまったりするのだ。
自分の名前が古典的な名前なため、このオーケストラに就職する前はこういった苦労は全くなかったのだが、今はキラキラネームを持つ人たちの気持ちが、若干わかるような気がする。
今日は、そんなちょっぴりややこしい名前を持つ私のホーム、「トーンキュンストラーオーケスターニーダーエスタライヒ」のお話。
ウィーンのオーケストラじゃないんだよ
「ニーダーエスタライヒ」とは、オーストリアの州の一つである。日本語では、下オーストリア州なんて訳されたりする。小さなウィーン州をぐるりと取り囲む、オーストリアで2番目に人口の多い州だ。
トーンキュンストラーオーケストラは、このニーダーエスタライヒ州のオーケストラなのである。
そう、ウィーンのオーケストラではないのだ。
日本では、「ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団」なんて訳されたりしてしまっているのだが、まあ、それは千葉にあるディズニーランドが、東京ディズニーランドと言われている程度の誤差だと思えばいいだろう。
オーケストラの事務所があるのは、ウィーンでなくニーダーエスタライヒの州都、ザンクト・ペルテン。ここに私たちはモダンなホールを持っている。
客席の椅子のデザインが若干ダサいコンサートホールではあるが、オペラを弾くときは大きなオーケストラピットも出現するし、斬新で挑戦的な企画も多く、面白いことをたくさんやっている場所だと思う。
厳密にいえば、私たちの本拠地はこのザンクト・ペルテンである。いや、もっと厳密に言おうとすれば、私たちの本拠地は、ザンクト・ペルテンとウィーンとグラフェネッグの3か所である。
夏の本拠地、グラフェネッグ
ウィーン中心部から車で北西に約50分ほど走った場所に、グラフェネッグという場所がある。市街地からたった50分でこんなに田舎になるのかと思うくらい、見渡す限りのトウモロコシ畑やひまわり畑が広がる、広大な自然の残る場所で、ところどころにホイリゲと呼ばれる自家で新酒を製造する、居酒屋兼宿屋が営業している。
そんなグラフェネッグには、シンデレラ城のような真っ白でエレガントなお城が建っている。お城の庭の緑の芝生は、手入れが行き届いていてどこまでも青く、夏には色とりどりの花が咲き乱れる。クリスマス前の週末には、ため息のでるほどロマンチックなクリスマスマーケットが開かれたりする。
その庭の一部に、ガーデンパビリオンのようなオープン・エア・コンサートホールが建てられたのは今から10年前の2007年のことだ。
ここが、私たちトーンキュンストラーオーケストラの夏の本拠地である。
ヴォルケントゥルムと呼ばれる、このコンサートホールの観客席は1700席。東京オペラシティくらいの大きさはあることになる。それプラス「芝生席」が300席あるので、天気が良い日の収容力はサントリーホール並みだ。
この「芝生席」こそがグラフェネッグのコンサートの醍醐味だと、私は密かに思っている。
夏の晴れた日、コンサートはまだ明るいうちから始まる。
芝生席にピクニックシートを敷いて、家族や恋人たちと並んで寝そべり音楽に耳を傾ける。
コンサートが中盤に差し掛かる頃に、陽は傾いてくる。空は柔らかい青からワイングラスの底の液体のような紫へ、そして暖かい赤色へと彩りを変えていく。
陽が完全に沈むと、時には爪痕のような三日月が、時には豊かな満月が空に昇り、お城とコンサートホールを優しく照らす。通り過ぎていく風は、日中の暑さが嘘だったかと思われるほど涼しい。
グラーフェネッグでは、音楽と自然が一体となった、ロマンチックな体験のできるコンサート会場なのだ。
とは言っても、まあもちろんいいことばかりではなくて、雨が降ったらオープン・エアのコンサートは不可能なので、オーディトリウムと呼ばれる室内コンサートホールで演奏されることになる。夏なのになぜかめちゃくちゃ寒い日に演奏会があたってしまうと、毛布にくるまって音楽鑑賞する羽目に陥る。(毛布はちゃっかり会場で販売している。ベテランは家からすでに持ってきている。)ドナウが氾濫して蚊が大量発生した2013年には、頭からつま先まで蚊除けスプレーをふりかけて演奏をしたこともあったし、演奏会途中で突然大嵐がやってきたため、オープン・エア・コンサート会場から奏者と観客全員が、室内会場にぞろぞろと大移動したこともある。
ヨーロッパの夏は、天気が安定していることが多いので、こういうことは稀ではあるが、まあ、自然相手なのだから思うようにいかないこともある。トラブルも忘れがたい思い出として、楽しんでしまうことが一番なのである。
ウィーンの本拠地、楽友協会
私が、このオーケストラで弾いていて、特に恵まれているなあ、と感じることの一つに、ウィーン楽友協会でリハーサルやコンサートができるということがある。
ウィーン・フィルがニューイヤーコンサートを弾く会場として、日本でもとても有名なこのホール。柔らかく繊細な響きが、とても魅力的である。
トーンキュンストラーオーケストラは、平日は夜に、日曜日には午後に、楽友協会の黄金のホールと呼ばれるコンサートホールで演奏する。
窓のあるコンサートホールって、結構少ないのではないか、ということに私が気がついたのは、初めて黄金のホールで、午後に演奏した時のことだ。
窓から差し込んだ太陽の光がホールに満たされて、空間全体が金色に輝いているのを目にしたときは、自分が宝石箱の中にいるのではないかと思ったほどの美しさだった。
視覚的にも音響的にも神がかりてきなこのホールだが、弾き心地も最強かと言われると、若干微妙な点もある。大きなオーケストラにとっては、楽友協会の舞台はかなり小さめだし、スペースの問題でひな壇にのって演奏しなければならない時なんかは、指揮者か楽譜、どちらかしか見ることができないという究極の選択を迫られる時もある。
椅子や指揮台は、相当年季が入っている、というかぶっちゃけボロい。
インテリア関係の仕事をしている私の夫に至っては、初めて楽友協会でトーンキュンストラーのコンサートを見に来た時、
「えっ!?あの椅子は何?あの指揮台はどうしたの!?ウィーン・フィルもあの椅子で弾いてるの!?」
と完全にパニックに陥っていた。
いや、ウィーン・フィルはピカピカの社長椅子で演奏して,トーンキュンストラーはボロい椅子で演奏会とか、そんなリアル格付け番付は、さすがに存在していない。
どのオーケストラが演奏しても、椅子は平等にボロいのである。
でも私、実はあのボロさが風情だと思っている。
この傾いた椅子に、どんな大スターバイオリニストが座ったか、あのグラグラ揺れる指揮台に、どんな有名指揮者が立ったのか、そう考えてワクワクするのは、私にとってなかなか楽しい時間なのだ。
遊びにきてね
現在は、日本人の音楽監督を迎えているということもあって、トーンキュンストラーオーケストラは、日本人のソリストを呼んだり、日本ツアーをするなどして、日本との関わりを増やしている。若い優秀な団員たちが次々に入団して、進化しつつあるトーンキュンストラーオーケストラニーダーエスタライヒ、機会があれば一度ぜひ演奏会に遊びにきてほしい。
ただし、チケットを電話で予約する際は、噛まずにオーケストラ名を言えるように、リハーサルをお忘れなく。