テレビや映画で、マイノリティをキャストに配置するように取り決められたのは俳優組合の力によるものだ。それと同じことを警察組織に対してやろうとすれば、そこには政治的な力が必要になる。デモ行進をして、賛同してくれる「白人の」政治家を待つよりも、黒人の権利を代表する政治家が出てくればいいはずなのだが、ことはそんなに簡単ではない。黒人社会自体が、この状況をなかば諦めてしまい、低層に甘んじてきたとも言えるからだ。

 

60年代の公民権運動の際、ジョーン・バエズやボブ・ディランなどのアーティストが賛同を示したことは知られているが、Black Lives Matterでも、ヒップホップやR&Bのアーティスト達が、この問題を取り上げ始めている。中でも、ケンドリック・ラマーの『Alright』は、BLMのアンセムとなり、デモの際にその一節『We gon’ be alright』がコールされるほどになった。

 

 

警官なんて大嫌いだ

俺達をストリートで撃ち殺してやろうとしているのさ

俺は教会のドアの前に立っている

膝がガクガクする 銃が火を噴いちまいそうだ

でも俺達は大丈夫

 『Alright』

 

全然大丈夫じゃない。むしろ鬱々とした曲だ。ギャングスタ・ラップの聖地と言われるカリフォルニア州コンプトンで、環境に染まらずまともに生きてきたラマーは、単に警官の横暴を非難するだけではなく、自分たち黒人の自尊心の低さも問題なのだと言う。雑誌のインタビューで「自分たちをリスペクトできなくて、どうやって他人にリスペクトしてもらうことができるんだ?」と発言し、それを白人擁護と解釈した人たちの批判を浴びた。

 

「サーカスの象のジレンマ」というのがある。子象の頃から鎖につながれて育ったサーカスの象は、成長して鎖が断ち切れる力を身につけても逃げようとしない、というものだ。黒人は、もう奴隷として鎖につながれているわけではない。いまだ差別はあるだろう。だが公民権法制定後50年の間に、本来ならもっと遠くまで行けたはずなのではないか、それを差別が消えないからということだけで片付けていいのか。ケンドリック・ラマーのメッセージはそこにあるのだと思う。今そこにあると思っている境界線は、もしかしたら自ら引いているものかもしれないのだ。

 

 

先ごろ亡くなったプリンスが創設に関わったNPO団体である#YesWeCodeは、貧しい黒人若年層にプログラミング技術を教える活動を行っている。フロリダの少年が射殺されたのは、彼がパーカのフードをかぶっていたからだ、という話を聞いたプリンスが、「黒人がフードをかぶっていたら犯罪者扱いで、白人だったらマーク・ザッカーバーグ(Facebook創始者)になるのなら、黒人版マーク・ザッカーバーグが生まれればいいんじゃない?」と言ったのが、#YesWeCode発足のきっかけだった。

 

他の職種に比べ高給が見込める技術職は、白人の就業率が高い。貧困層が通うパブリック・スクールにはコンピューターを教える設備がないからだ。#YesWeCodeは、活動を通じて、10万人の黒人若年層が技術を習得し、安定した職に就けるようにするのを目標とする。そして、そこで教育を受け社会に出た若者たちが、次の世代のロールモデルとなることまでを期待している。

 

BLMのデモで『Alright』をコールするのは、「相手」を変えようとする行為だ。#YesWeCodeの活動は「相手」ではなく「自分」を変えることで、失われない自己肯定感と、自分たちを尊重せざるを得ない「影響力」の獲得を目指す。サーカスの象に鎖を断ち切って逃げられることを教えるのだ。

 

 

70年代前半に人気を博したブラックスプロイテーション映画は、売人やポン引きなど、悪い黒人のステレオタイプを多く扱ったことから、黒人地位向上団体からクレームを受け、80年代には作られなくなった。しかしそのイメージは今でも払拭できずにいる。ティーンエイジャーの子を持つ黒人の親は、子どもがフード付のパーカを着て外出しないように注意しなければならないのだから。

 

11月、ドナルド・トランプが次期合衆国大統領に選出された。彼は仕事がないのは黒人やムスリム、ヒスパニックの移民たちのせいだと主張して、白人の労働者層の支持をとりつけた。こうした低所得の白人労働者層は、とかく粗野で無教養だと揶揄される。彼らも黒人同様、悪いステレオタイプに押し込められ、置き去りにされた人たちだ。

 

マイノリティ同士を反目させる一方で、アメリカの富のほとんどを一部の富裕層が占めている事実、そしてそこにはトランプ自身も含まれるという事実は巧みに伏せられている。差別がいつまでも消えない背景には、そうした対立構造を維持した方が得をする人々による操作が潜んでいるのではないかと思うのは勘ぐりすぎなのだろうか。

 

人間である以上、何らかの差別的感情を抱いたことがない人はいないと思っている。自分はそんな感情を微塵も持たないと宣言する人のことを、私は信用しない。人は常に自分と他者の位置関係を考えながら生活しているはずだからだ。だから差別はしかたないと言うのではない。人はそういうものだと自覚する必要があると言っているのだ。個人の感情と、社会の問題を切り離して考える訓練をしておかないと、わかりやすい旗印を掲げた誰かに利用されてしまうのだ。私は、最近やたらときな臭くなった自分の国のことを思う。これは他人事ではないと。

※この記事は特集「世界には輪郭なんてない」の記事です。