「国境とは、コミュニティの牢獄みたいなもの」

-ここドイツには多くの難民がいますが、皆国境を沢山越えてここまでやってきました。世界が国境で分けられているということに関して、どう思われますか?

第二次世界大戦の時には、多くの人々が難民としてヨーロッパを抜け出しました。誰かが「自分はヨーロッパに居る難民達が嫌いだ」と言うのを耳にするとき、とても哀しくなります。彼ら自身の祖父に戦時中どのように生き抜いたかを聞けば、彼らもかつては難民だったことを語るでしょう。自分の住む土地が破壊されたなら、どこへ行けば良いのでしょう?ただあなたの場所に来て、安全な場所を求めてドアを叩いているだけです。もちろん、難民たちは自分たちの居るコミュニティを最大限に尊重しなければなりませんが。

国境というものはどこにでもありますが、わたし自身はそれを正しいものだと考えてはいません。虚構のようなものです。争う人々の間には、どこにでもいくつでも線が引かれる。ある地域を支配して力を行使したいと願う人々が、人種や宗教・イデオロギーによって区別し差別を始める。あるグループと別のグループの間に、わざわざ違いを見つけ出して差異を作り上げようとすることは、とても醜いアイディアです。国同士だけではなく人々や文化、映画産業やアートビジネスにも境界線はあり、それはわたしには愚かに感じられます。それでも、わたしたちはこの強力でシャープなシステムの中に生きている。

-シャープなシステム?どういうことでしょうか?

シャープな仕組み、それは人々を肌の色、宗教、地域・・・様々な理由によって分割しようとするシステムです。

国境は軍隊を意味するものでもあります。境界線があるのならば、その内側を守る為の軍隊がなければならない。内側にコミュニティが生まれるのであれば、そこを支配するための警察や組織が必要になる。

-ある学者は「ボーダーレス主義は偽善的で、無駄である」と言います。いずれにせよ、人々には違いがあることは否めません。あなたが「国境は虚構だ」と言うのならば、「違い」同士はどうやって上手くやっていけると考えますか?

シリアに関して言えば、100年前はレバノンもパレスチナもシリアも一つの国でした。征服者達が国を4つに分割し、争うようになり、今はシリアがさらに分けられつつある。

-「違い」そのものより、「分割」が先にあったのだと?

ええ、ここベルリンもそうですよね?同じ人種、宗教、民族、思想の人々が暮らしていて、ある日東西を分ける壁が築かれ、後にかつてなかった差異が生まれ、自分の属さないコミュニティを疎むようになった。

イラクやイスラエル、朝鮮半島・・・人を支配しコントロールしたいと思う醜さが、いつもボーダーを創ろうとします。それは権力を誇示する方法であり、資源や人々を取り去ることであり、そうした理由の為に国との間に国境が存在することになります。EUも最近分裂しつつありますしね。英国はEUを去り、もしかしたらまた4つの国に分かれるかもしれません。

上手く言えないのですが…わたしにとって「国境」とは、争いであり、武器であり、利権であり、差別であり、悪魔的な考え方に思えます。皆がお互いを恐れている。自分が知っている以外のコミュニティや価値観を信頼せず、理由も無く対抗する。

国境は、牢獄みたいなものですね。

-牢獄?

コミュニティの牢獄です。

わたしはシリアで生まれ、「イスラエルと闘わなければならない」と教えられて育ちました。実際には一人のイスラエル人にも、会ったことも話したこともないのに関わらず。彼らについて何一つ知らず、生き方も在り方も知らず、ただTVのプロパガンダが全てでした。イスラエル側にしても同じで、パレスチナやアラブ世界に対抗して育って来た。ベルリンに来て初めてイスラエルの人々と出会い、その一人は親友になりました。

国境とはわたしにとって、そういったものです。もしある国境の中にいるのならば、正しいと考える概念をそこで選ぶことになります。神を選ぶと言っても良い。そうして、他の神を信じることはありません。境界線について語るのならば、それは新しい神であり、新しい政治的主張であり、新しい文化であり。自分がパーフェクトな共同体にいるのだと思うならば、次に待っているのは、自分とは違う価値観との争いです。同じ土地やルーツを持っていたとしてもね。

-「神を選ぶ」とおっしゃいましたが、中東における衝突や内乱は多くの場合、宗教も関係していますね。

確かにシリアでは今、神について争っています。それぞれの体制や関係機関に神がいる。ヒズボラ(シーア派武装組織)の神はISISの神とは違い、トルコ、アメリカ、ロシア、ヨーロッパ…それぞれ違う神あるいはイデオロギーを掲げていると言えます。その「神」は「自由」と関連して語られるものですが…現時点において、「自由」の正しい意味を理解している人は誰もいません。デモに参加するシリア人たちは「我らに自由を!」と叫びます。しかしながら誰もその意味、自由の境界線と限界を知らないでいるのです。各組織や体制は力の及ぶ範囲を定め、人々に「ここからあそこまでが、お前の自由だ」と押し付けようとします。ヒズボラにも、ISISにも、反体制派にも、それぞれの神が定めた自由のリミットがある。わたしにとってシリアの内戦は宗教や力の衝突であり、それらがいかに虚構であるかを示すものです。

-その衝突を解決するには、何が鍵になるのでしょうか?

この世界のシステムを壊すことです。もしあなたが「システム」の外に出てしまうならば、きっとホームレスになって地下鉄で眠ることになるでしょう。シリアの問題も、宗教の衝突も、経済生活の課題も争点は同じです。力と、ゲームと、フェイクと、競争のシステム、そこでわたしたちは生活しています。

ISISを生み出したのは誰か?ー みんな、なのです。

では、どうやってシステムを壊すか?ー それはとても複雑な問題で、今は分かりません。

わたしに出来ることは、ただ映画を作ることだけです。

 

芸術にもフラストレーションがある。「自分が映画をどのように扱うか、何をするか、何処に向かうのかに注意深くあるべきだ」

 

映画の中で「故国、それ以上に美しい言葉が有るだろうか?」と言っていた老人の姿が印象に残りました。あなたは今ドイツで生活していますが、シリアを母国として意識しますか?将来どうなって欲しいですか?

もちろん、わたしはシリアで生まれ育ちましたし、記憶の全ては今もそこにあります。この騒乱が早く終わり、国を建て直すことができるよう願っています。今話してきたような醜い境界の全てを取り去り、復讐しあうことなくマインドを開くことを。

日本も広島を筆頭に大変な爆撃を受けて、第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けましたね。それでもゼロから立ち上がり、諦めることなく国を作りながら成長してきた日本人の姿をとても誇りに思います。シリアも日本から国を立て直すことを学べるでしょう。そして破壊された土地を再生するには、下心の無い誠実なサポートとポジティブな支援が欠かせません。

-では、最後に。エンドロールでは「カメラだけが、自分の取る唯一の武器であると宣言する」と謳っていましたね。映像の持つ力で、どのように世界と関わっていきたいですか?

“The Immortal Sergeant”を50近くの国際映画祭で上映してきて、自分に問いかけてきたことがあります。

「フェスティバルでの上映に人々は感銘を受けたり感動したりするが、彼らは家に帰ればそれを忘れるだろう。

映画の中に記録された非情な現実は無くなることはなく、今も続いているだろう。

では何故映画を作るべきなのか?リッチな人々が観て、ブラボーと賞賛するため?

ベトナムの少女の写真は世界をロックし、やがて戦争を終わらせることができた。けれども、何千枚ものシリアの写真も映像も、この戦争を止めることが出来ていない。

アートは、わたしたちは、何が出来るのか?」

答えからは未だ遠く、これは芸術の持つフラストレーションであり、ここにも境界と限界がありますね。来年のベルリン国際映画祭でも作品を上映予定ですが、映画際もビジネスというシステムの一部であり、わたし自身もそれに組み込まれています。ですから自分が映画をどのように扱うか、何をするか、何処に向かうのかに注意深くあるべきだと思っています。

それでも、映画づくりはわたしの愛する仕事です。人々に、TVやソーシャルメディアとはまた違った観点から真実を伝えたい。自身のアングルや視点、フォーカスする物語を見せることに成功したい。世界の人々のスタンスを、ほんの少しでも変えられるように。

※この記事は特集「世界には輪郭なんてない」の記事です。

 

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Ziad Kalthoum

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