結婚とはなんぞや?

 

自分は「事実婚のススメ」的内容の著作を2冊(http://amzn.asia/hvxJIjb http://amzn.asia/eQSsSpp )も書いている人間であるため、読者からはさぞかし「結婚否定論者」と思われているだろうと思う。と、思う。

 

しかし。

 

生殖のためのパートナーシップ。

と、原点に還ると途端に、話は酷く簡単になる。

本来はそれ。

 

んなことは犬でもライオンでも営んでいる、ヒトも同じく哺乳類、彼らに習って本能的に生きよ。その際には、オス同士で皮膚食いちぎる勢いの闘争が勃発することもまあ、厭うまいよ。あるいは、群れの乗っ取りによりオスが刷新されたならば、旧来の子種らはメスが食い殺すべし。などなど。

 

幸か不幸か、ヒトという生き物は動物のように低水準には出来上がっていないため、このような「低度な営み」は不可能であるようです。(個人的には、ヒトが本能的に行動するや大抵の物事が破綻する=そもそもヒトは動物以下の低水準な生き物であることの証かも…と思っていたりはしますが)

 

そんじゃあ、どうするんですかね。

 

大抵の国では、んな本能のままに放置してるわけにもいかんよ、結婚というのは「公的なものである」という定義付けをしましょう、国で管理いたしましょうというわけで、我が国では「届出婚主義」すなわち役所に婚姻届を提出すれば、晴れてご結婚が成立、法的に認められ、大手を振って往来を歩けるよ。ということになっております。

 

今現在、結婚と聞けば婚姻届、「婚姻届を出すことこそが結婚なりや」と、脊髄反射のよに考える人がほぼ全員に至る勢いでありましょうや。醤油屋。

 

ちなみにこの「届出婚」制度なるもののご施行、明治時代からなのでたかだか100年、古来からの伝統と呼ぶには新しい。いや、伝統と呼ぶべきではないです。単なる法律です。酢。巣。洲。

 

つい最近とも見なせる1960年代ですら、ほとんどのカップルが「婚姻届? 何すかそれ」状態だった模様で、1968年の調査では挙式前or同時期に届け出たカップルは19.7%。挙式は行っても、届出の方はほっぽらかし、子が出来て慌てる…つまり「できちゃった婚」と呼ぶべき様相が普通でしたよ、と。

 

“婚姻届、済ませて明るい新家族”などという、標語まであったそうだ。

 

それって例え法律が出来ても、実態に合ってなけりゃ浸透するまでに少なくとも50年くらいはかかっちゃうんだね、ということの証明でもあります。古来から、と言いたければ日本は事実婚が主流なわけですから…。

 

では、現代のご実態のほうはどうなっとるのでありましょうか。

 

2015年の国勢調査によれば、生涯未婚率…すなわち50歳までに結婚したことがない人の割合…たるや、男性で約23%、女性で約14%との由。これは前回2010年の調査からも大飛躍の数字だそうで、独居高齢層の要素があるものの、「単身世帯」の数は2006年に「夫婦と子ども世帯」をとっくに超えおり候、「届出婚」なるものはもはや、「明るい新家族だワーイ」とか喜ぶ契機となっているとは、言い難いかんじ。

 

それでは、ご結婚適齢期であろう方々が、「結婚とか、そんなしち面倒臭いことは、こっちから願い下げなんだよ、ばかやろう」とまで捨て鉢になり、情熱は接触冷感シートのごとく冷え切っているのかと申しますと、そうでもない…25~34歳男女の9割弱が「いずれは結婚したい」と答えているとの調査報告も、ございますです。うう。

 

つまり、将来は結婚するんだろうなぁ、って、いつ? 今じゃないでしょ。その時はその時。いずれやって来る。と薄ぼんやりホカホカ構えているうちに、いつの間か年齢を重ね、前述9割のうち約半数に「その時」とやらは結局薬局訪れず、独身のまま生涯を終える。という。

 

ただし、今現在、統計には出てこない「それと意識せずに事実婚状態」カップルがどのくらいいるのかな? という点は気になるところです。

 

法的に認められずとも、フィーリングの合ったお二人が独自のパートナーシップを育み、生活が成り立ち、幸せならそれで良いわけだ、しかし法から外れてることで不利益を被る(最大は相続の問題っす)ならそこは主張し、勝ち取らなければなりませぬよ、権利を。

 

(※ただ事実婚に関して言うと、「法律婚と同等にせよ」という主張が果たして正しいのか否か、そこはパラドックスを含んでいます)

 

50年以上かけて浸透した「法的に認められた結婚」というシステムは、100年後にはお題目だけとなり果て形骸化…とまではいかぬまでも、現実から乖離、少しく機能不全を起こしておるんではないの。野。呑。

 

きょうだいも少ない中、親の介護問題、さてどうしましょうという難問抱える現代にあって、兄・姉・妹・弟合わせて6人おりますとかいう時代にはさぞや合致していた「結婚観」なぞ、煮ても焼いても喰えやしねえ。

 

加えて、女性の飽くなき夢“お相手は年収600万円でないと嫌”なども、25~34歳未婚男性でソレを満たす人わずか3.5%…などという数字を見るや、最速打ち砕かれるべき幻想というものも、ままあるのである。であるよ。

 

つまり法律婚というハードルのみならず、収入設計から夫婦間の役割分担から、ありとあらゆる場面に無数にハードルが立ちはだかっている、なぜというに、ご実態の足はのろのろとしたご認識などよりも、遥かに俊足だからだ。

 

100年は古くもないけど、新しくもない。

 

結婚よ、今こそ変化せよ。

 

 

多様化する結婚?

 

自分は2冊も本を書いてしまったほど「事実婚でいいや」という人間でして、そもそも「法的な結婚」とやらに懐疑的。パートナーとの信頼関係・コマメな話し合いさえあればそれでヨシ。という着地点を得て、早14年も経過しておるわけです。

 

しかし、改まって、事実婚って万人が安住を得る着地点なの? と問われるなら、んなわきゃねーだろと答える。

 

自分に「選択的事実婚」が合っていたのは①「ステップファミリー」(子連れ再婚家庭)だったから。②苗字を変えるのに抵抗があったから。③ついでに言うと、最初の結婚で懲りたから。…という、およそ全女性が大きく頷く理由とも言い切らず、「そういう人もいるよね」という話、つまりマイノリティです。

 

人生の窮地に追い込まれたマイノリティにとっての有難い抜け道、それがたまたま事実婚だったわ。というね。畝。

 

かように、「そういう人もいるよね」を最大限に掬い取るのが政治行政の役割だろうよ、そこんとこ分かってんのかぃと、自分なんかは拡声器持って街頭で叫ばなきゃならんお立場でもある。とも思う。

 

制度に人生を合わせるのではなく、人生の実態に沿って、可能な限り、それにより奇妙な害悪が生じないという検討をもってして、ぜひとも制度の方を曲げてくれ。

 

選択的事実婚状態の自分としては、事実婚を法律婚と同等まで認める動きよりは、法律婚の奇妙な縛りをも少し緩めたら、どうでしょうかねと思う。

例えば、姓の選択という超個人的な事柄についての法律は全部失くす…とかさ。

我が国の“選択的夫婦別姓を認めてくれ”という動きすらも、世界の主流は「姓に関する法律などない」なのでありますからして、すでに時代遅れ感がある。のだ。のだよ。

 

とにもかくにも。

 

…多様であることは良きこと哉。

 

多様な人の営みに対応できるということは、ひいてはそれぞれの生き方が楽になるということでもあるではにゃーか。まあ、だからね。

 

「今や結婚は、多様化している」

 

をまず、認識しよう。

 

2015年より、一抹の希望の欠片と呼びたい進展もあった。それは渋谷区がまずは始めた同性カップルのための「パートナーシップ宣誓制度」。

 

法的拘束力は無い(つまり事実婚と同じ)ものの、同性カップルを結婚に相当すると認める証明書を発行し、病院や不動産業者にもそこんとこヨロシクと勧告したりしていくよ、いう制度ですよ。

これ、へぇ〜さすが渋谷区ですね、渋谷区くらいですかね、とウカウカしていたら、相次いで世田谷区(東京)・伊賀市(三重)・宝塚市(兵庫)・那覇市(沖縄)、札幌市(北海道)と後追って導入しとるようで、どんどんやりなさいと思います。

 

この件で「そもそも結婚は生殖の…」と原点に戻ることすら、もう意味を失っているのだということが、分かろうというものです。

 

時代と共に、それまで隠され虐げられていたマイノリティに陽が当たるのは、合理だ。そのように進まぬ人間社会など、そもそも論として「人間は本能のままに生きることも叶わぬほどに低水準」なのですから、ほんとぉにただの「糞社会」と申せましょう。

 

重要なのは何よりも「多様化」です。

 

多様化とは、突き詰めればありとあらゆる思い込みからの解放であり、個々の自由の追究ということですよ、奥さん。いや奥さんなんて呼び方ももはや、古いですよ。(「奥さん」も「ウチの主人」も「嫁」も、どうかやめちまってくれ)

 

とはいえ、諸外国に目を向けると、1989年のデンマークに始まり、すでにヨーロッパの主要国すべてで同性カップルも法的保障を受けられるし、アメリカも全州で法的に同性婚を認めましたし、カナダ・ブラジル・南アフリカ共和国・ニュージーランドなどなども合法化と。アジアでは、台湾が同性婚合法化の準備中。

 

我が国は、これらの国に並ぶまであと何年かかるのでしょうかね。という気はする。

 

国というでかい組織体が、好んで変化だの多様化だのという市井の機微に柔軟に対応せぬのは、なるべく狭い枠を拵えてそこに押し込んだ方が、管理がラクだからでありましょうや。庄屋。それってひいては「もう、最大限に自由を制限してしまいましょう」に容易に繋がるでありましょうや。有耶。

 

特に、ありもしない伝統だの前例に異様に固執し、変革を嫌うこの島国にあっては、その制限力が法外に顕著なのである。もう、どうにもならぬほどに、です。

 

はあ。

そんじゃあ、どうするんですかね。

 

ここで自分は脇から、「結婚の民営化」という新奇な着想を得た。

そのご提案がなされているのは

 

『実践行動経済学』(リチャード・セイラー/キャス・サンスティーン=著)、原題は『Nudge』

 

ナッジとは「気付きをもたらすための示唆」という意味だそうです。

人々に苦痛を与えずに、なおかつ

 

「個々の自由を最大限妨げず」

 

に、人々をどう上手いこと誘導できるか…のご提案・制度デザイン案をば、ひたすらこれでもかと、書いている本です。

 

(例えば、男性の公衆トイレ。甚だしい飛び散りで汚いんですけど、どうします? という難問に対する「ナッジ」や如何に。オランダ・スキポール空港の“便器にハエの絵を描いた→皆がそこを狙う→周囲が汚れない”という妙案が、ソレに当たります。スキポール空港、グッド ナッジ!みたいなことらしいです)

 

自由を重んじる、という視点からは(アメリカですら)現行の結婚制度はすでに疲弊してるよね、というのが著者のお二人が感じるところのようで、古めかしい結婚をより現代的にするためのナッジは「民営化でしょう」と述べておられます。

 

キリスト教圏とは事情が異なりますし、アメリカでのご提案がそのまま我が国に通用するとは思わぬまでも、

 

「結婚の民営化」

 

何か、新しい視界が開けるようなキーワードだ。

 

この本では、“それぞれが自分の思い描く結婚を実現できる承認組織を、随意選べることにしたらどうか”とのご提言がなされる、それは宗教団体でもヨシ、スキューバダイビングクラブでもヨシという、じつに自由極まりないご発想です。

 

発想!

 

変わらなければならない、多様化を認めねばならない、それには何にも増して発想が不可欠だ。自分も日々たゆまず、ご発想してゆきますですよ、これからも。はい。うん。ええ。