先月のことだ。娘と一緒に大森靖子のライブを観に行った。そこで、私はあることについて考えさせられたのである。

 

そもそもは、娘が彼女の大ファンだった。家や車で何度も聴かされるうちに、だんだん私も彼女の世界が気になるようになってきて、今回のライブに行くことにしたのだが、彼女のファン層というのは娘のような10代から20代くらいの若い人たちだろうし、オールスタンディングのライブなんて久しぶりだ。客席ではかなり浮くのは確実で、体力がもつのかも不安だった。

 

ところが、想像していた以上にライブがすばらしく、時間はあっという間に経っていった。時にアコースティックギターを抱えて叫び、時にアイドルのように踊り、ステージに寝そべって歌い、何かが憑いたかのようにも思える圧巻のパフォーマンスだったのだ。

 

彼女の書く歌詞には、その時流行っている言葉やゴシップがモチーフとして使われていることが多い。たとえば「マジックミラー」という曲は「私アナウンサーになれない、キミも色々してきたクセに」と歌いだすのだが、これは、一時期話題になった「女子アナには清廉性が求められる」という理由で内定を取り消された女性の話だと思われる。そんなふうにすぐ風化する、すぐ古くなってしまう言葉をこそ使いたいのだと、以前何かのインタビューで答えていたのを聞いて、とても面白いなと感じていた。

 

一般に、カラオケの背景で流れる映像には、携帯電話を使うシーンは入れないのだそうだ。携帯電話はどんどん進化し、すぐに古くなってしまうから、映像が古くさく見えないようにそうするのだと聞いた。

 

彼女は、それと真逆のことをやろうとしている。この一瞬だけに色彩を持つ言葉を使って、「女子」と「おっさん」のブルースを歌うのだと言う。女子は失われるのが早いからブルースが若いうちに訪れ、男の人はそれが後からやって来る。だから若い女の子とおじさんの憂鬱を歌うのだと。

 

さて、問題はここからである。そのライブで「絶対彼女」という曲が歌われた。「もうお母さんになるんだね」と歌った後、産まれる子は「絶対女の子がいいな」のリフレインが入る。解釈は人それぞれだろうが、私はこの曲の中に、「女子」から「母」に変わることへの喜びと、それ以上に諦めのようなものを感じていた。

 

その曲の後半、大森さんが観客にコール&レスポンスを要求した。「女子チームとおっさんチームに分かれて歌って!」と言うのである。

 

私ははたと考えた。「おばさん」である私は「女子」に入るべきか、それとも「おっさん」なのか。私がブツブツ言っていると、娘が「そんなの考えすぎ。女子でええやん!」と言ってくる。しかし私は別に、「女子」に混じって声を上げたら恥ずかしいと思って逡巡していたわけではないのだ。

 

フィジカルな意味でどうか、というだけではなく、私自身は彼女の曲を「女子」と「おっさん」のどちらの立ち位置で聴いていたのかと、その時考えたのだ。

 

どちらでもないように思った。私はいつも彼女の曲を聴きながら、そこに紛れもない「女子」であるところのわが娘を投影していたのかもしれない。彼女の曲の中に、娘にとってのブルースを感じて聴いていたように思う。だから、「女子」でも「おっさん」でもなく、「おばさん=母」として、そのコール&レスポンスの外側に立っていたのだ。

 

 

では、「おばさん」にとってのブルースとは何で、誰がそれを歌ってくれるというのか。考えてみても、それに該当するアーティストが思いつかない。年齢的に「おばさん」の域に達した女性アーティストも、そんな生々しい題材に手を出しはしない。相も変わらず愛や恋を歌うか、生命の素晴らしさとか、自然の神秘だとかの壮大なテーマを歌い始めるのだ。

 

「おばさん」は、もう開き直っていて、そこにはブルースなんか存在しないと皆思っているのだろうか。

 

雑誌の表紙に「40代女子」とかいう単語を見つけるたびに、私はなんとなく諦めの悪さを感じる。美しいままでありたいというのはわかるが、「おばさん」になることに抗うのは、おばさんのブルースを受け入れることへの拒否、責任の放棄のように感じてしまう。

 

「おばさん」達は結構たいへんなのだ。子どもを産めば、今の時代子育ての責任のほとんどは母親が負わなくてはならない。産まなければ産まないで、関係のない誰かにまでとやかく言われる。一億総活躍だと言われたって、おばさんを活躍させてくれるところなんてスーパーのレジ係くらいだ。

内心の葛藤や無力感があっても、おばさん達はそれを顔に出さず、腹を括って、今日も家族の弁当を作ったり、体操服を洗ったり、若い社員にアゴで使われたりしているだけなのだ。

 

 

大森靖子は昨年出産し、母親になったのだそうだ。私は、彼女が早くおばさんになればいいのに、と思う。彼女がおばさんになって、まだ音楽をやっていたら、その時はきっと、おばさんのブルースを、おばさんの言葉で歌ってくれるだろうと思うのだ。私はそれが聴いてみたい。まあ、その頃には私はすでにおばあさんなのだけれど。