赤飯の 湯気あたゝかに 野の小店 (子規)

 

この句を所収している『子規句集』(岩波文庫)によると、季語は「暖か」で季節は春です。

ところが句中は「あたゝか」とひらがな表記です。これは暖かと温かをかけあわせたものかと想像できます。というのも、区切りがいま一つ明瞭でなく、「赤飯の湯気」が温かいのか、「赤飯の湯気」で切れて暖かな野の小店と言っているのかがよくわからないためです。

いずれにしても大意に影響がありませんので、ひとまず全体を把握することに努めたいと思います。

野の小店というのは茶屋のようなものでしょうか。赤飯の湯気が蒸篭からもうもうと立っているわけですね。

野の小店はどこにあるのか、分かりませんがおそらく旅の途中で見つけたのだろうと推測されます。峠の茶屋のようなイメージでよいのではないでしょうか。偶然そこへ通りかかったものだから、少し休憩をすることにしたのでしょう。

店では蒸篭で赤飯を蒸しています。この蒸している場所について、店頭なのか、店の奥なのかという大きく二通りが考えられるわけですが、私は店頭だろうと思います。

なぜなら、店の奥で蒸している場合、それが赤飯である、ということが気づきにくいであろうこと。そして、店頭であればその湯気につられてふらふらと店に立ち寄る客が多いであろうこと。といった点が根拠です。

(春の旅路を行くと、茶屋が見えてきた。遠目にも湯気が見える。近づくと、それは赤飯の湯気なのであった。丁度小腹も空いてきたところだし、ひと休みすることにしよう。)

作者はおそらく、そんなことを考えたのではないでしょうか。

さて、それでは私から質問をします。

この句は、五感のどこを刺激するでしょうか。ここまで読み進めてくださったあなたなら、きっともうお判りでしょう。

そうです、嗅覚です。赤飯の蒸しあがる匂いが、句を読むだけで鼻腔に押し寄せてくるようです。空腹のときにこの句を読んだら、お腹の虫がなってしまうかもしれませんね。

では最後に、もう一度この句を眺めてみましょう。

赤飯の 湯気あたゝかに 野の小店 (子規)

 

 

絶えず人 いこふ夏野の 石一つ (子規)

第四句です。季語は「夏野」ですので、夏の句です。

この俳句は、これまでとり上げてきた句と変わらずシンプルな句なのですが、多少趣が異なり、連想の奥行が深い言わば複合問題です。

複合問題とはいえ、絡まったイヤホンのコードを解くように、段階を踏んで考えれば難しいことはありません。

主題はずばり「石」です。

どんな石なのか、という修飾が前後に施されています。

分解すると「絶えず人いこふ夏野の」石であって、その石は「一つ」だ、となるわけです。

前半は、人がひっきりなしにいこふ、つまり休息をするために訪れるという意味です。

後半は、夏野に一つの石がある、といった程度の意味ですが、前半との関係で石の大きさが連想できるようになります。

人がやってきて憩うわけですから、これはあるていど大きな石とみて間違いありません。石というよりは岩に近い可能性すらあるのではないでしょうか。

形はどうでしょう。テーブルのような石であれば腰かけるのも、荷物を置くのも容易です。或いは夏野に影をつくるような、ある程度高さのある石なのかもしれません。いずれにしても人が座って休めるような形と大きさは必要です。ですので、間違っても「石ころ」ではあり得ません。

さて、この句で感覚を刺激するのはどんなものでしょう。

一つには聴覚だと、私は考えます。人びとが代わるがわる石に憩う、その時に無言であることは考えられないからです。

ましてこの俳句の作られた明治という時代を考えるにつけても、なにかしらのあいさつを交わすはず、と思うからです。現代人であれば、各々自分のスマートフォンを見つつ立ち去るかもしれませんが。

さらには、嗅覚です。暑い季節で石に憩う人々は既に汗まみれのはずです。入れ替わり立ち代わりその石の周りに憩う人の汗の臭い、体臭がかならずそこにはあるはずです。

しかし、最大なのは触覚です。

夏野は、単なる原っぱではなく、広々とした草原というような趣があります。おそらく周囲に緑陰となる木陰などは少ないのでしょう。当然そこには夏の、容赦会釈ない日差しがさんさんと注がれているはずです。

石に憩うというからには、その石に腰かけて休むのだろうと思うのですが、真夏の太陽の日差しを吸い込んだ石は、うかつに触れれば手やお尻の皮膚を焼くほどに熱いに違いありません。夏の海辺の砂浜だとか、あるいは河原の砂利の上を素足であるくときをイメージすれば、それとかなり近いのではないかと思います。

はじめにこの句は複合問題だといいましたが、もともと使う視覚に加えて、連想により聴覚・嗅覚・触覚を刺激される句ということになり、実に人間の五感のうち、味覚を除くすべてを刺激されるということになります。

絶えず人 いこふ夏野の 石一つ (子規)

 

 

今回は、秋、冬、春、夏と四季の俳句をひとつずつ手にとって検討をしてきました。

連想ということによって、17文字の字面だけ追っていたのではつかみきれない部分にまで、俳句を読み込むことができるのだと、なんとなく感じていただけたのではないかと思います。

俳句もまた、ほかの文学同様に、詠み手の実感したことを表す文学的表現にほかなりません。たった17文字にその実感を閉じ込めるわけですから、それこそ一文字一文字にいのちが宿り、多くの場合、それが五感の複数を同時に刺激して読者の共感をもとめるというふうになります。

と、そんなふうに書くと、余計に小難しくなるかもしれませんね。要するに、俳句を読むときには、ほんのちょっと想像力をつかってその世界に没頭するとたのしくなりますよ、ということを申し上げて、この稿をおわることとします。

 

※この記事は、CIRCUS第2回特集「いいカラダ。」の記事です。