今どきは、BL好きの女子のことを「腐女子」と言うのだそうだ。知らない人のために一応説明しておくと、BLとはボーイズラブ、つまり男性同士の恋愛を描いた作品のことだ。この呼び名は、ここ15年ほどの間で定着したものらしいのだが、ではそれより以前にそういった作品や、その手のものを好む女子がいなかったのかというと、そうではない。昔から、その手の妄想が大好きな女子はいたのである。

 

 

私は年季の入ったオタクだ。もっとも、私がアニメやマンガに夢中だった頃は、まだ「オタク」なんて言葉はなかった。アニメという呼び方も今ほど定着していなかった気がする。テレビアニメも、雑誌のコミックも、どちらも「マンガ」と呼ばれていて、私はどちらも子どもの頃から好きだった。

 

高校時代、私は「ファンタジィ部」という部活に入部していた。「ファンタジー」でなくて「ファンタジィ」。もうネーミングからして香ばしい。同じくマンガ好きだという同級生に誘われて、うっかり入ってしまったのだ。

 

ファンタジィ部は、創作活動全般が対象の部活という話だったように思うのだが、好きなアニメ談義に花を咲かせる者、黙々とセル画を模写している者、皆何か自由にやっている感じだった。当時は初代ガンダムが人気だったから、話題の中心はガンダムだったと思う。私は、実はガンダムの前に放送されていた『鋼鉄魔人ダイターン3』の方が好きだったし、今で言う「コミュ障」だったので、大抵隅っこで大人しくそれを眺めているだけだった。

 

しかし、そんなファンタジィ部も、年に一度の文化祭では、活動の集大成として同人誌を発行することになっていた。私のように特に何もせず、たまに来ても座っているだけの1年生にもページが割り振られるのだ。私は苦心惨憺した挙句、当時流行っていたマンガのコマを模写してつなぎ合わせ、どうにか見開き2ページのパロディマンガを描きあげた。今でも思い出したくないくらいつまらない内容だった。人生最大の黒歴史だ。

 

他の部員の作品も、そういうパロディが多かった。上手い人は数人いたが、あとは私と似たり寄ったりで、ガンダムや、『エロイカより愛をこめて』など、各自が好きな作品を思い思いにいじって描いていた。そこで多かったのが、男性キャラクター同士を恋愛関係として描く「BL設定」だった。

 

 

元祖BLとも言われている、竹宮恵子の『風と木の詩』や、魔夜峰央の『パタリロ』もその頃にはもう人気だった。さほど露骨な描写はなかったものの、『パタリロ』なんてテレビアニメにもなったのだ。(当時の子どもはあれをどう観ていたのだろう。)

 

そんなBL黎明期に洗礼を受け、腐女子界のピテカントロプスとして恥の多い生涯を送ってきました、と言えるのなら、話は面白くなるのだが、残念ながらそうではない。私自身はBL的な作品にはピンと来なかった。都合よく登場人物がみな同性を愛してしまう設定に納得がいかなくて、楽しめなかったのだ。

 

そもそも、女子がBLに魅かれるのはどうしてなのだろうか。おそらく、そこにリアリティがないことが理由なのではないか。男女の恋愛ものなら、どうしてもそこに自分自身が投影される。ヒロインの言動に共感できなかったりもするし、第一どんなイケメンの男子が出てきたとしても、それはヒロインのためのものである。ところがBLなら、身の回りにモデルがいることがほとんどないから、現実を想起させるものがない。よけいな現実に邪魔されず、胸キュン部分だけを吸い上げて愛でることができるから、一部の女子はBLに夢中になるのではないかと思う。

 

私はむしろ、そのリアリティのなさが苦手だった。だから、私はBL系統には手を出さないまま大人になったわけだが、その数十年の間に、BLは独自の発展をし、ジャンルとして確立された。書店では、コミック売り場の片隅にBLコーナーが設けられるまでになった。それとは逆に、昔の腐女子はもっと大っぴらに、好きなキャラクターを対象にした妄想について熱弁をふるっていたと思うのだが、今ではBLは同好の士とひっそりと楽しむものになったようだ。

 

さて、そんな私が、最近になって手に取ったのが中村明日美子の『コペルニクスの呼吸』である。私の好きなあるアーティストが、影響を受けた作品に挙げていたので興味を持ったのだ。

 

中村明日美子は、BL界では名作と言われている『同級生』を描いた人で、腐女子なら誰でも知っているクラスの漫画家だ。おばさんの私ですら名前くらいは知っていた。BL専門というわけでもなく、普通の漫画も描いているようである。

 

正直な話、読むまではあまり期待もしていなかった。イケメン同士がラブラブする話なんでしょ、くらいに思っていたのである。ところがこの『コペルニクスの呼吸』、なかなか読み応えのあるものだった。1970年代初めのパリ、世襲制の旅芸人的なサーカスから、ダンスや演劇的要素を取り入れた現代のサーカスへの転換期を背景に、一人の青年の喪失からの再生を描いた作品だ。

 

寡黙な青年トリノスは、とあるサーカスでピエロを務めている。以前は空中ブランコ乗りだった彼は、事故で同じくブランコ乗りだった弟を失い、飛べなくなった。実力では自分に劣るものの、舞台映えする美しい少年だった弟が、ブランコの「飛び手」に抜擢されたことで、トリノスは嫉妬を抱いていた。しかし弟は飛ぶのに失敗し、「受け手」のトリノスの目の前でブランコから墜ちて死ぬ。トリノスは弟を殺したのは自分だという罪悪感から、ブランコを捨てピエロとなったが、心の底では再び飛ぶ日を夢見ている。

 

古いスタイルのサーカスは、演劇やバレエなどの新しい芸術に圧され、衰退の道をたどっていた。団長のオーギュストは、サーカスを維持するために、芸人達に売春をさせていた。興行そのものが、好色な客のためのショウケースだった。

 

オオナギという初老の男がトリノスを買う。サーカスで再び起こったブランコの事故に動揺したトリノスは、サーカスを飛び出し、オオナギの囲われ者になる。「タケオ」と名前を変えられ、マナーと教養を身につけるために、オオナギの別居中の妻ココに預けられた彼は、そこでココの弟ミシェルと出会う。

 

ココは、名目上はオオナギの妻だが、実際はトリノス同様オオナギに飼われているに過ぎない。オオナギは、不幸な事件によって傷ついたトリノスとココを、甘い言葉で巧みに誘って買い取った。2人を籠に閉じ込めて、その傷が癒えないように抉りながら、血を流し苦しむのを眺め、楽しんでいる。オオナギによって、トリノスはココを苦しめるために使われ、ココはトリノスをいたぶるために使われているのだ。

 

その真意に気づき、オオナギから逃げたトリノスは、再会したミシェルと愛し合うようになるが、サーカスへの情熱が捨てきれずにいる。一方ミシェルは、自殺未遂をしたココを見舞った病院でオオナギと再会し、ある事件を起こしてしまう――。

 

 

この作品で、中村明日美子の画風は耽美的かつ官能的だ。強弱のない線と、トーンをあまり使わず白と黒で構成された画面は、不吉さをはらんでいる。トリノスは人形のような造形で、三白眼と顔を縁取る黒い巻き毛を持ち、どこかビアズレーの絵を思い出させる。直接的な性描写も多いが、そこを見せるためだけの作品にはならないのは、それぞれ複雑なキャラクターの心理が丁寧に描きこまれているからなのだろう。

 

タイトルになっている「コペルニクスの呼吸」とは、作中に繰り返し使われる詩の一節である。繰り返し使われながら、場面によって同じ詩が違う意味合いを見せる。それは揺れる空中ブランコのイメージだ。ブランコは、天と地の間を揺れ動く。その上にいる者にとって、今いるのは天なのか地なのか、動いているのは自分か、世界か。そして落ちていくのは自分なのか、それとも弟なのか。地動説を唱えたコペルニクスになぞらえて、読むものに視点の転換を促すのだ。

 

現代サーカスの時代の到来とともに、物語は終わる。籠は開け放たれ、トリノス達はそれぞれの未来へと歩き始める。閉鎖的な古いサーカスに繋ぎとめられていた芸人たちも、アーティストとして観客に驚きと感動を与える存在へと変化する。そうして新たな息吹を吹き込まれたサーカスは、シルク・ド・ソレイユに代表されるような総合芸術となって受け継がれていくのである。

 

これまで色眼鏡で見てきたBL作品だったが、私の認識は改められた。『コペルニクスの呼吸』は、十分に大人の鑑賞にも値するものだった。同性・異性にかかわらず、性的表現は満載なので、読む人を選ぶ作品かもしれないが、私の苦手だった無理やりな展開はなく、物語の中での必然性は守られていた。

 

オーバー50にして新たな発見があるというのは楽しいものだ。しかし、これからせっせと新しいBLを発掘するようになるかと言えばそうではないとも思う。腐女子は女子だから許されるというもので、腐ったおばさんは洒落にもならないからである。とは言え、現役オタク(腐女子ではない)の娘が『同級生』を読んでみたいと言っているので、家にあったらきっと手にとってしまうだろう。母娘でBLのまわし読みというのもなかなかシュールだ。

 

 

蛇足になるが、私は結局1年経ってもファンタジィ部にあまり馴染めなかったので、なんとなくフェイドアウトしてしまった。だから、次の年の文化祭で黒歴史の再生産からは免れることができた。1つ後悔があるとすれば、当時はまだ晴海でやっていたコミケに誘ってもらったのに、行かなかったことだ。行っていたら今頃話のネタになったのになぁ、と残念に思っている。