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前回は「句会でつながる俳句」と題し、俳句へのしたしみ方の一つとして、俳句結社の存在や句会の進め方を中心に、他者に学ぶということをご紹介しました。

俳句は、その短さゆえに「飾る」ということができません。だからこそ、他人の俳句に触れることは、とても刺激的なことなのです。

今回は、過去の俳人のプロフィールとその名句についてご紹介をしたいと思います。

俳句にまったく興味がなくても、名前くらいは知っている俳人たち。たった17文字の俳句が、彼ら名人の手にかかるとどのような世界として描かれるのか、という点を感じていただければと思います。

以下では、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶、正岡子規の4名をご紹介することとします。

 

【松尾芭蕉】

芭蕉(1644~1694)は、伊賀国(いまの三重県伊賀市)生まれ。

俳諧を芸術として完成させた功績から「俳聖」と呼ばれています。

芭蕉の時代、俳諧はまだ新興文芸いわゆるサブカルチャーであり、世に確立した芸術ではありませんでした。

和歌から連歌が生まれ、そこから俳諧連歌が派生したとはいえ、趣向や品格において劣る言葉遊びという印象が強かったのだろうと思います。

旅の歌人、西行を敬愛した芭蕉は、1689年から東北・北陸を旅した紀行文「おくのほそ道」を著します。

このほかにも多くの旅に出た芭蕉は、伊賀の出身であることに加え、1日に50キロを歩く健脚ぶりから忍者だったともいわれています。

多くの弟子が芭蕉を慕って蕉門というグループを形成し、芭蕉はそうした弟子たちの育成にも力をそそぎました。

芭蕉の俳句といえば、雄大なイメージをもつ句が多いですが、中でもイチ推しの名句がこちらです。

 

◯閑さや岩にしみ入る蝉の声(芭蕉)

季語は蝉、季節は夏です。

「閑さや」と切れますので静かだなぁとはじまり、そこに「岩にしみ入る蝉の声」とつづけています。

でもこれって静かなんでしょうか。おや?と思われた方は、芭蕉の術中に落ちています。

実際にはこのとき、蝉たちがやかましく鳴いていたに違いありません。ポイントは「岩にしみ入る」です。

このとき芭蕉は、人から勧められて尾花沢から20キロあまりを引き返して立石寺(山寺)を訪れ、岩山に点在する寺院とそこからの絶景を眺めています。

それも単に見ている、というものではなく見入っていると考えられます。

さあ、ここからは連想です。

何かに集中したとき、人は全器官をそちらに向けてしまうことがありはしないでしょうか。例えば、テレビに集中していて家人の声が聞こえなかった、というような場合です。

おそらくは、この時の芭蕉もふと、蝉の声を聞き失ったのではと考えられます。

寸時ののち、気がつけば、耳をつんざくほどに蟬が鳴いている。芭蕉の心境になって考えてみれば、その時に思ったはずです。

(蟬の声は、私が聞いていようがいまいが、この岩山に染み込んでゆく。蟬たち自身もまた、やがてはこの岩山の土へと還ってゆく。100年先もそれは変わるまい、まことに宇宙の摂理なのだなぁ。)

この句には、そんな想いが込められているように感じられます。

俳諧をより高尚な位置に押し上げ、芸術としてのステータスをあたえたからこそ、芭蕉は俳聖として、今なお称賛を集めるのでしょうね。

芭蕉辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」は、芭蕉の人生をもっとも的確にあらわしたものといえるでしょう。

 

【与謝蕪村】

蕪村(1716~1784)は、摂津国(いまの大阪市都島区)生まれ。俳人。画家。

芭蕉亡き後、蕉門の俳諧はすたれてしまいました。

ひとつには、芭蕉自身が俳諧についての考え方を書き残さなかったことによります。また、芭蕉の師としての器の大きさから、考え方の異なる弟子もいました。

そのため、結果的に芭蕉の俳句観はただしく後世には伝わりませんでした。

そうした俳諧の世界に現れた新星が蕪村です。

蕪村は、尊敬する芭蕉の足跡をたどり東北地方を旅しています。また、画家でもあった蕪村の俳句は絵画的・写生的であることで知られています。

芭蕉が俳句に閑寂な世界を取りこんだのに対し、蕪村の俳句は読むそばから具体的な像を結ぶという、視覚そのものに飛び込んでくるようなところが特徴です。

蕪村の句は粒ぞろいであることで有名で、名句といってもゴロゴロ出てきてしまうのですが、よく取りざたされる名句がこちらです。

 

○さみだれや大河を前に家二軒(蕪村)

芭蕉「五月雨を集めてはやし最上川」と対比される句です。

蕪村の句の方が情景をイメージしやすいと思いませんか?きっと蕪村もしてやったり、と思っているはずです。

もはや説明するまでもない蕪村の句ですが、以下、簡単に内容をみていきます。

まず、「さみだれや」と切っているので、今なお五月雨が降りつづいているのでしょう。

「大河」という言葉からは、長雨によって増水した川が弧を描いて勢いよく流れてゆく様子が浮かんできます。

その大河を前にして、二軒の家が並んでいます。おそらく、氾濫すれば二軒ともながされてしまうのでしょう。運命をともにする二軒であるだけに、日ごろの生活でも助け合って生きている姿が目にうかびます。

まっ白なキャンバスをイメージしてください。上下を三つに分け、上には雨雲、下には弧を描く大河を描きます。

画面の中央、大河の向こうには二軒の家を描きます。二軒の左右は林、裏手には山でしょうか。降りしきる五月雨に煙っていて、どのみちあまり鮮明な景色は得られません。

しかし、これだけでも十分絵になりそうではありませんか。すくなくとも情景はありありと浮かんできます。

これほどの句を遺した蕪村でしたが、死後長いあいだ画家として記憶されるにとどまり、蕪村の俳句が高く評価されるのは明治時代、正岡子規らによる再評価運動を待たねばなりませんでした。

蕪村辞世の句「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」は、蕪村らしく、清涼な一幅の日本画を思わせる句になっています。

 

【小林一茶】

一茶(1763~1828)は、信濃国(いまの長野県上水内郡信濃町)生まれ。

一茶の俳句は、当時は田舎俳諧との評価に終始していたようで、死後それも明治以後に再評価がされようやく芭蕉、蕪村に並びうる知名度を獲得します。

卑近な言葉づかいながら、小さないのちを詠った一茶の俳句は、蕪村の天明調に対して、化政調と呼ばれます。

一茶の功績は、その独創により、他をよせつけない作風を確立した点にあります。

一茶のことを考えるとき、条件反射のように思い出してしまう名句があります。

 

○あの月をとつてくれろと泣子哉(一茶)

一茶の句として知名度トップ10くらいには入るでしょうか。小動物や虫たちをしたしく詠みあげることで有名な一茶ですが、子どもを題材に詠まれた句には強い印象があります。この句はその代表格といえます。

この句からは、泣く子を背負いながらつれ帰る影絵のようなイメージが浮かんできます。

この句のポイントですが、特にありません。といったら、驚かれるでしょうか。正確にいうと、ポイントがないところがポイントです……かえってわかりにくいですね。

この句のいいところは、無駄な捻りがないところです。技巧もありません。それだけに心に強くせまるものがあります。

しいてポイントを探すとすれば、それは一茶の境遇にあります。

一茶の人生は、波乱に満ちたものでした。幼くして母を失い、継母との確執があり、江戸に出た末に俳諧師を目指します。

応援者であった父が亡くなると、義弟との長い相続争いがおこります。それらが解決し、信濃にUターンして新婚生活を始めたとき、一茶はすでに52歳になっていました。

28歳の妻・菊との間には、三男一女をもうけますが、つぎつぎに早世してしまいます。10年後には苦楽を共にした菊もなくなります。

その後再婚に失敗。三度目の妻・やをと結婚した翌年、柏原という在所の大火により一茶の家も焼けてしまいます。その後は焼け残った土蔵で暮らしたといわれています。

一茶は、その年の11月に中風の発作により急逝、享年は65歳でした。

その後、妻やをは一茶の忘れ形見であるやたという女の子を出産します。やたは無事に成長し、一茶の血筋は後世に残りました。

一茶辞世の句「やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ」は、家族をつぎつぎに失った一茶の人生を自棄(ヤケ)と重ねているようでもあります。

失われた母への愛、子らへの愛、妻への愛。そして慟哭。世の中への不平。混然とした心の鬱屈がバネとなって、一茶の句を昇華させているかのようです。

こうした境遇をもつ一茶だからこそ、子どもをはじめ小さな命をいつくしむ俳句が、他人にはまねのできない光彩を放つのだと考えられます。

 

【正岡子規】

子規(1867~1902)は、伊予国(いまの愛媛県松山市)生まれ。俳人、歌人。

俳諧の革新を行い、発句を独立させることによって「俳句」を確立させました。

明治初年の俳諧を子規は大いに否定します。それは堕落した俳諧宗匠の否定であり、毎度おなじような俳句を捻りつづける月並俳句の否定でした。

子規は、俳人としての蕪村を高く評価し、情景の浮かぶ俳句を重視する「写生論」を提唱します。

肺結核から脊椎カリエスを患い、子規の文学活動のほぼすべては病床でなされました。

しかし決して弱弱しい病人の文学ではありません。子規は恐ろしいまでの食欲を保ち、その一言一句は、明治期という日本初の大衆社会を覆いつくす気概に満ちていました。

 

○三千の俳句を閲し柿二つ(子規)

 

病床にありつつも力強さを感じる子規の名句。季語は柿、季節は秋です。

この句のポイントは、「三千の俳句」「柿二つ」と数字が当てられていることです。

子規は、読者からの俳句を選句しています。

子規の闘病生活の大半を支えたのは、妹・律でした。その律が、贈り物の柿を2つ盆にのせて運んできます。釣鐘柿という品種で、子規はとくにこの柿を好んだそうです。

膨大な作業がおわったのは深夜、日付も変わったあとでした。一日のうち、ほとんどを高熱にうなされる子規にとって、選句は命がけの仕事だったに違いありません。

本当にひと晩で三千もの俳句を選句できるのだろうか、と少し不思議な気もします。三千というのはあくまでものの例えで、たくさんのという程度の意味だったのではないか。

あるいは、三千とは三千世界のことではないか。三千世界とは、仏教用語で10億の須弥山世界が集まった空間(十万億土)を指すのだそうです。

そうだとすると、「三千の俳句」とは数ではなく、およそ考えられる限りの、ありとあらゆる、というような意味合いも帯びてくるようにも感じられます。

ともあれ、子規は選句を終えました。もはや筆を握る力も使い果たしていたでしょうが、そこは食欲でカバーしてしまう子規です。

子規は、柿を手にとりおもむろに口に運びます。

乾いた口に、柿の甘みが広がります。三千の俳句に対し柿二つ―柿をかじる歯の感触や、のどを通るみずみずしさまで感じとれる俳句です。

子規辞世の句は「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」の絶筆三句が残されています。

己の死さえ、写生の材料にした子規は、最後まで俳人であることを止めませんでした。

 

◆まとめ

トップバッターの芭蕉以下、蕪村、一茶、子規と俳諧・俳句の歴史に欠かせない、それだけに誰もがよく知る俳人を、その名句とともにご紹介をしました。

これから、たくさんの俳句を読むに際しても、俳句の読み方は、とくにこれまでと変わりありません。

季語を知り、連想を使って、その俳句の世界に飛び込むことです。

上に掲げた名人たちの俳句も、例え何の解説もなくても、季語と連想の力さえあれば十分に味わうことができるはずです。

たくさんの俳句を読む場合の方法としては、一句一句を検討してもいいですし、ななめ読みでページをパラパラめくりつつ、気になった俳句をメモしていくのもいいでしょう。

こんな俳句を詠んでみたいなぁ、という俳句がもし見つかったら大チャンスです!その句の好きなところを考えてみましょう。

―この季節感が好きだ。

―このリズムが心地良い。

など、きっと良いなと思った理由があるはずです。それをマネしてみましょう。

マネしていいの?と思うかもしれませんが、練習の段階ではむしろたくさんマネすべきだと思います。

そのためにはたくさん読まなければならないし、その中でこれは気に入らないな、これは良くある素材だな、ということも経験的にわかるようになっていきます。

俳句も、ほかのものと同様、ふれていくうちに愛着が生まれます。そしてたくさんの素敵な俳句があなたに見つけられるのを待っているのです。

それでは、また次回お会いしましょう!