『スイートホーム殺人事件』は、1944年に発表された、アメリカの女性作家クレイグ・ライスによるミステリーである。

主人公はカーステアズ家の子どもたち、14歳のダイナ、12歳のエイプリル、10歳のアーチーだ。ある日、隣家で殺人事件が起こり、3人は子どもならではの知恵とネットワークを活かして、にわか探偵として乗り出す。この事件を解決すれば、夫と死別後、ミステリー作家として家庭を支えている母のマリアンが有名になり、今ほどがむしゃらに仕事をしなくてもよくなるだろうと考えたのだ。さらに事件の捜査のためにやってきた独身の警部補ビル・スミスと母の縁結びまで画策して奔走する。

 

私がこのミステリーを初めて読んだのは10代の頃だった。普通ミステリーは何度も読み返すようなものではない。けれど、私はこの本を何度も繰り返し読んだ。文庫本の表紙がヨレヨレになり、ページが黄ばんでからも、時折本棚からひっぱり出して、毎度最初から通しで読んだものである。

 

なぜ私がそこまでこの本を愛したかというと、この物語には私が憧れる「家庭」があったからなのだ。仕事に追われていても、子ども達への愛情にあふれた母と、ケンカはしても仲のいい利発な3姉弟の毎日は、ビル・スミス警部補だけでなく、読者の私にもキラキラと眩しく、羨望すら感じさせたのだ。

 

 

いわゆるホームドラマを近頃のテレビではみかけなくなった。家族全員で食卓を囲むシーンが毎回必ずあって、そこで様々な会話が交わされ、ちょっとした事件も起こる。事件といっても些細なもので、行き違いがあっても最終的にはお互いの思いを確認することで解決してしまう、家族っていいなと思わせる物語。昭和のテレビには、こうしたドラマがたくさんあった。リビングルームではなく、「茶の間」の時代だ。今こういう情景が見られるのは、『サザエさん』の中だけとなってしまった。

 

今年、脚本家の橋田壽賀子氏が、ありきたりのホームドラマが受け入れられなくなったというのを理由に、引退を示唆したそうだ。橋田氏といえば長寿ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』の脚本家だ。『渡鬼』は嫁姑の諍いや相続などの生臭い揉め事が延々と続くドラマなので、ありきたりと言っていいのか疑問ではあるが、とにかく一般家庭に普通に起こりそうな問題を取り上げたドラマは、もう支持を集められないのだ。

 

では、なぜホームドラマは衰退してしまったのだろうか。

 

ホームドラマの魅力のひとつには、ちょっとしたのぞき見感覚があったと思うのだ。どこにでもありそうな家庭で起こる、どこにでもありそうな事件。それをこっそりのぞき見て、あるあると共感したり、ウチも気をつけようと思ったりする。しかし、家族のあり方が多様化し、ステレオタイプの家族像は成り立たなくなってきた。

 

我が家は三世代同居世帯なのだが、近所や知人を見渡しても、親と同居している夫婦はまずいない。地元で代々農業をやっている家にかろうじて少しいる程度だ。一方、娘のこれまでのクラスメイトを見ていると、私が学生だった頃に比べて、一人親家庭が驚くほど増えている。家族構成が多様化すれば、当然家族が抱える問題も多様化する。観た人のほとんどが、「そうだよね、わかるわかる」と共感できるような家族像を作り出すことは難しくなったのだ。

 

加えて、今はSNSの時代である。昔は、よその家庭がどんな生活を送っているのか知ることはあまりなかった。SNSの普及は、これまで目にすることのなかった、普通の人の普通の生活を、好きなだけのぞき見ることができるようにした。名も知らない誰かの家庭内の事件や、今日の夕食の献立が、こちらが望まなくても垂れ流されてくる。

 

フィクションとしてのホームドラマより、SNSでのぞき見る他人の生活の方が、当然リアリティがあり、時にはフィクションを超える面白い出来事さえある。若い人たちが、ドラマよりYoutubeやニコ生を観る方を好むのにも、そうした一面があるのだろう。その一方で、SNSは、市井の人々にさえも、常に監視され、匿名の誰かの批判にさらされる可能性をもたらした。

 

 

 

ホームドラマの減少とは逆に、近年増えてきたのが暗い犯罪ものや、泥沼の不倫劇といった「エグい」テーマの作品である。家庭をテーマにしたものも、崩壊しかけた家庭や、他人同士による擬似家族など、一昔前のホームドラマにはなかった設定が登場するようになった。

 

さらに枠を広げて、映画や、小説、アニメなどまで含めると、不思議なほどに「ゾンビ」を扱った作品が多くなっているのに気づく。アメリカでは『ウォーキングデッド』がもうシーズン7まで制作されているし、日本ではコミック原作の映画『アイアムアヒーロー』や、アニメ『がっこうぐらし!』のヒットも記憶に新しい。

 

これらは単なる偶然ではなく、洋の内外を問わずこうした作品が求められているということなのだ。世界には、解決の見通しのつかない紛争や、国家レベルの経済破綻、人種や難民の人権問題が山積である。かたや身の回りを見れば、SNSでたくさんの人と繋がりを持てるようにはなったものの、誰が味方で誰が敵なのか簡単にはわからない状況になってしまった。

 

殺伐としたドラマや映画がヒットするのは、こうした社会の閉塞感に息苦しさを感じる人たちが、明確な「敵」の設定に逆に安心感を覚え、その「敵」を排除することで、溜飲を下げたいというどこか後ろ暗い願望の現われなのではないかと思うのだ。

 

ドラマの中の凶悪な犯罪者や、横暴な上司、DV夫や不倫に走る妻、どれも簡単に「敵認定」できる存在だ。ゾンビにいたっては、さっきまで仲間だった人間が、ゾンビ化して「敵」になるという設定に、日常に潜んだ闇を感じる。皆が疑心暗鬼の中で生きているのだ。しかし、「敵」と戦うという目的においてなら、人は団結することができる。ドラマや映画の中で、「敵」が敗北するのを観ることで、「正義は勝つ」とカタルシスを得られるのだ。

 

一方ホームドラマでは、そんな明確な「敵」を設定することはできない。それをやったら、もうホームドラマとは呼べない。ホームドラマの中のいざこざは、たいていどちらにも納得のいく言い分があり、お互いの愛と理解によって乗り越えられる性質のものでなければいけない。家族は本来「敵」として排除できないものだ。しかし、閉塞化した社会や、多様化し、時にその機能を失った家族のあり方は、「愛と思いやり」で解決してしまう従来のホームドラマを、もはやファンタジーにしてしまった。昔なら「こんな家庭を作りたい」と思わせた設定が、「今どきこんなお花畑な家庭どこにもない」になってしまったのだ。

 

 

私には、それがとても寂しいことに思える。『スイートホーム殺人事件』は、そんな「お花畑のように幸せな家族」を描いていたけれど、読んでいる私を幸せな気分にさせてくれたし、大人になって自分の家庭を築くにあたって、少なからず影響を与えたと考えているからだ。

 

私には母に甘えた記憶があまりない。両親は共働きで、産まれてすぐに保育園に預けられ、小学校に上がる頃には弟が産まれた。母は仕事と家事で精一杯だったうえに、精神的にも不安定だったので、私のことはいつもほったらかしだった。裕福ではない中で、大学まで教育を受けさせてくれたことには感謝しているけれど、母自身が複雑な生い立ちで、家庭に恵まれず育ったせいなのか、母親の愛情というものがよくわからない人だったのだと思う。大人になれば、同情することも理解することもできるが、子どもにそれを要求するのは無理な話だ。私は多分、もっと母に愛されたいと思っていたのだろう。

 

ある年の母の日、私はかわいいキッチン用品をプレゼントとして手渡した。母はそれを見るなり、「私にもっと働けということか」と怒り出し、包みを投げ出した。傷ついたし、腹も立ったが、その時私は「もういいや」と思った。もう愛される努力なんかやめてしまおうと。

 

『スイートホーム殺人事件』にも、母の日の朝、子どもたちがプレゼントを渡すシーンがあった。エイプリルからは花束、ダイナからは『親のための児童心理学』という本、末っ子のアーチーからは2匹の子猫だ。マリアンは喜び、子どもたちに「あなたたちが大好き」と言う。そして、子猫を膝に、エイプリルとアーチーを両脇に抱き、ダイナに贈られた本を朗読してもらうのだ。

 

私はこのシーンをいつも羨望とともに読み返した。人が結婚して家庭を持つとき、通常そのモデルになるのは自分が育ってきた家庭である。何の疑問もなく、自らの家庭をなぞれる人は幸せな人だ。10代の私にとって、理想としたのはカーステアズ家であって、私の育った家庭ではなかった。もちろん、実際の家庭は小説のようにはいかない。今の我が家にだって色々問題は起こる。だが、どれだけ上手にできているかはわからないけれど、少なくとも子どもが親の愛情を疑わなければいけないようなことだけはしたくないと思っている。

 

 

ホームドラマがファンタジーとなったのなら、それでもいい。スターウォーズだって、ハリーポッターだってファンタジーだ。いっそのこと、皆を魅了するだけの良質なファンタジーとして、新しいホームドラマが生まれてくることに、私は少しだけ期待をするのだ。