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小学生くらいのころ、ふざけて変な顔をしたり得体のしれない踊りを踊ったりしている友達に、「お前なに人だよ?」というツッコミを入れたことがある。

彼は「俺、地球人!」とか「宇宙人!」とかまたふざけて答えるのだが、もちろんコスモポリタンを気取っているわけではなくて、たんに私をはぐらかして面白がっていたにすぎない。彼が「地球人」と言ったとたん、「日本」や「イタリア」や「アフリカ」という国や場所の意味が失われ、ここはただの「地球」になってしまった。その身も蓋もなさが面白かったのだろうと思う。私は「知ってるよ!」と叫ぶほかなく、そして得意になっている彼と一緒に笑ったのだった。

 

考えてみると、このやりとりが成立するためには抽象概念を高度に操作する力が必要で、小学生くらいの子供でもこれができるのは驚くべきことだ。

まず、「俺」が「人」に、「日本」が「地球」に含まれているという包摂関係を理解していなければならない。そして、抽象の階段をのぼることで、それまであった差異が意味を失うことを理解していなければならない。さらに、こういったことを相手が理解しているということを理解していることも必要だ。
言語を生みだす本能が人間のDNAレベルで組み込まれているという学説があるが、頷けるところかもしれない。

 

人はじぶんを取り巻くものごとに、名前を付けずにはいられない存在だ。
それが遺伝子で伝えられた本能なのか、後天的に施された教育のおかげなのかは分からないが、絶えず、これは何?それは何?と問いかけ、そしてそのときに求めているのは名前だ。

名前を決め、それをしかるべき場所におさめたところで、ようやく私たちは安心することができる。
茫洋としたこの世界に少しずつ切れ目を入れ、抽象の階段をどんどんとくだり、私たちにでも理解できる人工の構造物をせっせと組み立てている。

 

名付けるということは「それ」と「それ以外」のものを分けることだ。
名付けられた「それ」は「それ以外」のものに対して、おまえはわたしではない、と宣言する。
同時に「それ」が含んでいるものに対して、おまえはわたしだと宣言する。
その2つの力の作用のあいだで、名付けられたものの輪郭が決まっていく。
絶え間のない分断と統合がそこでは行われている。

子どもの私たちは自分たちが「日本人」であるということを無意識的に前提にしていた。
ただ「日本」や「人」がどのくらいの射程を持っているかについては無自覚だった。
「日本」がどこからどこまでを指すのか、「人」はどこからどこまでなのか。その境界線を定義付けようとすることは難しい。
「日本」を境界づけようとすれば国境や民族性やアメリカの問題がたちあがるだろうし、「人」を境界づけしようとすると堕胎や脳死、知能、遺伝子操作について考えなければならない。
淡いグラデーションのままで済ませたい境界に、しかし大人は線をひかなければいけない。

やっかいなのは、こういったグラデーションを持った言葉が幾層にも重なり合っていることだ。
ある言葉を説明するためには、他の言葉を使わなければいけない。そしてその言葉を説明するためにはまた別の言葉を。
無限に連鎖しあい寄りかかりあう形でわたしたちの言語体系はできあがっている。ある言葉があいまいさを持っている場合、そのあいまいさはその周辺の言葉たちに静かな波紋を投げかけ続けるのだ。
それに言葉は物質のように固定的なものではなく(物質も固定的なものじゃないのかもしれないが)、時の経過にともなって揺れ動いていくものだ。
「人」という言葉が持つ意味が将来にわたってどれほど確固としていられるのかでさえ、わたしたちには予測することができない。

 

言葉のもつ複雑さ、コミュニケーションがもつ複雑さに、わたしたちは耐えることができない。
日本では古来から言霊というものが信じられていて、「名付けられたもの=言葉」には精霊が宿るとされてきた。言霊だけでなく、キリスト教の聖書やアフリカのシャーマニズム、ネイティブ・アメリカンの精神性にも同様の思想があることは、そこに人にとっての根源的な何かがあることを意味しているのだろう。
そんなふうにおおげさに言わなくても、自分の発した言葉や他人の言葉にぎくりとしたことは誰しもあるはずだ。私たちはうすうす感じているのだと思う。

アントニオ・カルロス・ジョビンの「三月の水」という歌がある。

(菊地成孔さんの朗読付きの動画をどうぞ。)

ストーリーもメッセージもなく、自分の目に見えるもの自分の手でつかみとれるものの名前がひたすら積み重ねられる。
感じることのよろこび、発見することのよろこび。名付けることのよろこびに満ちた歌だ。
歌の中でジョビンは、名前の中にたしかに精霊の存在を感じている。(ジョビンがそう感じていることを私たちも感じることができ、このことには「感応」という名前がつけられている。)

「名付けることには魔術性がある」、そういう信仰や考え方を、私は否定することができない。
もちろん、「浮け」と発したら実際にモノが浮かび上がるというようなことは信じていないし、特定の宗教やアニミズムに帰依しているわけでもない。
ただ、人間社会で起こる現象をいくばくか説明できるところはあるんじゃないか。
言葉で埋め尽くされた世界で、ある言葉が誰かから誰かに伝えられるそのときに、実際にはどんなことが起こっているのか。科学や論理だけで全てを説明することはできないと思っている。

 

 

子供たちは成長し、やがて名付けられたものの外縁と向きあわなければならない。
彼ら/彼女らはもはや地球人のままではいられない。
日本人であり、どこそこの企業に勤めている人であり、父親であり、二児の母であり、頭痛持ちであり、原発反対であり、メッシよりクリスチアーノ・ロナウド派であり、バイリンガルであり、音楽が好きであり、旅人である。(これらはTwitterのプロフィール欄に書かれているものだ。)

いろいろな名前を背負うことで、私たちは私たちになっていくのかもしれない。(でも本当に?)

 

言葉は記号であり道具である。
これは正しい。
道具であるならば、どれくらい役にたつか、どれくらい目的にかなっているかによってその評価が決まる。
これも正しい。

でも、言葉に先立って存在している何かのためだけに言葉は存在しているのではない、とも思う。
そう思うことはノスタルジーであり、イデオロギーであり、信仰であるのかもしれないのだけれど。
構うものか。

言葉はうまれ、わたしたちの親やその親、遠い昔の人々たちとともに在った。
私たちの生よりもはるかに長いその年月をおもい、生まれたての言葉たちに祝福を与える。
たまにはそういう時間があってもいい。
「三月の水」を聞き、膝の上で眠る猫と体温を分け合いながら、そんなことを考えている。

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