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photo by Mark Barton

 

※この記事は特集「世界には輪郭なんてない」の記事です。

 

京都の網

自分は都内山手線内に住まわって20年強、いきなり縁もゆかりもない京都市に転居し2年になんなんとする者なのですが、いやはや忘れもしない2年前、こちらで物件を探すにあたり、関東もんなら誰でも驚くであろう秘された事実、それは

 

「各所に地雷のように存在するアンタッチャブルエリア」

 

に他ならぬのです。そんなものがこの世にあるという事実に初めて遭遇し、まずは驚くところから始まる関東もん。

ただしそういうエリアについては不動産業者も心得たもので、最初からすすめてこない。し、こちらも物件探しする前から奇妙に耳年増となりにけり、やけに身構えていたりする。かくしてのっけからそういう采配が双方で行われるため、自然と形成される「住みわけ」というもの。

 

当初、そのようなアンタッチャブルエリアとそうではない住居地とが、ほんの道路1本隔て接近して同居ましますこの地の様相に、半ば呆れもした。

グローバル化ススム現代にあって、因習と前時代的な差別意識でしかない「アンタッチャブル」とは如何なものかいなと。

しかし2年間住まううちに、それは幼稚で、てんで甘ちゃんな発想に過ぎぬのではないかと思うようになった。だってそうだろう。

 

そもそも関東もんが「差別」を語るは1000年早い、と思う。関東という地はたかだか江戸期から開墾された、その前は人の寄り付かぬ湿地帯だ。歴史がない、吹けば飛ぶような根の浅いお土地柄、西と違い国際間交流も乏しい僻地である。そこには因習や差別意識が巣食うだけの年月が存在しないと言っていいのであり、存在しない土地で育った人間が、あっけらかんと「そういうの良くないよね」と横から放言するのは勝手だが、コトは簡単ではないのだ。進んで差別しましょうと言っているのではないよ。

 

そもそも歴史深く、因縁だらけの道程ありで、一刀両断に片付く問題でないのであれば、

 

「関わらない」

 

が一番だろうという、目下の関東もんの総論です。土台自分自身が他所から闖入したツマハジキ者なのであり、土地に根ざす諸問題諸事情に嘴容れたところで、なんの益もない。我もまた、外来者多かろう地域に地味ぃにすっ込んで、目立たぬよう静かに、息も殺して暮らすのが道理というものだ。

 

見渡せば、昨今のEU圏や北米も。

 

東の果てで呑気に眺めている限り、ははあ成る程。貧困層によるエスタブリッシュメント批判、反グローバリゼーション、それでもってEU離脱劇や波乱の大統領選、…と見るのみだが、とっくの昔にそうでない、くっきり人種差別界隈へと大きくシフト…いや、実際には最初からそっちが本質だったのだろう。だってそれが彼らにとって、生きる上で密接に関わりある、切羽詰まった日常事なのだから。

 

なんなら単一民族であるとまで思い込み、移民に対し極度に排他的である島国に住まう我々には、外国の喧騒、他人事だろうか? 今も自分が表層の街、誰もが闖入者であるが故に誰も闖入者ではない街であるところの、トーキョーのド真ん中にいたならば、自分は「はあ、他人事です」と答えた。都市であるなら、雑多な人種を受け入れるのが最大の特性だろうよと、それで話は終了する、しかしそれは先刻も述べたように「そもそも存在しない」が故の鷹揚なのであり、人道的にご高潔な心根から出たもの…なんかでは、てんでないのである。

 

この地に住まうようになり、誰もがどこか怯えたような姿勢で音もたてずに歩き回る街(颯爽としているのは旅行者だけです)、ふとした拍子に立ち昇る湿気を帯びた臭気、そんなものどもを肌で感じる日々を送り、思うことはこれだけだ。

 

住みわけは、大事だよ。

 

マアだって「人類は皆兄弟」などではないですよ。

人類とは決して一種類ではなく、微細に異なる人種というものが複雑怪奇に敵対し合う、もしくは敵対するように仕組まれる、所詮そういう「サガ」なのだろう。再度念を押すけれども進んで差別しよう論ではない、目の玉を掃除清掃し凝視したほうがいいのは、自身の中にきっとあるだろう差別意識の菌糸のほうだ。まずそれが「誰にでもある」を大前提に物事を構築するが早い、あるかもしれんものを乱暴にないと言い切り済ませるなよ。

成る程自分はこれからも、差別主義者ではないという建前で、はい。生きるだろう。しかし我の中にその菌糸が0%とは言い切らん、そういうアテにならない身中巣食う悪しき心というものを、生涯監視し続けるのみである。

 

そして、京都市のようなかつての都、血で血を洗うよな歴史に価値観ひっ繰り返され続けた市井の人々、彼らはそういうことを「身体感覚でわかっている」のだろうと、幼稚で甘ちゃんな関東もんは痛ぅ感いたした、そこに至るまでに2年もなんなんとす。

都市部における境界を考える上で、指針となるひとつの街の有り様、いっそそれは「スマート」と言ってのけて構わない。

表面上は波立てず、あたかもそんなものはないように繕いながらも、あるものはある。であるからして網の目のように細分化し、暗黙のうちに皆で了解する、それが密集した都市部に雑多な人間が暮らす「知恵」なのだろうよ、「いけず」だけど。