※この記事は特集「世界には輪郭なんてない」の記事です。

110番街は、ニューヨークのセントラルパーク北端を東西に走る通りだ。そこより北はハーレムと呼ばれる地域で、かつてこの通りは黒人社会と白人社会を隔てる境界線だった。

 

1972年に公開された、バリー・シアー監督による映画『110番街交差点』は、アンソニー・クイン、ヤフェット・コットー主演による刑事もので、当時ブームとなった「ブラックスプロイテーション」映画の1つである。

 

「ブラックスプロイテーション」とは、70年代初めに作られた、黒人向け娯楽映画の総称で、代表的な作品として『黒いジャガー』、『スーパーフライ』等がある。主演に黒人俳優を使い、サウンドトラックにソウルやファンク音楽を使用しているのが特徴だ。『110番街交差点』の原題は『Across The 110th Street』、映画そのものよりも、ボビー・ウーマックの歌った同名の主題歌があまりにも有名で、またサウンドトラックはレアグルーブの名盤として多くのDJに取り上げられた。

 

 

映画の冒頭、その主題歌に乗せて、マフィアの黒塗りの高級車がセントラルパークと高級住宅街の間を走る。

 

“110番街を渡ってみな ポン引きは弱い女を食い物に

110番街の向こう側じゃ ジャンキーは売人の奴隷

110番街を渡ってみろよ 女はケチなチャンスを狙ってる

110番街の向こうでは 毎日がこんな感じなのさ“

 “Across The 110th Street”

 

歌詞の通り、車が110番街を越えると街の風景は一変する。ゴミだらけの通り、古く薄汚れた建物、何をするでもなく街角にたむろする男達。70年代当時のニューヨークでは、経済不況と破綻寸前の財政、度重なる停電等により治安は悪化する一途で、中でも近づいてはいけない危険な場所として真っ先にあげられるのがハーレムだった。

 

そのハーレムで、黒人警官を装った3人組の強盗が、イタリア系マフィアと黒人ギャングのアジトを襲い、全員を射殺し金を強奪する事件が起きた。縄張りを荒らされ、面子が立たないマフィアと、事件を捜査する警察の双方が、犯人を探し始める。

 

差別的な白人の老警部マテリと、若い黒人警部補ポープが事件の担当だ。ハーレムに暮らす黒人達を差別的に扱い、暴力や脅しを使って捜査を進めるマテリに対し、法に則った捜査にこだわるポープ。裏社会は裏社会で、黒人を手下としか見ていないマフィアに、ギャングは口には出さない憎悪を募らせている。

 

追われる犯人達は、根っからの悪人ではない。持病持ちの貧しい男が、ハーレムからの脱出を夢見て企んだ強盗事件だ。だが、マフィアと警察の両方から追われ、徐々に逃げ場を失っていく。

 

この映画は、特に名作と呼ぶほどでもない大衆向け映画だ。しかし、1964年の公民権法制定以降も、思ったような変化が起こらない黒人社会の苛立ちが、こうした映画の流行と言う形で現れてきたものだと言える。白人の足元にはいつくばって生きるか、悪事に手を染めるかしか選べない、当時のハーレムの黒人の悲哀を象徴するストーリーだった。

 

1990年代にはいり、ルドルフ・ジュリアーニが市長に就任すると、マフィアの撲滅や汚職警官の追放に乗り出し、治安は大きく改善した。ジュリアーニは再開発にも積極的に取り組み、それまで危険とされてきた場所を観光資源に転化する。ハーレムもその再開発の一環となり、大型店舗やチェーンストアが進出し、2001年には、元大統領ビル・クリントンがオフィスを構えるまでになった。

 

現在のハーレムは、以前のようなスラム街ではない。今や日本人観光客も頻繁に訪れるエリアだ。見かけ上は、110番街を境界線とした白人社会と黒人社会のあからさまな分断はなくなったかに見える。ハーレムは今でも主に黒人居住区であることには変わりないが、その割合は減少している。しかし、それは人種の融合が成功したというよりは、再開発による地価の高騰で、黒人世帯が流出しただけなのかもしれない。差別はアメリカ社会にいまだ根深く住み着いているのだ。

 

 

「Black Lives Matter」は、ここ数年拡がりをみせている社会的ムーブメントだ。訳すなら、「黒人の命だって大切だ」というところだろうか。2013年、フロリダで黒人少年が地域の自警団メンバーに「正当防衛」で射殺された事件に端を発し、警官による黒人への過剰な暴力や、刑事司法制度の人種的不平等への抗議活動として始まった。

 

同様の悲劇が全米各地で繰り返されている。2014年にはミズーリ州ファーガソンでも黒人少年が警官に射殺された。目撃証言によると、少年は丸腰で両手を上げていたとされているが、大陪審が撃った警官の訴追を見送ったことから、抗議活動はミズーリから全米へ飛び火し、拡大していった。

 

黒人であるだけで、不当に疑われ、頻繁に職務質問を受ける。それに抵抗する素振りを見せれば、反抗的という理由で拘束、もっと悪ければ射殺されてしまうのだ。2015年、警官に射殺された黒人は少なくとも346人、そのうち3分の1は丸腰だったという。警官の側に、黒人に対する偏見が存在するのは確実だ。

 

それが正当かどうかという議論は横に置いて、警官が黒人なら撃たなかったのか、撃ったとしたらこの問題がここまで大きくなったのかと考える。アメリカのような多様な人種構成の国において、警察官は管轄地域の人種比率に沿った構成になっていることが「平等」だと思うのだが、地域によっては著しく偏った人種構成になっている。たとえば、ファーガソンの人口の65%は黒人だが、警官は白人50人に対し黒人はたった3人だった。アメリカでは、地域の人口比に対し、警官の白人比率が30%以上高い警察署が多くあるそうだ。なぜこういうことになるのだろうか。

 

『110番街交差点』の劇中で、黒人警部補ポープが事件の担当になったのは、「上層部の決定」だと語られる。公民権法制定後、アファーマティブ・アクションと呼ばれる政策により、役所や企業、大学などに黒人を優先的に、(もしくは平等に)採用することが義務付けられたのだ。白人警部マテリは、ポープの抜擢を初めは認めない。上層部に逆に解雇されることを恐れて、渋々受け入れる。

 

この政策が正しく機能し続けていれば、警官の人種構成も適正なものになっていたはずだが、アファーマティブ・アクションは逆差別だという批判が拡大し、1995年以降は限定的なものになってしまった。

 

アメリカというのは、不思議な国だなと思う。この文章では「黒人」という表現をあえて使ったが、アメリカでは「アフリカ系アメリカ人」と表記するのが正しいということになっている。肌の色に起因した「黒人」という表現は差別的だから、ということらしい。また、映画やドラマの世界では様々な人種の俳優をキャストに配置するように定められている。マイノリティに属する俳優に、平等な機会を与えるためだそうだ。

 

それはいいことなのだろうが、私が不思議に思うのは、そういった決め事は定着するにもかかわらず、社会システム上のこととなると、アファーマティブ・アクションの例のように、カウンター勢力によってあっさりと骨抜きにされてしまうこと、そして、その時に持ち出されるのは決まって「自由と平等の精神」に反する、という理屈だということなのだ。その時々で「自由と平等」の意味は恣意的に使い分けられる。マジョリティにとっての「平等」は、マイノリティにとって「不平等」である事実を追いやって、アメリカは「自由の国」と胸を張る図太さを、私はなかなか理解できないのだ。