お気楽結婚観とは?

 

好きな落語の枕に「お前たち、なんで結婚したんだい?」「だってさぶい(寒い)んだもの」という小噺があります。

 

20歳で結婚という異常に初動が早かった自分のような者からすると、結婚とは刹那の勢い、

 

「事故に似ているな」

 

との印象しか、なかったりする。

 

早々に離婚して、以来(戸籍上は)独身…の今でもまだ、“結婚のきっかけなんざぁなんでもいいんじゃないの”と、楽天的かつ、無責任に思っていたり。そしてもし、とんでもなく気が合わないとか、驚くような悪癖の持ち主だったとか、何がしか我慢し難い瑕疵あれば、さっさと離婚したらいいのに。…とも、思っております。ええ。ごめん。

 

なるほど、江戸期は離婚も多かったそうで。

 

当時の「家」は血縁関係をあまり重視せず、首のすげ替え適宜ご自由に…「使える者が居りさえすればいいです」という、ある意味合理的なもので、実子ですら出来が悪ければ代わりに養子を迎え、商売を継がせたりなど。結婚に関して言えば、子どもが産めない女性は即刻離縁、が常識でしたよと。

 

これだけ聞くとなんちゅう女性蔑視かと、眼球が三角に固形化しそうですが、夫が妻に突きつけた「三行半」なる離縁状は同時に“気兼ねなく次の人探して頂戴”という許可状でもあったようで、なんだか現代よりもむしろ都会的なかんじで、サバサバ。鯖。(ちなみに三行半は夫→妻への一方通行で、妻から突きつけることは不可だったため、女性の避難先として“縁切り寺”があった)

 

離婚&再婚にタブー感などは、なかったようです。

 

また、今では同意しかねるよな「一人口は食えぬが二人口は食える」という諺があることからも、「経済的には一人より二人の方が断然いいよね〜」が、基本的なお考えだった模様。江戸期も都市部は独身者が多かったとはいえ、農村部の結婚率は100%に近かったようです。

 

今現在、経済的理由で結婚できない…とはよく耳にする申し開きですが、江戸期の「二人口は食える」という生活の知恵を垣間見るに、もしかして違うんじゃないの? と思わぬでもありません。労働条件・経済事情もさることながら、希望を持てるよな「結婚観」が見当たらず、さして良いことも無さそうな結婚をわざわざする理由がない…というのが本当の、本音ではなかろうか。雨下。鵜か。

 

「結婚」というもの自体が、あまりにも窮屈だ。

 

1万年も続いたとされる縄文期まで遡れば、採取生活ならではの「群婚」、要するにフリーセックスですね。中には気に入った女性を肩に乗っけて持ち帰るという通称「かたげ婚」なるものも、あったでしょうとの由。かたげまで発展すると「略奪婚」の部類、気持ちの赴くままに行動すれば、これすなわち略奪ともなりうるというのは、現代の不倫にも悠々通じるところの道理。さしてやってることに変化はないのだと考えることもでき、要はそれを周囲が許すか許さないかの倫理観、結婚観でしかありません。

 

たかが「観」であるので、そんなものはニーズに合わせて意識を変えたらいいよ、と自分などは簡単に考える。

 

あるいは万葉集などを紐解きますと、気に入ればジャンジャン恋文を送りつける女性たちやら、女性宅にしげしげと通いつめる男性たちが、互いに歌を詠みまくっております。通ううちに女性の母親や家人が気付いて、男性に餅を食わせて女家の一員と認めた、その間凡そ三日くらいだったが故に通称「三日餅」。とか、あまりに即物的かつ牧歌的で同じ国とも思えぬほどだ。母系社会の為せる技だったのでありましょうが、現代人も奈良時代の遺伝子を呼び覚まし、も少し気楽に結婚して、気楽に離婚して、気楽に再婚したらどうか?

 

気楽?

 

…なんという無責任、子どもはどうする! という反論となりましょう。そうでしょう。しかし母系社会の歴史は現実にあったのであり、究極愛情を注いでくれる大人が一人でもいれば良くて、それが母親なら尚、可。は、あながち間違ってない気がします。あるいはステップアップファミリー、乳母、保育所、里親…、個々の事情で調達することにさしたる「抵抗感」もない世の中…その方が、子殺しするまで追い詰められるほど選択肢の狭い世の中よりは「子どもに優る宝なし」を、よほど実践しているのではなかろうか。

 

母系社会だった平安期も過ぎ、鎌倉・戦国時代以降、唐の影響で家父長制が始まる。女性の地位はぐっと下がりまして、父権の絶対視。この頃より、武家は政略結婚、愛情や人柄などというものは無関係だよ、そんなものは。という結婚観へと変貌していったようだ。室町時代頃より、「嫁入り」との語が登場するようなので、結婚は俄然「家と家との結びつき強化」の役割を担うようになり、その傾向は江戸や明治にまで綿々と繋がっております。

 

そして昭和の時代…1970年代頃までは、結婚率が90%近くありましたよ、えっへんと。当時はお見合い結婚が主流で、適齢期ともなればいつまでも独り身だと後ろ指さされる、脇からお相手を紹介され、柵内に追い込まれるよにバタバタと夫婦に。なんだ、なんでもいいからくっつけてただけか、と思わぬでもありません。というのもこの頃大量輸送のようにご結婚された方々に、「仲良きことは美しき哉」と惚れ惚れするよなご夫婦はあまりいない。彼らが子世代に自らの結婚の失敗を恨みつらみ節で言って聞かせたことが、現在のアラフォー・アラフィフ世代の独身率を上げる助けに…かなり…なったのではなかろうかな。

 

現在は晴れて、恋愛結婚? どんどんやってくれ。…という、じつに何のしがらみもない時代となりました。であるのに、いざ様々な社会的制約から解き放たれてみると、あれ、全然結婚したくない。というのは微細なご事情を取っ払い、乱暴に言えばつまるところ、「自縛」なのでしょうね、と思う。

 

お気楽結婚観を、今こそ。

 

 

近未来的結婚観?

 

昨年話題になったドラマ、「逃げ恥」で広く知られるようになった「契約結婚」というワード。

 

えっ、「契約結婚」なる新しい結婚形態があるのか…と誤解しがちですが、あくまでも結婚前に契約書を交わすよ、の意ですよ。

 

金銭の受け渡し有り・愛情無しのビジネスライクな関係性のことを指すのか? とか、偽装結婚の綺麗な言い回しか? とか、どれも違います。結婚したいカップルが自分たちの諸条件を書面にする…つまり、結婚の意思があること前提なので、お間違えのないように。

 

この「プレナップ」と呼ばれる婚前契約は今や、アメリカでは20%、フランスでは25%のカップルが結婚前に交わしているのだそうだよ。

 

内容には特に決まりごとがあるわけではなく、生活上の費用分担や離婚条件、離婚時の財産分与や慰謝料、子育て・介護についてなどなど…お互いに話し合って適宜作成するもの。なんですね。根。

 

え、そういうのはハリウッドセレブとか、富裕層のすることなんじゃないの? と、ズズズと一線引かずとも、書類を作成し(弁護士に依頼も可)、公正証書にしておくなどの方法で、ここ日本でもちゃんと成立いたします。随意「週に一度は愛していると言うこと」などという項目を入れ込むことも、どうぞご自由に。

 

結婚というものに対し、あまり希望が持てず、気軽に赤の他人との生活に飛び込んで、要らん労苦を背負いこむ勇気は到底ございません…という向きには、むしろ先回りして想定し、取り決めてしまう「契約結婚」の方が安心できるに違いない。

 

ちなみに「婚前契約書」を交わした後には婚姻届を出すのが通常のようですが、出さずに事実婚のままスタート、というケースもあるとの由。事実婚の場合でも、そこに結婚の実態があると見なされ、契約書は有効。結婚はしてないけど結婚と見なされ、ある程度の権利もあり、書類上はするつもりもない「結婚」の事前契約を締結…日本の事実婚もなかなかやるなぁと思う一方で、ご結婚も随分と「入れ子構造」のよになって参りましたものです。

 

この混沌とした人生劇場を泳ぎきるには、やはり個々人がシンプルに本質を見つめないことには、溺れてしまいそう。

 

ところでこの契約結婚という考え方は「結婚は、契約だ」と宣ったフランスの哲学者、サルトル(1905~1980年)が提唱したのが始まり。サルトルさんは実際にそれを実行いたしまして、なんだかんだで生涯死ぬるまでの50年間、それを貫かれました。はい。

 

この世界的に有名な哲学者同士のカップル、サルトルとボーヴォワールの場合は、婚前契約を取り交わした後はずっと事実婚(事実婚のパイオニアでもある)、

 

「僕たちの恋は必然的なものだ。だが、偶然の恋も知る必要がある」

 

とのサルトルのご提案により、二人は結婚の実態をとりながらも、お互いに自由恋愛okという関係性だったのですね。ですが。

 

いざ契約結婚生活が始まってみると、自由恋愛を謳歌したのは夫のサルトルばかり、ボーヴォワールは嫉妬に苛まれ、辛い思いの連続だったようです。

 

「愛には貞操が必要だ」と諭したところで、ちっとも聞く耳持たぬサルトルに対抗しまして、ボーヴォワールさんが契約通りに自由恋愛をご実行いたしまして、元教え子との同性愛に走りますと、今後はサルトルさんがメラメラと妬み心を抱き、くんぬぅ…とばかりにその女性を横から寝取るよ。世界に先駆けた契約結婚はなかなかに波乱万丈だった模様。

 

1929年頃のフランスでの結婚とは女性にとって、「女中働きに出る」のと同様、妻には財産管理権すら無かった。ボーヴォワールはそんな結婚に嫌悪感を抱いたからこそ、新しい結婚の発明とでも呼びたくなる契約結婚に同意したのですしね…と考えると、理知的な女性が浮気男に悩まされてお気の毒…と同情するべきか、いや。

 

当初2年の契約はずっと更新され、サルトルが死ぬまで続くのです。

 

ボーヴォワールはこの苦難に満ちた契約結婚を糧に「第二の性」を書き、フェミニズムの元祖となる。ある意味、めでたし。

 

このところ日本でも「ポリアモリー」という概念がありますよという、セクシュアリティーの多様性を訴える動きが出て参りました。複数愛、愛する相手が一人とは限らんでしょうという考え方です。

 

男性側だけに許されていたとはいえ、我が国も明治期までは二号お妾当たり前、の実質一夫多妻も認められていましたね。(一夫一婦制は明治期半ば、キリスト教の影響でようやく確立しました)

 

“事実婚って同棲とどう違うのか論議”と等しく、“ポリアモリーは浮気とどう違うのか論議”は当然のことでしょう。肝心なのは「お互い同意の上で複数の人と関係を持つ」という点で、隠し事はしない、嫉妬心を覚えたらむしろ「相手との関係性に問題があるのかもしれない」と反省しましょう。というもの。

 

お気楽結婚、契約結婚、いずれも人によってはハードルが高そうですが、現代の結婚というものをもっと多角的に捉えた「ポリアモリーを認め合った上での結婚」に至っては、自らのセクシュアリティーの見極めを誤ったが最後、さぞや喧嘩、訴訟、果たし合いにまでご発展…は、サルトルとボーヴォワールすらも落ちた砂地獄なのでありまして、しかしながら。

 

どんな結婚観であろうと、お互いが納得し、継続可能ならそれでヨシ、です。

 

世間的に新奇と思われたり、仲間はずれにされ笑われても、その新奇を「二人で話し合い、困難を乗り越える」ことが出来るならば、それはご立派な新しい結婚観として、次の世代の可能性をね。ぐっと広げていくのではなかろうかしら。