「真実はいつもひとつ」――見た目は子ども、頭脳は大人の名探偵が真犯人を言い当てる。事件はめでたく解決し、平和な日常が戻った。DVDの停止ボタンを押しながら私はため息をつく。本当に世界がそれくらい単純であればいいのにと。

 

「真実」とは人を陶酔させる魔法の言葉だ。その中には高濃度の「正義」がブレンドされていて、より大きな声で、より効果的なタイミングで発することで、「正義」を自分の側に引き寄せることを可能にする。

 

ウンベルト・エーコの『プラハの墓地』は、史上最悪の偽書と言われる「シオン賢者の議定書」がいかにして作られていったのかを追う歴史ミステリーだ。「議定書」は1897年の第1回シオニスト会議における決議書という体裁の書物である。ユダヤ民族が無能な群衆を掌握して世界制覇を目論んでいることを証明するものとして反ユダヤ主義に大きな影響を与え、ナチスのホロコーストを引き起こした根拠ともされているが、その出どころや作者については曖昧である。『プラハの墓地』は、主人公以外はほぼ実在の人物を登場させ、19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパで反ユダヤ主義を下地とした陰謀論がいかに都合よく操作されていったかを描き出した。

 

 

 

19世紀末、パリのさびれた骨董品屋。商売は表向きの偽装にすぎず、店主シモニーニの本業は文書の偽造だった。ある日彼は自分の記憶に空白があることに気づく。そして回想録のつもりで書き始めた日記に、時折自分のものではない筆跡の書き込みが現れる。部屋の奥の隠し扉は別のアパルトマンにつながっており、そこには見覚えのない僧服がかけられていた。自分は誰なのか。そしてこの僧服は誰のものなのか。シモニーニは自分の記憶の欠落を埋めるべく回想録を書き進めるのだ。

 

イタリアで生まれ、反ユダヤ主義者の祖父に育てられたシモニーニは、祖父の死後その財産を騙し取られ路頭に迷いかけたところを、財産を奪った張本人である公証人に拾われて文書偽造の助手として働き始める。めきめきと腕を上げた彼は、その能力を買われイタリア統一運動に工作員として関わっていく。保身と金のためなら手を汚すことも厭わない。

 

パリに移ったシモニーニは、パリ・コミューンに潜入して政府軍の手引きをしたり、ドレフュス事件でユダヤ人将校ドレフュスを陥れる文書の偽造を行ったりと、激動する世紀末で暗躍する。各国の諜報機関や、イエズス会、フリーメイソン、果ては悪魔崇拝者による黒ミサなどが入り乱れる物語を回想するのは時にシモニーニであり、時に正体不明のイエズス会士ダッラ・ピッコロだ。『プラハの墓地』は、歴史を背景に謎解きやオカルト、エロティックな場面までも盛り込んだ知的娯楽小説なのである。

 

 

 

時代の裏側で生きるシモニーニの根底に常にあるのは祖父から受け継いだユダヤ人への憎悪だ。若き日に読んだアレクサンドル・デュマ(大デュマ)の新聞小説『ジョゼフ・バルサモ』に着想を得た彼は、偶然目にした版画に描かれたプラハのユダヤ人墓地を舞台に、陰謀を企てるユダヤ人賢者の「邪悪さ」を脚色し偽文書に仕立て上げる。

 

その時々で変わるシモニーニの依頼者たちは、必ずしも彼の偽文書に飛びつくわけではない。情勢から判断して、表向きユダヤ人社会と波風を立てたくない時はあっさり退けられる。だが着想から10数年を経てアップデートを重ねた文書にロシアの秘密警察オフラーナが目をつける。民衆の不満を皇帝からユダヤ人にそらす目的でついに世に出た「議定書」は、反ユダヤ主義の根拠として世界に広まっていった。

 

 

 

シモニーニが暗躍した19世紀末は、タイプライターが普及し始めた時期と一致する。彼は技術の進歩によって自分のような偽文書屋はいずれ仕事ができなくなると憂うのだが、果たしてそうなっただろうか。私たちの周囲には真偽の明らかでない情報が渦巻いている。今もシモニーニは存在し、何食わぬ顔で隣人として暮しているのだ。

 

2016年、にわかに注目度された言葉に「フェイクニュース」があった。英国のEU離脱の是非を問う国民投票や、米国の大統領選の前に流された虚偽の情報が、人々の投票行動に影響を与えたからである。確認を怠り騙される方が悪いと言うのは簡単だ。では例えば先日の衆院選で誰に投票すべきか考える際、出どころの違う複数の資料を精査した人がどれだけいるか。新聞に折り込まれる選挙公報では「ホントのこと」はわからないと言いながら、安直にネットの情報を漁った人もいるはずだ。他人のことは言えない。私だって似たようなものである。

 

だがそうした時、その真偽にどれだけの確信が持てるだろう。自分が掘り当てた情報が信頼に足るものか判断する基準は、そこで言われていることが自分の意に沿うものかどうかになりがちだ。エーコは、作中でシモニーニにこう語らせている。

 

“陰謀の暴露話を売りつけるためには、まったく独自のものを渡すのではなく、すでに相手が知っていることを、そしてとりわけ別の経路でより簡単に知っていそうなことだけを渡すべきだと考えるようになった。人々はすでに知っていることだけを信じる。これこそが<陰謀の普遍的形式>の素晴らしい点なのだ。”

 

つまり人は信じたいものを信じる。それを回避するには全てを客観的に疑っていかなければならないが、それはとても難しい。疑惑は人を疲れさせるからだ。

 

手に入れた情報の真偽を常に疑ってかかるにはエネルギーがいる。どこかに反証はないか、自分の視点にバイアスはないか、そうした自問自答を繰り返すうちに人は疲れてしまう。そんな時大きな声で「こちらに『真実』が用意してございます」と言われたら、「もうそういうことでいいか」という気になってくるのだ。

 

それでなくても必要以上の情報にさらされている私たちは、真偽を疑う以前にまずは情報の選択をしなければならない。少し古い統計になるが、総務省の発表によれば平成21年度の流通情報量は1日あたりDVD2.9億枚相当、対して消費情報量はDVD1.1万枚相当だったそうだ。その後同様の統計が出ていないが、スマホが普及して流通する情報量はさらに増加していると考えられる。1日は24時間しかないし、この先も増えはしないのだから、どんなに頑張っても消費できる情報量はそうそう増やせない。これでは反証を探そうにも検索することすら難しい。

 

あふれる情報の取捨選択を効率化するために「カスタマイズ」や「レコメンド」という機能が一般化した。ウェブを見ているとき、あなたのページにはどんな広告が表示されるのだろうか。ちなみに私はアンチエイジングのサプリや化粧品だ。うんざりさせられるけれど、さらに興味のない車や金融商品が表示されるよりは多分マシなのだろう。

 

広告ならばそれでもいいとして、ニュースはどうか。この秋グーグルやアマゾンが軒並みAIスピーカーなるものを発売した。一声かけると、その日の天気や交通情報、ニュースなどを教えてくれるのだそうだ。そのニュースのセレクトの基準を「ユーザーの気に入りそうなもの」にすることも(現時点で実装されているかはともかくとして)可能なはずだ。そうなったら、私たちは聞きたいニュースだけを聞いて、信じたいものだけを信じて暮らすことになる。その裏側に何があるのか疑う力はどんどん失われていってしまうだろう。これは怖い。飲み込みやすく切り分けられた情報が、切り分けられる以前にどんな形をしていたのか。少なくともそこに留意しなければならないと感じるのだ。

 

エーコは、『プラハの墓地』に先立って出版された『小説の森探索』の中で、「議定書」の出典には多くの大衆小説が使われていると述べている。先の引用にもある通り、人が慣れ親しんだ物語の形式、言い換えれば「エンタメ性」を持ち込んだことで「議定書」がここまで世界に浸透することを可能としたのではないか。

 

『プラハの墓地』自体も、当時人気を博したこれらの大衆小説のスタイルになぞらえて書かれた。ここで描かれたのは単なる偽文書屋の半生ではない。エーコは大衆小説のエンタメ性という「議定書」と同じスタイルを用いて、「議定書」とは真逆の方向から、憎悪や不寛容が「真実」を装って人々を操作するメカニズムに光をあてようとしたのである。

 

ヒトラーは『我が闘争』の中で、当時すでに偽書であるとされていた「議定書」について、その出自がどうかは問題でなく、その内容がユダヤ人の本質を突いていることが重要なのだと言った。人は信じたいことを信じる。「真実」という言葉は、多面的に物事を見ることから私たちを遠ざける誘惑なのだ。皿に乗せてさし出される「真実」を鵜呑みにする前に、このことを思い出さなければいけない。「真実はいつもひとつ」そう言っているちびっ子探偵だって、その正体は見た目通りではないのだ。