夫婦で世界中を旅して回り、各地の料理を再現する。そんな一風変わった小さな料理店が野方にある。「旅の食堂 ととら亭」。季節ごとに変わる「旅のメニュー」が看板だ。店名の「ととら」は南米のチチカカ湖に住む少数民族が浮島や家、船を作る材料に使う”トトラ葦”から名付けた。訪問国数が50に到達した店主・久保栄治さんに、お店に込めた思いを伺った。

 

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ーどんなきっかけで、お店を始められたんですか?

よく聞かれるんですけど、一大決心をしてというのは全くないんですよ。僕も妻も元々旅人で、そう言うとかっこいいけど、要は貧乏旅行が好き。会社員をやっていたら休日は最長9日間がいいところじゃないですか。「それ以上」というと退職願を出して、親を泣かせてからじゃないと行けない(笑)。そういう馬鹿なこともやりましたけど。

実際、南米とかアフリカを回るとなると、それなりの時間が必要になってくる。なんとか旅を続けていくにはどうしたらいいだろうかと考えて、この形に落ち着きましたね。旅というのは手段でも目的でもなくて、我々のピュアな有り様そのもの。「飲食店をやりたい」「旅の食堂をやりたい」というのとは違って、自由な旅をするにはどうしたらいいだろうねという流れの中で、会社員じゃ厳しいよね、じゃあこんなのをやったらどうだろうということで、今のととら亭の形に落ち着いたんです。

 

ーこのお店以前に、飲食店をやられていたわけではないんですね

ないない。ないですね。僕も妻もいろんな仕事をしていました。妻は10年ちょっとは飲食業界でフレンチやドイツ料理を中心に学んだけれど、僕はシステム系の仕事をやっていました。独立する前に、二人でいろんなコンセプトを決めたんです。僕たちのルール。

そのうちの一つが、「人に雇われず、雇わず」。要はバックパッカーなんですよ。独立に至る中で、「自分たちのすっぴんの状態というのはどういうものだろう」とか「僕たちの一番ハッピーな時間は何をしている時なんだろう」という話をしていて、「旅しているときが一番楽しいよね」と。で、貧乏旅行をするなら、そんなに必要な物事ってないんですよね。それでね、僕たちの一番大切なのは何かって言うと自由なんだよね。また自由なんていうと格好よく聞こえちゃうんですけど、これがやってみると大変なもんでね。結局、何でも屋になっちゃう。

 

ー何でも屋、ですか

会社員って旅行に例えるなら団体ツアーだと思うんですよ。例えば(ペルーの)マチュピチュに行きたいというときに、個人だとマチュピチュに行く電車のチケットを抑えるだけでもチケットはどこで売っているの? どうやって買うの? そういうことを調べて、実際に買うのに半日くらいかかる。で、それを押さえた後に今度はマチュピチュの入場券を買わなきゃいけない。それもどこに売っているんだよ、そこまでどうやって行くんだよってなって、結局2つのチケットを手に入れるのに丸一日かかってしまった。

ツアーならそんなこと考えなくていい。朝、ホテルのロビーに行くとチケットが用意されているから、そういう馬鹿なことに丸一日使わなくてもいいんですね。こういうところが普段の仕事も同じで、会社員をやっていたときのほとんど倍の労働時間になっちゃった。でも、これはどっちがいい悪いというより、大変な自由を取るか、楽な不自由を取るかという、スタイルの違いなんじゃないかな。後者は大変といえば大変なんだけど、僕たちはその方がなんか楽しいんですよ。バックパッカー的な旅のスタイルで仕事ができたらいいねという流れの中で、行き着いたのがこの業種業態だったんですよね。

 

ー仕事を含めて旅にしてしまった

会社員をやっていたら、自分の意思に反することでも、仕事上、言ったりやったりしなければならない時がある。それがない、”すっぴんの状態”で生きていく方が楽じゃないの?という思いが妻との間にあった。僕は今接客という仕事もやっていますけど、ノーマニュアルなので結構素の言葉で喋っています。もちろんお客様としての気は遣いますが、普段の素のままで、自分の部屋に遊びに来てくれたんだ、「あ、どうもこんにちは」というスタンスで接している。売り上げうんぬんは別の話ですが、そういう意味では思った通りにはなったのかな。

 

ー売り上げの話が出ましたけど、このお店の難しいのは旅に出ると営業日が減り、かつ経費が嵩みますよね。大変ではありませんか?

そういう意味では、僕たちは非常にリッチだと思います。僕は自家用車も持っていないしアパート住まいで、高価なものは何も持っていないですけど、不便を感じたり何かを我慢しているわけではありません。何がリッチかというと、満足度のレベルが非常に低い夫婦なんですね。

 

ー経済的・金銭的な部分に重きを置いていない

やっぱり人間なんで、お金や物なくしては生きていけない。ただ、満足度のレベルが低いんですよ。例えば南米の旅をしていると、あったかいシャワーというのがすごく贅沢なんです。僕たちが旅した冬は、標高も高いし、とっても寒いんですよ。1泊1,000円以下の安宿だと、電気シャワーなんですよ。シャワー口に電熱器みたいなのがついていて、水が流れるとスイッチが入ってニクロム線が温まって、そこを通過した水がシャワーから出てくる。ちょぼちょぼにすると少しあったかくなるけど、 いっぱい出せばぬるくなる。 寒いんですよ。

 

ー温まりきらないんですね(笑)

米ドルで15〜20ドルくらい出すと、ガスシャワーになるんですけど、この仕組みがまたすごくてね、湯沸かし器とガスボンベが直結なんです。そうすると「ああ、お湯が出た」って喜んで浴びている途中で、たまにガスがなくなることがあるんです。氷点下でいきなり水シャワーになって、「ぎゃーっ!」て(笑)。今のアパートだとそういうことがない。日本では当たり前なんだけど、ぼくらには当たり前じゃない。だから、「うちはいいところだよね、お湯がちゃんと出る」って。

 

ー旅が日常化するというのは、そういうことなんですね。

日本に住んでいて本当に素晴らしいと思うのは、まず水道水が飲めるでしょ、生野菜も食べられる、怪我をすれば救急車が10分以内に来てくれるし、おまわりさんもすぐ来てくれる。停電もしないでしょ。僕たちが訪れた国では、停電する国の方が多いんですよ。停電や断水が普通に起きる。あとは布団にノミもナンキン虫もいないんで、僕らはそれだけで「素晴らしいね」って感じる。

そうすると、お金があまりかからなくなるんですよね。要求レベルが下がれば、達成しなければいけないハードルも下がって生き方が楽になってくる。バックパッカーの旅は当たり前のことが当たり前じゃない旅になるんで、帰ってくると当たり前の世界がとても素晴らしく見えるんですよ。どんどん要求レベルが下がっていって、非常に志の低い人間になる(笑)。

 

ー国の選び方は

この仕事を始めてからは、美味しい料理を皆さんに紹介できて、かつ再現可能性が高いものがあることをまず第一に考えます。あとはメニューがアジア系、中東系とひとつの地域に偏っても飽きられちゃうんで、変化をつけつつ、実は3、4年先まで考えた取材スケジュールがあるんですよ。ただ、それには必ずプランBがあって、国際情勢とか病気系の影響でプランAがダメになると、プランBに切り替えて行きますね。

 

ー今までも変更されたことは

ありますね。例えばシリアもエジプトも候補に入っていました。エジプトは行けないことはないけれど、シリアは論外ですね。僕らは探検家でも報道機関でもないんで、命がけで行く気はありません。勘違いしているお客さんが多いんですけど、僕は危険なことが嫌いです(笑)。ただ散々避けていても避けきれない時もあって、皆さんそういう話を聞きたがります(苦笑)。