2011年製作のハンガリー・フランス・スイス・ドイツ合作、渾身のモノクロフィルム映画です。
タイトルは「哲学者ニーチェがトリノの広場で鞭打たれる馬を見て泣き崩れ、そのまま発狂した」という有名な逸話から。
監督タル・ベーラ氏が長年温めていた「その馬はどうなったのだろう?」という疑問を元に撮られた映画とのことで、原題は「トリノの馬」だそうです。ニーチェという名前を出されると「ニーチェが出てくる映画か!」と早合点しがちですが、ニーチェじゃないです。馬ですよ。
冒頭、吹きすさぶ暴風と砂埃の中、老人が荷馬車を走らせる場面。
ははあ、もしかしてこの馬がその、広場の例の、アレなんですかねー、ニーチェの訴えで助けられて、どこか良い処へでも行くんですかねー、…などとハリウッド映画的な思考を巡らしていられるのも、ほんの30秒くらいの間でしかないでありましょう。
呻きのような、重苦しい弦楽。
四方から睨め回すカメラワーク。
老人は無言。
「そもそもこれは観てもいいものなのだろうか…」
という慄きのようなものに、襲われる。やばいかも。観るのはやめて、カフェーでお茶でも飲んできたりなぞ、したろかしらん…? と、尻のあたりがモゾモゾしてきやがります。
しまいには、荷馬車がこのままずっと走っていたらどうしよう? という危惧をも浮かぶのですが、じつに心憎い映画ですね。後になってまさか
「走ってたほうが、よほどマシだったわ…」
と、この場面を懐かしく思い出すことになるなんてねえ。
さてさてやがて、ついに、いい加減にしろよというかんじで、もぉ本当にようやく、馬と共に荒野の一軒家に到着。
自宅なのでありましょう、帰宅した父を、娘が迎え出ます。
二人はほとんど会話することもなく、暴風の中で黙々と馬具を外したり馬を馬小屋へ入れたり、荷馬車を納屋にしまったりという一連の、うんざりするような作業を展開。カメラは超長回しで、逐一それを捉えております。
大抵の人はそろそろこう叫ぶでしょう、
「こんなに尺、いるんかい!」。
そうです、観る人の体内時計あるいは辛抱の限度の「ぎりっぎり」を試す一種の実験なのではないかいな…とも疑いたくなる、タイム感。
かといって私がこの辺りでもう観るのをやめて、ラジオ体操でも始めたのか? というと、否。
それどころか、怖いもの見たさにも似た面妖な好奇心が勝って、覚えず瞬きもせず、食い入るように見入ってしまう。
さしたる理由もなしに結局は凝視し続けてしまうわけですから、やはり成功しているのだと言わざるを得ないような、絶妙(?)なタイム感。絶妙と言っていいのかも、もはやわからん。
継ぎ目なく縫い目なく、まるで呼吸のように、止まらぬ下痢便のように(失礼しました)ゆるゆると揺蕩う。え? 漢字が読めない? 「たゆたう」ように、流れる時間と空間。なわけです。
こうして老人と娘と馬との「6日間」が描かれます。描かれるというよりは、いっそ自分もこの人らと「共に過ごす」感覚。
外は大嵐、農作業も出来ません。
石造りの質素な家の中で行われる、単調なルーチンワーク。
井戸への水汲み、右半身が不自由な老人の着替え、馬の世話、茹でたジャガイモのみの食事、食後に窓から呆然と荒野を眺める…。
これに6日間つき合うわけですよ。
絶えず耳につく暴風音と相まって、永遠に続くのではないかと思わせる。
しかし、毎日毎日同じことの繰り返しなのかと思いきや、決してそうではなかったのですね。
「巧みにカメラアングルを変えたりして、変化をつけているだけじゃね」などと思うかもしれませんが、そうではないのです。
螺旋階段を降りるが如く、水滴が岩を穿つが如く、些細と言えば些細な出来事が繋がり、蓄積し、次第に歪みが生じ始めます。
起こるはずのないことが起き、あるべきものが無くなる。
ニーチェは「神は死んだ」と言いましたが、神なき後の6日間でしょうか、これは。
ゆっくりと終末に向かう世界、馬が最初にそれを察知したものでありましょうか、水も飲まず餌も食べなくなったのには参りました。動物好きにとってはもうそれだけで胸苦しい。
映画を観てたはずなのに、現実世界も侵食され、こちらの喉元にも砂でも詰まったかのようだ。
坂道を転げるように事態は悪化してゆき、それでも親子は単調な日常を頑固に続けようとします。
しかし、きっと7日目は来ない…。
ぐわああぁ…。まさに、人生の終わりってこういうものだよ。
普段、から騒ぎしてるテレビのバラエティとか、あの手この手で遊ばせるスマホのゲームとか、友人とのたわいもないメッセのやりとりとか、本当にどぉでもいい暇つぶしに過ぎぬものどもにごまかされ、絶望感をすり替えられ、単に見ないようにしているだけなんだよ。
心底、怖い。
神様、助けてくださいっ!
…実際私はそのくらいの恐怖を覚えました。
もしかしてこれは、ホラー映画なのではなかろうか?
154分すなわち2時間34分。
長いはずなのに少しも長くありません。