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photo by Scott Schram

 

薄暗い舞台の上に、グランドピアノが1つ、ぽつんと置いてある。気が付けば私はそこに、バイオリンを手にして立っている。

そうだ、今日はオーケストラのオーディションの日なのだ。

おもむろに伴奏者が、ピアノで協奏曲の序奏を弾き始める。

ん?

これ、練習してきたブラームスの協奏曲じゃなくて、シベリウスの協奏曲じゃない!?

待って!と叫ぶ間もなく、曲はバイオリンソロが入る小節に差し掛かる。

私はとっさに、もう何年も弾いていないシベリウスの協奏曲を弾き始めてしまう。

1ページ目くらいまでは、まだ何とか暗譜している。でも、2ページ目からはどうなっていたっけ。覚えてない。どうしよう、止まっちゃう!!

、、、、

と、いうところで、目が覚める。

音楽家あるあるの悪夢である。

楽しい就職活動なんて、あるわけがない。

オーケストラのオーディションも例に漏れず、あまり楽しくない。

今回はそんなオーディションのお話。

 

(前回のお話はこちら。)

 

そもそも空きがない、オーケストラの席

 

ソリスト、音楽教室の講師、音楽の先生、フリーランスの音楽家、、、音楽大学で学んだ学生の卒業後の進路は様々である。

オーケストラで働くというのも人気の道の一つだ。

でも、オーケストラに席を得るのはなかなか難しい。

うまいか下手かを別にして、まずそんなに空きがない。

毎年音楽大学から卒業する人はたくさんいる。しかしそのタイミングでオーケストラに、自分の楽器のポジションの空きがあるとは限らない。

バイオリンなど、1つのオーケストラにたくさん人数が必要な楽器は、それでもちょこちょこ募集はある。気の毒なのはフルートなど、1つのオーケストラに数人分の席しかない楽器である。若い奏者が一度入団すれば、その奏者が移籍のために自主的に退職したり、素行が悪すぎてクビになったりしない限り、定年までの40年ほどはその席の募集はない。

また、オーディションに年齢制限を設けているオーケストラは多い。大抵は35歳くらいまでである。自分がオーケストラのオーディションに適した年齢の時に、募集がなければ、まず受けることすらできないのだ。

 

ヨーロッパでオーディションを受けるために必要な招待状

 

運よく自分の楽器に募集がかかっていて、挑戦を決めたのならば、まず普通の企業と同じように願書と履歴書を送る。ヨーロッパは今、インターネット上のボタンを1つ押すだけで簡単にオーディションの申し込みができるようになってきた。私が日本でオーディションを受けたのは10年以上も前なので、当時勿論そんなシステムはなかった。手書きの履歴書をドキドキしながら郵便で送ったことを今でも覚えている。

日本とヨーロッパで大きく違うことは、招待状の有無である。

日本のオーケストラは、申し込みさえすれば誰でも受けることができる所が多いが、ドイツやオーストリアのオーケストラでは、Einladung(アインラードゥンク)と呼ばれる招待状が必要になる。招待状が送られるかどうかは、履歴書の情報をもとにオーケストラ側が決める。

日本の方式だと、参加自由なので確かに公平ではあるが、1つのポジションに希望者が殺到した場合、ライバルの数がとんでもないことになる。招待状の方式だと、招待状がもらえた、もらえなかったで不公平感が生まれることが多いし、オーケストラ側にも履歴書だけではわからない、金の卵を取り逃してしまうこともある。

 

勝ち抜き制のオーディション

 

オーケストラのオーディションには、一般の入社試験のような一般常識等の筆記試験はない。あったら、恐らく受験者全滅である。要求されるのは演奏家としての腕、それのみだ。清々しいほどわかりやすい。

どんな曲を演奏するかというと、どこのオーケストラでも大体要求される曲は決まっていて、例えばバイオリンだと、美しい音や音楽のスタイルが試されるモーツァルトのバイオリン協奏曲と、高度なテクニックと豊かな感性を試されるロマン派以降のバイオリン協奏曲、そして職人芸が試されるオーケストラスタディ(注)であることが多い。

協奏曲は、大学受験やコンクールの為に必ず準備する必要のあるものなので、割と皆、弾き慣れている。

しかし、オーケストラスタディは、オーケストラに入団するために特殊に勉強するものなので、コツを掴むまでなかなか厄介である。しかも1曲1曲がとても短い。数十秒で終わってしまう曲もある。そしてこれらの曲すべてが、「オーケストラの中で、何となくグチャーっと弾くのならなんとかなるけど、1人で弾くとか冗談でしょ」と泣きたくなってしまうような曲達である。短い分、ミスをしたら立ち直る間もなく終わってしまうのも痛い。オーケストラスタディをどれだけ仕上げるか、これがオーディションを勝ち抜く大きなキーポイントになる。

オーディションは1次試験から始まり、勝者一人が決定するまでの勝ち抜き制になっている。ヨーロッパでは普通、弾く順番はオーディションの日に、くじ引きで決められる。1番は心の準備ができる前に舞台に引きずり出されるし、最後は待ち時間が長くてくたびれてしまう。どの番号を引くかは運しだいで、なかなかドキドキする。私がお気に入りなのは3番くらいだ。お気に入りの数字が出ると、縁起がいい、今日はうまくいくぞ!と根拠のない自信が湧いてくるので人間って結構単純である。

1次で、基準点以上を出し、尚且つ上位何名かの者が2次に残る。この時点で、受験者全員が一定の点数に達していなければ、オーディションが打ち切られてしまうこともある。受験者もがっかり、オーケストラもがっくりである。

その後も勝者が一人に決まるまで試験は繰り返される。接戦となったときは、丸一日の長丁場になる。

 

 

閑話休題。

これはチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団という有名オーケストラが、冗談で作ったオーディションの動画。演奏会で曲中に現れるカウベルの音が気に入らなかった指揮者が、カウベルのみを演奏する演奏者を募集した結果、受験希望者がオーディションに殺到するのだが、最終的には本物の牛が勝つ、というものである。実際のオーディションの雰囲気はとても出ているし、何より面白いのでご覧あれ。

 

 

たった3分の勝負

 

招待状方式をとっているドイツやオーストリアのオーケストラでさえ、1度に20人ほどの受験者がやってくるのだから、招待状方式をとってないオーケストラのオーディションには100人を超える受験者が来ることもある。オーディションが1日では終わらず、2日にわたることもある。それでも1次試験では、聞いてもらえる時間なんてほんの3分ほどだったりする。

受験する方からすると、たった3分で一体何を表現しろっていうんだ!と暴れたくなるが、そういうもんなのだから仕方がない。冒頭3分間のみを死ぬ気で練習していく作戦は、オーディション対策に有効だが、曲の後半を全く練習していかないと、何かの拍子に最後まで弾かされた時に、公開処刑状態になる。(ソースは私)

団員が、自分の弟子にわざといい点をつけるような依怙贔屓は起こらないの?なんて聞かれることがある。演奏の良し悪しは、データ上の数字ではっきり見えるようなものではないので、確かに「ん?なんであの人が通ってあの人が落ちたの?」ということが起こってしまうことが、ないとは言い難い。

それを防ぐために、多くのオーケストラがオーディションでカーテン審査の制度を用いている。1次と2次審査で、審査員と舞台の間にカーテンや衝立などの目隠しを設け、審査員の方から誰が演奏しているか見えないようにするのである。

もちろん、携帯電話が普及した今、自分が何番目に弾くかカーテンの後ろにいる審査員にメールをすることは難しくない。でも、そんなことがバレたら始末書どころでは済まないので、そこまでする人を見たことはまだない。

試験も終盤に近づくと普通、目隠しは取り払われる。残った受験者達は1人の音楽家として名前を読み上げられ、拍手で舞台に迎えられる。ここまで残った者は、皆実力のある人ばかりだ。

でも、選ばれるのはたった1人!

これが、2位や3位、入賞などの存在するコンクールとの大きな違いである。オーディションでは、2位以下には何の意味もない。受かるか、受からないかの2択。普段どんなにうまく弾けていても、オーディションの日に少しでもミスをすれば全てが水の泡。筆記試験と違って、一度出してしまった音は取り消すことができない、まさしく一発勝負なのである。

 

案外和やか、受験者同士の雰囲気

 

そんなオーディションだから、さぞかし舞台裏で受験者同士はギスギスした雰囲気なのかと思いきや、実はそうでもない。これが漫画だったら、トイレに行っている間に楽器の弦が切られていた、とか、ライバルに楽譜を隠された、なんて事件が起きそうだが、実際私が知る限りそんな話は聞いたことがない。むしろ、どこのページまで弾かされたよ、とか、やばい、2楽章弾かされるよ!とか皆で和気あいあいと情報交換したりしている。

受験者は、舞台裏や楽屋で自分の順番以外は自由に過ごすことができる。その過ごし方は人それぞれで、最後のあがきとばかり、なぜかトイレで必死に練習をしている人もいれば、(多分そこが一番うるさくないんだろう。。)今更弾いても何も変わらないし、待ち時間も長そうだし、コーヒーでも飲みに行ってくるわー、と出かけてしまう自由人もいる。自由すぎてたまに行方不明になってしまう人が出てきて、順番が繰り上がることがあると、その後に弾く人は心の準備ができないまま舞台上に放り出されるという、とばっちりを受ける。

オーディションの舞台裏には、人生の岐路に立つ若い演奏家たちのドラマがある。それは楽しいドラマではないけれど、彼らは皆ピリリと将来を見据えた、とてもいい顔をしている。受験者同士の間にはライバルというよりは戦友というのに近い、ちょっと不思議な一体感があって、誰かが受かれば、他の受験者は惜しみない賛辞をおくるし、共に敗退すれば、オーケストラの悪口を叫びながら飲みにくり出したりする。

もしも皆さんが、オーケストラの演奏会に行く機会があって、そこで黒い衣装に身を包み、演奏をするオーケストラ団員の姿を見ることがあるならば、それが一見穏やかな光景に見えても、実は彼らがストレス満載なオーディションという戦場を勝ち抜いてきた心臓に毛の生え、、、もとい、ライオンハートを持った戦士たちだということを、ちょっとだけ思い出してほしい。

一味違ったオーケストラの楽しみ方を発見できるかもしれない。

 

※オーケストラスタディ ・・実際のオーケストラの曲の、自分のパート部分を1人で演奏すること。どの曲の、どの部分を演奏するかは、試験の1か月ほど前に、オーケストラから指定されるまでわからない。大体10曲から20曲指定されて、実際に試験で弾かされるのはその中のほんの数曲である。最終的にどの曲を弾くことになるかわからないため、全部きちんと弾けるようにしておかなければならない。バイオリンの場合だとリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」の冒頭部分や、モーツァルトの交響曲39番の4楽章冒頭が指定されることが多い。ヨーロッパのオーケストラだと、受験するオーケストラがシンフォニーオーケストラか、オペラかで要求される曲が変わってくる。オペラだと、一番有名なバイオリンのオーケストラスタディはワーグナーの楽劇「ジークフリート」。