誰かの為に作曲したレクイエムが、結果自分のレクイエムになってしまった作曲家というと、普通はモーツァルトを思い出しそうなものだが、私はなぜかアルバン・ベルクを思い出す。

 

アルバン・ベルク「ヴァイオリン協奏曲」

 

アルバン・ベルク。

1885年に生まれ、20世紀前半に活躍したウィーン生まれの作曲家。同じくウィーン生まれのシェーンベルクに作曲を学び、無調音楽と12音音楽を開拓した。

西洋クラシックの領域で20世紀以降の近現代音楽に、耳に心地よい音楽はそう多くない。

私は割とどんな音楽に対しても寛容なほうだと思うのだが、例えばこんな音楽。

 

ラ・モンテ・ヤング「Composition 1960 #7 」

、、、、。

ん?放送事故?

ここまでくると、音楽とはなんぞや、とほとんど哲学的とも思える疑問に首を傾げることになる。

 

 

西洋では、長い歳月をかけて調性音楽が築きあげられてきた。

メロディーやハーモニーがある、私たちに親しみのある音楽である。

しかし、新しい手法やアプローチを模索する作曲家たちによって、19世紀後半ごろから調性音楽は否定され始める。そして形成されたのが無調の音楽だ。20世紀初頭、調性音楽は完全に崩壊する。その後、無調音楽に秩序を与えるために生まれたのが、12音音楽である。

1オクターブ内にある音は12個。

これら12個の音を重複しないように1つずつ使って音列を作る。こうして形成された音列を基本形として、リズムを変えたり、音列を反対から読んだりしながら作られるのが12音音楽である。

耳なじみのよい調性音楽とは違って、そこにメロディーやハーモニーがあるわけではないため、難解と感じられて敬遠されがちである。

 

アルバン・ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」も、その12音技法でできている。

それにも関わらずこの協奏曲、ドラマチックで感動的なのである。

この曲には、„Dem Andenken eines Engels“(ある天使の思い出に)という副題がついている。

「ある天使」とは、ベルクの友人、アルマ・マーラーの娘、マノンのことだ。

当時、ベルクはルイス・クライナーというバイオリニストに、バイオリン協奏曲を委嘱されていた。ベルクはバイオリンの曲は十分に書いたと考えていたし、何より、「ルル」というオペラの作曲中だった為その依頼を受けるかどうか迷った。しかし、クライナーの提示した報酬が1500ドルと高額だったため、引き受けることに決めたのである。

バイオリン協奏曲の構想を練り始めて間もない頃、ベルクはマノンが小児麻痺で亡くなったことを聞く。たった18歳の若さであった。

マノンを大変かわいがっていたベルクにとって、彼女の死は辛いものだった。

ベルクはこの協奏曲をマノンに捧げることに決めた。そして彼はたった3か月で作品を完成させたのだ。

 

 

ヴィヴァルディやバッハなどが活躍していたバロック時代から、協奏曲といえばすでに急緩急の3楽章構成であるのが習慣だった。しかし、この協奏曲は2楽章構成で成り立っている。

第1楽章は、若いマノンの音楽的ポートレートである。10小節にわたる、宇宙の始まりような密やかな序奏。バイオリンのソロは、4本の解放弦の音で始まる。純粋無垢、穢れをしらないマノンを象徴しているようである。

序奏が終わると、この曲を支配する12音の音列の基本形が提示される。12音音楽はもともと調性の束縛から逃れるためのものであったのにも関わらず、アルバン・ベルクがこの曲で提示している12音音列は、長調と短調、そして全音音階をミックスさせた、あえて調性音楽の残滓を残すものだ。それが、この曲が12音音楽でありつつも、私たちに親しみを感じさせ、何度も再演されるような人気の曲にした理由の1つではないかと思う。

優雅に、愛らしく、マノンの姿を描きながら曲は進む。突如、ウィーンのワルツ風の音楽が現れる。無邪気に踊る彼女の背後に、所々潜むため息のモチーフ。後に訪れる死の影を暗示するように一度不穏に音楽は高揚するが、その不安を振り払うように再び無邪気なワルツが現れる。

遠くからかすかに田舎の雰囲気の、素朴で幼いメロディーが聞こえてくる。このメロディーはベルク自身が作曲したものではなく、実際にオーストリアに存在する歌の旋律である。オーストリアのケルンテン州という地方思わせるように、とベルクは楽譜の中に記述している。ケルンテンはベルクとマノンが初めて出会った場所なのだ。彼女の思い出を回想するように奏でられたこの旋律は、再びワルツの中にかき消され、不吉な病魔の足音を予感させながら楽章を閉じる。

マノンの闘病と、昇天を描く2楽章はドラマチックに幕を開ける。痛み、悲鳴、死への恐怖に満ちた22小節間のバイオリンのカデンツ。それは死のダンスのモチーフになだれ込む。渦巻きながら、膨張していく死のダンス。ついに死神が両手を広げて、マノンを抱きとめようとしたその瞬間、突如小康状態がやってくる。咳き込みながら、尚も1楽章で現れたワルツを無邪気に踊ろうとする彼女。しかし、その小康状態も長くは続かない。再び病魔は彼女を捕らえ、生を勝ち取ろうとする勇敢なマノンと死神の激しい戦いが、死のダンスのテーマを背景に続く。

やがて、マノンは疲れ果てる。

激しい死神との戦いの音楽がふと消え失せて、まるで薄暗い教会の中の響くパイプオルガンのように、ひそかに、宗教的に、美しいコラールが演奏される。

このコラールは17世紀の作曲家ヨハン・ルドルフ・アーレによるもの。(バッハのカンタータにも使われていたので、ベルクはこれがバッハの作品だと思っていたようである)

フランツ・ヨアヒム・ブルマイスターによるコラールの歌詞は、ベルクの楽譜にも書き込まれている。

「もう十分です

主よ、どうか私に休息を与えてください

私のイエス様がいらっしゃる

この世界よ、さようなら、

苦しみはこの世に残して心やすらかに

私は天国へと旅立ちます
もう十分です」

コラールが過ぎ去ると、灰色のうねりのような音楽がやってくる。耳を澄ますと、今もなお背景にドロドロと不気味に低くコラールのメロディーが流れているのが聞こえる。生死の境を彷徨い、魘されているマノンの悪夢のようだ。

やがて、うねりは糸がほどけるように徐々に静まっていく。

遠くから再び、あの田舎の懐かしい歌のメロディーが聞こえてくる。でも、それはさっきよりも、ずっとゆっくりのテンポで穏やかに。最後にこの世の思い出を馳せるように。

「もう十分です」

バイオリンの音で一段と高く、今一度そう呟かれると、よろよろと音は降下し、ぷつり、と不自然に途切れる。

息を引き取るマノンを表すように。

ベルクが1楽章で提示した基本の12音音階が、美しく光を放ちながらあちらこちらで天へと昇っていく。最後にバイオリンの4つの解放弦の音が鳴り響く。

苦しみから解放されてマノンはやっと自由になり、安らかに曲は終わる。

 

この協奏曲、ただドラマチックなだけでなく、多くの作曲家がそうしたように、ベルクもたくさんの数字の暗号をこの曲に織り込んでいる。2楽章の冒頭の死のダンスまでへのカデンツが22小節。コラールも22小節(バッハのカンタータのコラールは20小節)、曲の副題Dem Andenken eines Engelsは、22のアルファベット。。この22という数字は、マノンが4月22日に亡くなったことから来ているのだろう。また、2楽章の一番最後の和音は18個の音で構成されている。これは、マノンが18歳でこの世を去ったことを表しているのではないだろうか。

ベルクがこの曲を脱稿したのは、1935年7月23日。同年のクリスマス・イヴに彼は敗血症でこの世を去っていて、初演に立ち会うことは叶わなかった。

マノンへのレクイエムは彼自身へのレクイエムとなったのである。

もしも、20世紀の無調音楽や12音音楽を聴くことに抵抗がある人がいるならば、もしくはそれが未知の領域なのであれば、一度是非この曲を聴いてみてほしい。

カオスの中、ふときらめく光に、鳥肌が立つ瞬間がきっとあるのではないかと思う。