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自分は「かわいい」よりは「かっこいい」が好きな子どもであった。

 

10歳前後より、服装も持ち物も、すべて女子というよりは男子のソレであった記憶があります。

 

それがまあ、どうでしょう。

 

今では「かわいい!」と言っておけば万事、コトが済む時節と相成った。

何を見てもとりあえず、なんでもかんでも「かわいい!」と言っときゃいいのだ。

 

さすればその場は波風も立たず、発言した当人も「かわいいって言ってる私もなんならかわいい」という調子、かわいいはどこまでも伝播・連鎖してゆき、ますます世界はかわいく…なっとるのかどうか知らんが。

 

そもそも、本当に「かわいい」のかなぁそれは。

 

イヤイヤ、何を言う。一見一聴「かわいい」であってもすべてが同じとは限らず、そこには多層に連なるグラデーションというものがだね。快不快あり、賞賛もあれば揶揄もあり、共感してるとも限らず、反感覚えてるとも言い切らず、乙女ゴコロは工業製品じゃないのよ、猫目石。

 

そんなにまでした細かい機微が「かわいい」の言外に付随しているものなのかしらん、知らんが。

 

もしも「かわいい」一語にあまりに小宇宙内合並みに表現を丸投げしてしまっているならば、本当に心底かわいい、これはもうどうにもこうにも、丸めて壁に投げたいくらいにかわいいぞ、ああ食ってしまいたいくらいだ。という時、「かわいい」で済むのかという大問題をも、横たわっている。

 

(その意味で、かわいさというものを余さず表現した言い切り、最大級の称賛「かわゆす」なる造語の発明主、しょこたんこと中川翔子氏は凄い)

 

 

それでは「たのしい」はどうだろうねと考えるとすぐに、作文のことを思い出す。

 

遠足へ繰り出しただの、演劇鑑賞をしただの、新奇な読書をしただのという事後に、いちいち書かされるところの「感想文」なるもの。

同級生のソレを逐一通読いたしまするに、

 

「ソフトボール大会がありました。とてもたのしかったです」

 

との、ご意見ご感想以前の「瞬発的に自分の気持ちが、こう動きましたけど何か」なる簡易報告に過ぎぬ…というか小学生のソレは、末尾この「たのしかったです」で結ばれてる率99%ちゅーても、そうそう外れておらぬことでせう。

 

たのしい、まあ大いに結構なので良かったねという話ですが、かような学校側からの「どうでした?」打診みたいな課題への返答のよにして、ボタン押せば「たのしい」出てくる出てくるくるくるわわわみたいな画一を眺めるや、それはあんまりにもダイバーシティじゃないというのか、「行事があれば、万人がたのしいよね。だよね。そうだよね」的ステレオタイプな感情の動きの強要・蔓延をば、垣間見る次第。

 

「たのしかった」結びですべてが丸く収まるこの感じ、まぁ「かわいい」と何ら変わるところはない…のみならず、文章を綴るとか、思考を深めるという鍛錬であるべきはずの教育現場がですね、そんな感じでいいんですかねぇとは、思うよね。

 

あなどれぬよ、形容詞。

 

だって物さえもらえば「うれしい」、新幹線で泣く赤子は「うるさい」、手間なく儲ければ「おいしい」、女性は痩せていても尚「ふとい」、独居はおしなべて「さみしい」、はみ出た振る舞いをするヤツは「おかしい」、わかりやすければ「正しい」、などなど。など。どなどな。子牛。

 

そんな風に友人知人と日々交わされ、教育現場で叩き込まれ、家庭でも刷り込まれ、ひいては世間も当たり前にそのまま突き進んでいくところの根源には

 

「符牒の習得」

 

が何食わぬ顔で滑り込んでいるのだからね。

 

殊に「やさしいお母さん」、「たくましい男性」、「かわいい赤ちゃん」、……ひとたび名詞と接着するや否や、にわかに纏わりつき始める、ある種の強迫観念。

 

ああ禍々しいな、形容詞め。

 

 

自分は10代の終わり、芸術系の大学受験を予定していた。ために、毎日静物や石膏のデッサンに励んでいた時期があった。

 

「並んだ三角柱とマクワウリ」とかそんなのを、10時間、20時間と描き続けるよう、時間枠が決まっているわけですが、自分はいまだに身内から「遠近法発見以前の人」と定義されるほどに、生まれつき3D感覚を欠く感性のくせに平気で生きている人間です。アウトラインを決めて、ちょっと影つけて、模様入れて、30分くらいで「もう描くことありまへん」状態。

 

素早く描き終えたから、偉いのでしょうか。いいえ。

 

美大受験も自分で断念するほどに、いわゆるところの「ファインアート」の才は無く、デッサンの初歩の初歩の入り口にも差し掛からぬうちに、止してしまった。

なので、デッサンを行うということに対し、身体的に習得したことはほとんどありません。

 

しかし、自分の手は思うよに動かないまでも、指導陣が背後でごたごたとぬかしてきやがったり、あるいは他の生徒が褒められたり貶されたり蹴られたりしているのを逐一観察して得た「概念」はある。それは

 

「触るように描け」

 

ということではなかろうかな。カナブン。

 

急いてはあかんのであり、急くというのはつまり「決めつける」ということであり、「三角柱とマクワウリなんて、どうせこんな形してんじゃねえの」とか「窓はこっちだから明るいのはここだけっしょ」とか「影は真っ黒に決まってんじゃん」とか、決めつけたら決めつけただけ、決めつけ勝ちで作業はサクサク進むのである。

 

せちがらいこの世に生きる限り、答えを早く出すということが重要な局面は、そら多いでしょうけれども。

 

ことデッサンに関しては、答えがあると思う者…いや、答えを出すことにしか興味のない者…堪え性の無さ故に、与えられた20時間に耐えられなくなる者…そういう者ども(無論わたくしも含まれております)はすべて、一絡げに束にして縁台に投げ出すべき、うつけ者でしかない。

 

時間短縮でことを行う=優れている。とはゆかぬ世界にあっては、いたずらな素早さはすなわち、熟慮の足りぬ「怠惰」である。

 

まあ、だからね。

 

当然のようにすぐそこにある「簡便なる形容詞」には、このデッサン初心者が陥るところの

 

「怠惰の穴」

 

と同じ穴が空いていることよなあ…と、うつけ者はしみじみ思うよ。初夏の風。