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チャイナ・ミエヴィル「都市と都市」は風変わりな小説である。フォーマットとしてはよくある警察ものミステリーなのだが、その舞台設定が奇妙なのだ。

 

バルカン半島の近くに2つの都市国家がある。ベジェルとウル・コーマ。2つの国は言語も違うし、服装も、歴史や経済状況も違う。ここまでは当たり前にあることだが、この2国は、地理的に同じ土地の上にある。1つの国土に2つの国家が存在しているのだ。

 

長年に渡る深刻な対立の末に、2国はこうした形での「共生」を見出した。

その国土の上で2つの国家は、物理的に両者を隔てる国境を持たないまま、まるでモザイクのように入り組んでいる。ベジェルのエリア、ウル・コーマのエリア、そしてクロスハッチと呼ばれる双方が交じり合うエリア。

そして、この小説で最も奇異なのは、同じ土地の上で生活する2国の住民達が、相手を全く無いものとして生活するという慣習に沿って暮らしていることだ。

 

クロスハッチ地区においては、自分がベジェルの人間でも、隣人はそうでないかもしれない。道の前方から来るのはウル・コーマの車かもしれない。それを存在しないものとして扱うのである。とはいうものの、見なければ衝突して事故になる。従って、なんとなく視界には入れるけれども凝視はしない、という複雑な方法で回避するのだ。もちろん触ってはいけない。料理の匂いを嗅いで、美味しそうだ、などと感じてもいけない。

 

この慣習を侵すことは「ブリーチ行為」と呼ばれ、超法規的組織「ブリーチ」によって監視されている。そしてブリーチ行為を犯したものは、ただちにいずこかへ拉致されてしまうのだ。

だから住民たちは、現実世界であたかも相手をパラレルワールド上の存在としてスルーするというスキルを幼少期から獲得していく。

 

 

物語は、ベジェルで身元不明の女性の遺体が発見されることから始まる。ベジェル警察のボルル警部補が事件を担当することになったが、捜査を進めていくと、この女性が2国の統一を目指す地下組織と関係していたこと、実はウル・コーマにやってきた留学生であることがわかってくるのだ。

 

事件捜査を軸とする話なので、あまり詳細を語ることはネタバレにつながるから控えるが、ボルル警部補はウル・コーマの警察と合同捜査をとることになる。街のとある建物の中で「入国審査」を受けることで、ボルルは「ウル・コーマの滞在者」となる。

その建物に入る前と出た後で、同じ街が異国の街として現れる。今度はベジェルの人間を「存在しないもの」として振舞わなければいけないのだ。

 

 

著者であるチャイナ・ミエヴィルは、この小説を寓話として書いたのではないと語っているそうだが、それは単に、イスラエルとか、アイルランドとか、特定の何かを意図して書いたわけではないという意味ではないかと思う。私はここに現実社会を投影せずに読むことのほうが難しいと思っている。解決の難しい対立は、どこにでもあるからだ。

 

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先日来、今年のフジロック・フェスティバルに政治性が持ち込まれたと嫌悪する人たちと、フジロックは元々政治性を包含してきたイベントであると主張する人たちの間で、ちょっとした騒動が起こっていた。1つのステージに、SEALDsの奥田愛其氏の出演が公表されたことがきっかけだという。

 

実際のところ、フジロックでのこうしたイベントは今回が初めてではなく、奥田氏が出演予定のザ・アトミックカフェは2011年からの出展だし、そもそもフジロックはNGOヴィレッジという名称で様々なNGOに活動紹介の場を提供しているのだ。それは今までも、今回も、出演する他のアーティスト達にまで何かの意味づけを与えるようなものではなかったと思うのだ。

 

それを、ここへきて何を今さらこのような騒ぎになったのだろうか。

 

見かけ上は、アンチ奥田派と、容認派という政治的な構造に見える。もちろん、様々な主義主張の人がいるのだから、誰かを支持するしないはその人の自由だ。しかし、今回の騒ぎに私がひっかかりを感じるのはそこではなく、この対立は仕立てられたものに感じるというところだ。ここまでの騒ぎになった理由は、音楽に政治性はいらない、と言ったアンチ奥田派の誰かのつぶやきを拾い上げ、油を注いだ上に火を放った人間がいたからなのだ。

 

 

私が最初にこの騒ぎについて知ったのは、SNSでこの件についての「まとめ」がシェアされてきたからだ。フジロックを巡ってこんな大騒ぎになっていますよ、というものだ。多くの人が、投げられたその餌に食いついた。もちろん私も含めて。

 

ネット上では、すぐに「まとめ」が作られる。何かが意見の相違を見せようものなら、そのまとめには両極の意見ばかりが集められ、対立の構造が仕立て上げられる。

 

特にネット上ではそうだが、それに限ったことではない。テレビや雑誌などのマスコミでも、わかりやすい対立構造ありきで話が進められていくことが、最近目に見えて多くなった気がする。

 

右なのか左なのか、ベッキー肯定派なのか否定派なのか、大多数の人の意見はもっと曖昧なはずなのに、どちらかに恣意的にまとめられてしまうのだ。極端な方が、数字が稼げるだろうから。

 

そうした場で、対立する者どうしが対峙した時、そこには議論はない。夜中の某テレビ「討論」番組のように、相手の声をさえぎって、大きい声を出した方が勝ちなのだ。

その方法論が、政治家でも、評論家でも、もちろん一般の私たちの中でさえも普通に通用するようになっていることに、私は薄気味の悪さを覚える。

 

そして、その不毛な対立に疲れたあげく行き着く先に「スルー」がある。

相手を「荒らし」と決めつけて、「スルー」することで、自分の正当性を消極的に主張するのだ。

 

「スルー」はある意味便利だ。戦わずして勝ったような気にさせる。だが「スルースキル」とは本来、自分の意に染まないものをないものとして扱うことではなく、何をスルーし、何を正当に扱うかを正しく判断するスキルであるべきではないのか。

 

安直な「スルー」は、そこにある対話の可能性を無視することだ。「無視」は「分断」をもたらし、「分断」は「理解」を生まない。理解する努力を放棄して、ひたすらスルーすることで、その場しのぎの安定だけをよしとするならば、その安定を乱すものは反逆行為になってしまう。それが正当な対話を目指すものであっても。

 

言葉を使った殴り合いでも、冷笑を伴ったスルーでもなく、ちゃんとした対話を望むのは不可能なのだろうか。

私はどちらがマウンティングで優位に立つかを見たいわけではない。互いが互いの意見を真摯に吟味しあった上での討論が見たいのだ。そこから何かを考えたいし、恣意的に作り出された二極の一方に、簡単に乗せられたくはないのだ。

 

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話を「都市と都市」に戻そう。ウル・コーマ警察と合同捜査することになったボルル警部補は、当然歓待されない。しかし、その軋轢を超え、ウル・コーマの刑事と行動をともにする中でやがて信頼が生まれる。そして犯人を追うために、自らがやむなくブリーチ行為を犯す。その結果わかるのは、両国の対立を利用して、利益を得ようと目論む人間の存在なのだ。

 

事の本質は、なんとなく視界の端に入れるだけではわからない。見えない国境を超えて、相手を見つめることで初めて、埋めるべき溝のありかがわかるのかもしれない。そのためには、私たちはもっと成熟しなくてはならない。何をスルーし、何を見つめるべきなのか、それを知るためのスキルを磨かなくてはならないのだと思う。

 

 

この物語の中で、2国の関係性は最後まで変わることはない。お互いを存在しないものとする慣習はそのままで終わる。そして事件を解決したボルル警部補は、ベジェルでもウル・コーマでもない存在として、この静かな対立を守ることを選択する。解消し得ない対立が決定的な崩壊を迎えないための、その時点での最善の方策として受け入れるのだ。それは彼にとって、諦めや恐れのためではなく、気の遠くなるような先にある和解のための選択であるように感じた。

 

 

「都市と都市」はイギリスBBCでドラマ化が決定していて、今年の後半に放映の予定だそうだ。スコットランド独立か残留か、EU離脱か残留か、国を二分するような対立に揺れたイギリスで、このドラマがどんな意図で作られ、どう受け取られるのか、私は見てみたい。日本でも放送してくれたらいいのにと思っている。