「はい、2ユーロ。」
真っ黒に日焼けした、青空市場の草臥れたおっちゃんが、恐らく彼の持ちうる全ての愛情を込めた笑顔で、バンビに白いビニール袋を渡す。
袋には、色とりどりのパプリカ、艶やかなトマト、ズッキーニのような存在感のキュウリ、甘い香りを放つバナナなどがぎっしり詰まっている。
その横で私はよっこらしょ、と5キロ詰めのジャガ芋の袋を担ぐ。
「いやあ、相変わらず流石だわ、バンビは。」
ジャガ芋の袋の網目から、小さなジャガ芋が一つ道路に転がり落ちるのを横目に見ながら、私は惜しみない賞賛をバンビに送った。
ウィーン20区。
ウィーンの中でも特に移民の多い地区の一角の青空市場。
この市場の八百屋のおっちゃんに、やたら気に入られている同居人のバンビは、何をどれだけ買っても、請求される金額は常に2ユーロだ。
「おっちゃんにモテてもしょうがないし。」
可愛い顔で膨れるバンビに、おっちゃんが彼女のファンになったことを何となく納得しつつ、私達は帰途に付く。
青空市場から徒歩で5分の場所に私達の住処、「まつねこ荘」がある。
もちろん、この「まつねこ荘」という名前は、私達が勝手に付けたものである。
その名前は、ある日「Norio Matsuneko」という宛名の郵便物が、私達のシェアアパートに舞い込んだことから来ている。どうやら私宛の郵便物だったようなのだが、どう間違えたら「たけなかのりこ」が「まつねこのりお」になってしまうのだろう。
つくづくウィーンは奥が深い。
その郵便を見つけて爆笑した同居人たちから、その日を境に私が 「まつねこ」と呼ばれるようになったということは、もちろん言うまでもない。
まつねこ荘というネー ミングからは、何となく昭和の木造アパートが想像できそうなものだが、実際のそれは、ヨーロッパ独特の天井の高い石造りの建物である。
外壁や柱には美しい装飾が施されて おり、エントランスには大理石がふんだんに使われている。かつてはさぞかし美しい建物だったと思われるが、手入れの悪さが祟ったのか、今は見る影もない。
本気で体当りすれば、訳も無く開きそうな大きな扉を行儀よく鍵で開け、私達はまつねこ荘のエントランスに足を踏み入れる。
石造りの建物の内部は、いつでも薄暗くひんやりとしている。
背中の後ろで、軋んだ悲鳴を上げながら扉が閉まると、どおん、、、と名残惜しそうなエコーが、高い吹き抜けに響き渡る。
扉の隙間から差し込む光が、かつて美しかったであろうエントランスに一筋の光を投げかける。
舞い踊る埃が、光の中で宝石のようにキラキラと輝くのをぼんやり眺めているうちに、私の目は暗闇に慣れてくる。
くすんだ色の壁、無造作に散らばるチャイルドシート付きの自転車、僅かに残る、誰かが吸った煙草の残り香。
今日も相変わらず生活感に溢れたこの光景が、私は決して嫌いではなかったりする。
「ジャガ芋5キロ買うとか、日本に住んでた時は考えたこともなかったんだけど。」
ジャガ芋の袋を半ば引きずりながら、私は摩耗した石の螺旋階段を一段一段よじ上る。
「でも安いし、お隣さんに分けてもいいし、大量にコロッケ作って冷凍しておけば非常食になるし。」
すまして答えるバンビは、絶対にいいお嫁さんになる。間違いない。
「着いた、あー重かった!鍵開けてー。」
Mezzaninと呼ばれる建物の中二階の一角が私達のウィーンのホーム・スイートホームだ。
扉を開くと、むわっと生暖かい空気がアジアンフードの匂いと共に流れ出してくる。
私たちが住んでいるシェアアパートメントは、かつてはサウナとして使用されていたらしい。それが関係しているのかどうかはわからないが、この家の中は春夏秋冬季節を問わず、異常に暑い。
アパートの内部は、所々にサウナだったころの名残を残している。扉の上部にはでかでかとAUSGANG(出口)という文字が掲げられている。
万国共通の、緑色の非常口のマークがやたらに目立つ、うなぎの寝床のような暗く細長い廊下には、狭いシャワールームが二つ、横並びに設置されている。
実際にサウナとして使用されていた場所は、現在台所になっている。
私たちは、当時サウナの利用者が腰かけていたバンクに座り、傾いた木のテーブルで日々食事をする。
「あ、ツムギ、帰ってたんだね。これ中華春雨の匂いだったかー。」
今そのバンクに腰かけて食事をしているのが、このシェアアパートメントのもう一人の同居人、ツムギ。相変わらず熱心にダイエットをしているようである。
ルームシェアをするのに、同居人と気が合うか、合わないか、ということは、特に重要な点である。
私はとても幸運なことに、同居人に恵まれた。
バンビもツムギも、ウィーン国立音楽大学で学ぶ、日本人の音楽留学生である。常にべったりというほどではないけれど、一緒に夕食を食べたり、週末一緒に遠足に出かけたり、誰かの部屋に集まってビリーズブートキャンプをやったりするほどに仲が良い。
日本から来るときは、ルームシェアをするということに大きな不安があったが、実際してみればもう利点しか見えてこない。初めての海外留学。言葉もできず、右も左もわからないうちは、同郷の人たちの助けと情報のみが命綱である。
「じゃ、またあとでね。練習頑張って。」
台所に野菜や果物を片付けた私は、二人の同居人に挨拶して自分の部屋へ向かう。
私の部屋は、入口の扉をくぐってすぐ右の部屋。
コツをつかむまでは、なかなか開けられなかった鍵を開けてドアを開くと、そこはVorzimmerと呼ばれる、日本でいう玄関のようなスペースになっている。
ここでは夜な夜な謎のラップ現象が起きるが、私には霊感がないので、まあ良しとする。
そこを通り抜けると比較的広く明るい居間。そしてその奥に小さな寝室がついている。
家具は、恐らくもう何十年も置きっぱなしだったと思われる、先人のものを引き継いで使っている。ボロボロの本棚、足の下に何かを入れないとガタガタと揺れて役に立たない机と椅子、いつから洗濯されていないか想像したくないけれど、天井が高すぎて絶対に取り外せないカーテン。
美しい部屋とは言い難い。それでも、きっと入れ替わり立ち代わり入居する、何十人もの日本人音楽留学生を見守ってきたのだろうと思うと、愛情が湧いてくる。
快適に住む、ということを大切にしている人ならば、30秒で泣きながら土下座して退出を請うような家かもしれない。
でも、私が住まいに求めていることは「朝から晩まで練習できる場所」ということのみ。朝8時から夜22時まで練習し放題の、このまつねこ荘は、私にとってはパラダイスなのだ。しかも、家賃は一か月電気水道込みでたったの330ユーロ。
オーケストラから一年休暇をとっての無給自費留学の私には、ありがたい金額だ。
想像していた、おしゃれで優雅な音楽留学とはかけ離れた世界に私はいる。
私だって、まさか自分が20代も後半になって、節約のために古くなった丸パンを削ってパン粉を作ったり、食べられる野草にやたら詳しくなるような人生を送ることになるなんて考えてもいなかった。
留学をしてみたい、と思ったのはいつが初めてだっただろう。
学生時代から、何となく心のどこかで興味は持っていたのだと思う。
でも、そのために特に計画や行動するということなく、私は音大を卒業した後、オーケストラに就職した。就職したら留学なんて、ますます夢物語になるのだろうな、ぼんやりと考えていた私に、その機会は突然巡ってきた。
運命に、風が吹くことがある。
その風は抗い難い力を持っていて、あっという間に私達を巻き込んで運び去っていく。
それまで、どんなに苦労しても努力しても、1ミリも動かなかった状況が、ある時突然ひっくり返る、そんな瞬間は誰にでもあったのではないだろうか。
留学に向けて準備など全くしていなかった私は、外国語もできなければ情報もなかった。
それでも、なぜかあれよあれよという間に留学の話は進み、気づいた時私はバイオリンとトランクを持ってウィーンの街に佇んでいた。
運命が予め決まっている、なんていう説を、何となく信じる気になるのは、こういう時だ。
一年という期間は長いようで短い。
実際、住民登録や、健康保険や滞在許可申請、音大の入学手続きなどの雑務で、初めの3か月はあっという間に消え去った。
思うように上達しないドイツ語とバイオリンの腕前。一年後、日本に戻った時に、私は胸を張って何かが変わったと言えるのだろうか。
こういった焦燥感というものは、留学生ならば誰もが持っているものなのかもしれない。
隣の部屋では、ツムギがチャイコフスキーを練習しているのが聞こえる。こんなエネルギーを使う曲、中華春雨だけでよく弾けるなあと思いつつ、私もバイオリンのケースを開ける。
練習しなければ。
明日は水曜日。
音大で、あの先生のレッスンの日だ。
OP.7 留学の話。 その1 「ウィーンのまつねこ荘」