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自分はよく金縛りに遭う子どもであった。

今は「間違ってレム睡眠が先に訪れてしまう睡眠障害の一種」という事実を知っているが、当時はそんなことは知らん。心霊現象かもねと思いながらも、恐ろしいというよりは「経過観察していた」というのが正しい。

何しろ意識はあるのに身体は動かず、仰臥するわたくし。頭の上で訳わからんおっさんの声はする、耳元に生暖かい風が吹く、棚の人形が窓際までぷかぷか浮きだす、こっちは眠りたいのに、だ。

しかし自分は誰に教わるわけでもなく、オリジナルに編み出した「金縛り破り」を習得していた、と威張るのもおこがましい、簡単に言えば「金縛りを払拭したければ、眠る前に絵を描きゃあいい」のである。女にょ子でも虫でも岩でもなんでもいいよ。描き殴っているうちにそれまでの「背後から忍び寄る悪ぅい予感」がユルユルと融解の感覚あり、見事「まともな眠り」へといざなわれるわたくし。でも、なぜだろう。

どうやら読書過多で左脳を酷使し過ぎた日の終わりに「金縛る」のだということにだんだん気づいた、絵を描くという金縛り破りは著しく言語感覚使役に偏った血流を右脳にも流すことでようやく、バランスをとっておる。という自説。というか実感。凝固した脳内が、絵を描くことで溶け始める気配というんは、後にも先にも「金縛り破り」でしか経験したことがない。

 

あるいは自分は体内時計が宇宙人である。

頭が冴えるのは夕方6時で、夜中の2時がフルスロットル。

睡魔の限界まで読書、寝落ち寸前までしつこく物を読んでいるとどうなるか、文字が本来の意味を失い形骸化、絵に見えてくる。

漢字。重金属ですかこれは。この構造の裏も立体になっているかもしれない、ああ重い。平仮名。爽やかに軽い、髪の毛か組紐のようだなぁ。密度や曲線の具合を辿り、ページ上の文字ひとつひとつの重さを確かめる、そういうわたくしに気づく、そもそもなぜこんなものがずらずらと並んでいるのかな? という不可思議、その時自分は赤子のような目をしているのかもしれない。

これぞまさしく、人類が文字や言語をご発明、ご習得する「以前の」原始的な感覚に他ならんのだろう、覚醒の限界まで絵や文字をかいている場合にも先に寝落ちするのは言語感覚のほう、我先に文字がまんず音を上げる、ぐにゃぐにゃっとあらぬ方向にくねり出す、役立たず。でも、なぜだろう。

 

言葉というんは、きっと、新しいのだ。

歌うとかリズムを刻むという根源的欲求で織り成される音楽、何かを形にしてみたいという衝動で描かれる絵画、そういうものよりも。

言葉が先か、認識が先か、全体どっちなんでしょうか論がある、言葉ありきで物事がわかるのか、はたまた物事を知った上で名付けるという流れなのかと。そりゃ「認識が先」なのだろうという結論、時に「ワンワン」と言い聞かせられた後に犬なるものを知る過程もあろうけれども、ワンワンという言葉習得時、瞬間の幼子脳内には、ただワンワンという音があるだけだ。

かように、より後付け「人工的なもの」であるがために、潜在意識下ではいつになっても異物感、こやつらを操る際のワレワレの脳というのは相当に「無理しちゃってる」のである。国内でさして使いもせぬ英語がちっとも覚えられない日本人に咎はないのだろう、だって社会生活を営む上でお道具として必須だからこその無理難題なのであり、とりあえず母国語は一通り覚えるわけだよ、あはぁ、頑張ってて偉いね。ええ。

だけれども言葉は実際それほど重要なものではなく、生きるか死ぬかの瀬戸際にはいっそ「要らねえ」ものである、と自分は言い切る。夜毎の眠りを少量の死、永眠の練習であると位置づけた時、脳に負担をかけている感覚の確認及び、「要らねえ」の順番が早い。それが所詮、「言葉」だから。

確かに巷には言葉が溢れているね。ネットで活字を辿ることが日常の昨今は、貴重な書物を敬意抱き紐解いてた紙書籍オンリー時代以上に「言葉の氾濫、言語奔流ほとばしる」と言ってよい。ああ、でもだからどうした。奔流となり量自体は増大したが故に、一語一語の軽重のほどが狂い始めてもいる。警告として骨の髄まで刻印すべき言葉は確信犯的に左目から右目へスルーされ、そこまで取り上げぬでも良かろうもん重箱の隅っこゴミが永久かと思うほどにぐるぐるといつまでもかけ巡る。はっ。言葉というものそれ自体に敬意を払い過ぎると扱いがそうなる。もっと言葉全てをおしなべてどうでもエエ階層に貶めるがよし。どうでもいいんだ。ええホント。

 

言葉を本来の単なるお道具と捉え直し、実際は吹けば飛ぶよな軽いものだと再確認したら、それからどうすんの。ワレワレは襟を正し、マユゲを湿し、己の行動に細心の注意を払う、「態度で示す」以外に人間性をさらす方策がなくなるので。この極限状態に自分を置きたければ、母国語圏を出るだけでいいとは、なんたるお手軽さだろうか、若いうちにさっさとそういう洗礼を受けておいたほうが良いと言いたいわたくし。社会人1年生やら接客やらのマニュアル編集時には「笑顔が大事」とか書いておきゃいいと思ってる軽薄、笑顔なんかちっとも大事じゃないよ。ここで「言葉が大事じゃない」と述べているのと寸分違わぬ理。土台生活様式や常識の異なる国外において、意味もなく笑顔など振りまいていたら「この女は尻軽なのか」と誤解曲解され強姦殺人の憂き目に遭うこともあるかもしれん。逆に笑顔で接すべき場面で意味もなく仏頂面でおれば、上手く転がる商談がご破算となり泣きながら帰国せんければならぬやも。ここで重大なのは「意味」のほうなのであり、断じて「笑顔」ではないことは、つまるところ「言葉」も同じだ、意味のないことには意味がないのだ、ああそうです。いっかな笑顔や言葉で粉飾しようとも。バカバカしいや。

 

そうだった、自分は人間よりも動植物や無機物に共感を覚える性質である。

人間というんは、とかくその「粉飾」こそがうっとおしい。

飲み会なんかは最たるもの、まるで粘土のような棒切れのような人間が、心に思ってもいなさそな歯が浮いたよな言葉の数々を繰り出しているのに出くわした時は、尿意も便意もないのにトイレに行くことにしているよ。と書いて自己矛盾に気づくのだ、自分は粘土や棒切れにこそ共感を覚え、本来後付けであるところの言葉などには一向に重きを置かぬ者である、言葉に価値を見出さず気軽にどうでもよく扱う棒切れ人間こそが「理想的」なんじゃないのかいと。そうだろうか、いや、全然違った。やはり言葉は大切なものなのだ。一度自分の口から漏れ出たが最後、言葉は相手に届いてしまう、相手が如何様に受け取るか、目の前で凝視していたにせよ深層心理などは計りかねる、確かに言葉そのものはただの道具ではあるが、その裏にある意味こそが

 

「軽かったり、重かったりするし、時には軽いんだか重いんだかすら、よくわかんない」

 

からだ。そしてワレワレは、その「よくわかんない」をどうにかして「なんとなくだけどわかった」までギリ高めるべく、言葉という共通のお道具を駆使しているのである、あくまでもお道具でありながら、やはりそれは常日頃研いだり拭いたり仕舞ったり出したり、和食職人における包丁のような存在。

 

確かに「愛している」なんて日本人はあんまり言わないし、「ありがとう」も頻繁に聞く言葉じゃない。自分が「言葉を貶めよ」と提言するまでもなく、皆普通に「態度で示している」のだ、だって米国人と話していると彼らがあまりにも始終「Thank you」を頻発することに驚愕するよ。彼らは日本人よりも心が豊かなのだろうか、マア個人差はあれ、人種でそんなことが決定するわけじゃない、米国人にとっての「Thank you」はほとんど時候の挨拶並み気軽なもので、会話の緩衝材としてどしどし差し挟むのが当たり前の単語であるに過ぎぬのだろう。

希少価値である「愛しているよ」や「ありがとう」は稀なご登場であることでかえって受け取る側の気持ちをより大きく左右することもある。「死んでしまえ」と毎日言われたら本当に死んでしまう人もいる。

 

言葉で人間は生かされ、言葉で死にもする。

 

回りくどく音色やリズムや色や形で伝えるのなんかよりも、遥かにド直球に届いてしまう言葉というもの、ワレワレはなんとまあ、恐れもせずに、平気の平左で使用しているのかな、あな恐ろしや。

 

さて、自分はよく夢を見る人間である。

大抵フルカラーで起承転結があり、無料で映画を見ているようで楽しいのだが、そうでない夢もある。まったく意味を成さぬ散文が途切れもなくズルズルとお経のように脳内にだだ漏れる夢だ。意味は少しもわからぬまま、それが日本語だということだけはわかっている。

この夢を見て起きた時、「言葉は新しいもの」という定義づけを危ぶみ、もしかしてこの世界は最初に「言葉ありき」なのかとグラグラするわたくし。何の意味もない言葉が先に立ち、意味が後から現れたという逆転工程こそが、人間が他のどの生物とも異なる「異様」なのであり、地球にそぐわぬ「異形」である由縁ではないのか、もしかして。嫌だが。