前回の記事で、物語から抜け落ちるおばさんたちの存在について書いた。日常を回すおばさんたちの役割は当たり前すぎて、脇役どころか背景になってしまうのだと。では、そんなおばさんたちが無理やり日常から切り離されたら、どんなふるまいをするのだろうか。

 

沖田修一監督『滝を見にいく』は、まさにそういった映画だ。登場するのは7人のおばさんたち。幻の大滝を見にいくバスツアーに参加した彼女たちが、山の中で迷子になり、一晩野宿する。あらすじを説明するならそれだけの、いたってシンプルな話である。

 

おばさんたちの年齢は40代から、上は50代後半くらいだろうか。ペア参加が2組、残り3人は「おひとりさま」だ。山に入ったものの、目的の大滝になかなかたどり着かない。頼りないガイドは、道を探しに行ったきり待てど暮らせど戻ってこない。

 

山中に取り残されて、にわかに不安になったおばさんたちは、行方知れずのガイドの捜索に出て、いよいよ本格的に道に迷ってしまうのだ。やがて日暮れが近づき、夜間の山歩きは危険だからと、一行は野宿をする腹を決めるのである。

 

他にすることがないおばさんたちが、ぽつりぽつりと会話を交わしはじめる。たまたま同じツアーに乗り合わせた赤の他人同士にすぎないから、会話の内容は基本あたりさわりのないものだ。ツアーに参加したいきさつだとか、今まで撮りためた滝の写真だとかの他愛ない会話である。

 

世間話のつもりが、相手の地雷をうっかり踏んでしまった経験はないだろうか。よく知らない相手との会話ではときおりそういうことが起きるものだ。おばさんたちも、皆それぞれの「事情」を抱えて生きている。他愛もない会話の間に、そうした「事情」がふと垣間見えた瞬間、おばさんたちは地雷を踏みかけた足をそうっと引っ込めて、一瞬の気まずい間の後に「まあ、いろいろありますよ。」と笑いあう。そしてそれを、「でも、なんとかなりますよ。」で片付けてしまうのだ。

 

長いこと生きていればいろいろあることぐらい、おばさんたちは皆よく知っている。中身は人それぞれだとしても、その「いろいろ」は「なんとかする」しか選択肢はないし、実際なんとかしてきた。それは彼女たちの日常を守る闘いの歴史であり、ある意味誇りなのだ。声高に語ることはなくても、「いろいろあった」けど「なんとかなる」と笑うことで、おばさんたちはお互いの健闘を静かに称えあうのである。

 

さて、山中をさまよいながら、お互いの「いろいろ」に触れたり、触れられたりしているうちに、妙な連帯感が生まれてくる。初めは苗字にさん付けだったものが、いつのまにかニックネームになる。そしておばさんたちは、不思議なことにだんだん少女に戻っていくのだ。

 

普段の日常でのふるまいを忘れてのびのびと遊ぶおばさんたちは、花かんむりを編んだり、ぶどうのつるで大縄跳びをしたり、焚き火を囲んで昔の恋バナで盛り上がったり、10代の頃のように屈託なく時を過ごす。

 

『滝を見にいく』は、そんなおばさんたちが可愛くて愛おしい映画だ。こんなにおばさんに愛情を持って描いてくれる映画はそうはない。おばさんは、通常物語の中では背景に塗り込められるか、そうでない時はたいがい悪役だからだ。だが考えてみてほしい。たとえばこの中に、20代の若い娘が含まれていたら、おばさんたちはずっとおばさんのままだったはずなのだ。

 

日本では、女性は若い方が圧倒的に地位が高い。女性として流通する期間は短く、その時期を過ぎたらもう「おばさん」としての慎ましいふるまいが求められる。出すぎてはいけない。分をわきまえないと、即座に「おばさんのくせに」という罵声を浴びせられるのである。男性からだけではなく、若い女性たちからの視線も同じだ。気に入らない年上の女は、すべて「おばさん」という蔑称で呼ばれてしまうのだ。

 

映画の中に、キャッチコピーにもなった「40過ぎたら女はみんな同級生」という台詞がある。一定の年齢になったら、女性は皆同列で、「おばさん」であることを粛々と受け入れるしかない。それに抗って「美魔女」を目指す道もあるが、勝ち目の薄い闘いである。たいがいは「あのおばさん、イタいよね」で終わってしまう。

 

昨年末大ヒットしたドラマ『逃げるは恥だが役にたつ』の中で、アラフィフ独身女性ゆりちゃんが、恋敵の若い女性に「50にもなって若い男に色目つかってむなしくないんですか?」と詰め寄られる場面があった。そこでゆりちゃんが返すのは、「あなたが価値がないと切り捨てたものは、これからあなたが向かっていく未来」という言葉だった。そしてそれを「呪い」と表現したのである。「そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまいなさい」と。

 

これに共感した女性は多かったらしい。私も上手い台詞だと思ったが、『逃げ恥』のゆりちゃんは石田ゆり子である。彼女は「美魔女」の成功例なのだ。美魔女は自らにかけられた呪いを簡単に解いてしまえる。なにせ「魔女」なのだから。女優は美しくあるのも仕事のうちだから仕方がないが、どうせなら歳相応に容色が衰えた誰かにこの台詞を言ってもらい、それでも若い女性たちを納得させてみてほしかった。

 

また別の「呪い」の話をしよう。ネットで調べものをしていたときに「ピンクの服が許されるのは何歳まで?」という質問を見つけた。回答は様々だったのだが、そもそも質問する時点で、この質問者はピンクの服には年齢制限があると考えている。おそらくこの人は、過去に「あのおばさん、あんなピンクの服を着てみっともない」と言ったことがあるに違いない。誰かに投げたその呪いのブーメランが、忘れた頃に戻ってきて、自分の目前に迫っていることに気づいてしまったのだ。

 

私は何歳でも好きな色を着ればいいと思う。派手なピンクが似合わないなら、歳をとってくすんだ肌にも映えるピンクを探せばいいのだ。しかし、この質問への回答を見る限り、本気でおばさんは地味な服を着るべきだと言う人も相当数いた。おばさんはおばさんらしくしていろ、というのだ。

 

さっさと逃げろと言われても、繰り返しかけられるこのような呪いは、あまりに深くまで浸透していて、そう簡単に解くことはできない。この質問者のように、自分で自分にかけてしまう呪いですらある。すでにおばさんである私は、その呪いを解こうともがくより、受け入れてしまったほうがずっと楽だということを知っている。おばさんたちは日々の「いろいろ」で十分忙しい。理不尽な非難で消耗するのを避けたいなら、おばさんたちは何がどこまで許されるのか、常に考えてふるまわなければいけないのだ。

 

迷子になった山の中で、おばさんたちは一瞬だけ呪いから解き放たれる。何をしても「おばさんのくせに」とか非難するものはここにはいない。グリム童話で、魔法をかけられたひきがえるが王子様に戻るように、そこに他者の視線がないからこそ、おばさんたちは自分が背景でも悪役でもなかった少女時代に還ることができたのである。

 

 

『滝を見にいく』は、おばさんに愛情をもって作られた映画だとは思う。だが「少女」の時代から一転しておばさんの呪いをかけられる日本の女性たちを擁護してくれるわけではない。日本のおばさんの中には少女が眠っているのですよ、と教えてくれるだけだ。この同じシチュエーションで、迷子になるのがフランス人のおばさんたちだったら、こんなふうにほのぼのと可愛らしい話には多分ならない。年齢を重ねることが魅力のうちとされるフランス人なら、もっと違った物語になるはずなのだ。

 

男性や、若い女性たちと同じように、日本のおばさんたちだって「いろいろ」なドラマを本当は持っている。ちゃんと目を向けてやりさえすれば、その物語は輝きを取り戻すのかもしれない。しかし、おばさんたちはそれを取るに足らないものとして、あいまいな笑みとともに「ま、なんとかなりますよ」と、自ら背景になる。日本では、それがおばさんに「ふさわしい」とされているのだ。

 

一夜明け、ようやく山を降りる道をみつけた『滝を見にいく』の7人のおばさんたちは、念願の滝で思い思いに過ごした後、日常へ、背景へ、帰っていく。「お土産に高原野菜を買わなくちゃ」とつぶやきながら。そして、スクリーンの中で遠くなる彼女たちの後姿を見送った私もまた、ふさわしい日常へと戻っていくのである。