娘は私の書いたものをわりと楽しみにしてくれるありがたい読者なのだが、先日彼女にこう言われた。

「ママが私のことを書かないのは、私の子育てに失敗したと思っているから?」

 

そんな事は考えたこともなかった。娘をネタにしないのは、単に年頃の娘が自分のことをあれこれ書かれるのは嫌がるだろうと思ったからである。

 

そもそも子育てに成功や失敗があるのだろうか。母親の思い通りに育つことが成功なのか。もちろん、娘には幸せな人生を送ってほしいと願うし、できることなら平坦な道を歩ませてやりたいとも思う。しかし、それは私が敷いたレールの上を黙って進めばいいというものではない。いばらの道でも彼女自身が納得して選ぶなら、それを見守るしか親にできることはないのだ。

 

とは言え、子どもが育つ間にはいろいろなことが起きる。「失敗」と呼ぶかはともかく、私にも後悔はある。例えば娘は中学2年の時突然学校に行けなくなり、卒業までほとんどを家で過ごした。繊細すぎるきらいはあったが、どちらかといえば優等生だった娘の突然の不調は、私にとって青天の霹靂だったし、理由もわからず初めはただ混乱するだけだった。感情的になり口論したことも一度や二度では済まない。今になって思えば、それは逆効果でしかなかった。だが、あの時ああすればよかったとか、そんなことは後からわかるもので、当時はそれが当たり前の行動と思っていた。母親の経験値なんて初めから高いわけではないのだ。

 

思えば恐ろしい話である。当の母親自身も未熟だというのに、1人の人間を形成する大事な時期を、まるごと委ねられるのだ。SNSで他人の子育てに批判的なリプライを投げかける人たちは、どれほど自信があるのだろうか。親自身の性格も環境も違ううえに、子どもが複数いれば、それぞれ違う個性を持っているはずだ。上の子に通用したやり方が下の子にも最適な解とは言えない。それを度外視して、子育ては「こうあるべき」と講釈することは私には到底できない。我が子ですら手探りで育ててきたのに。

 

子どもは親の作品ではない。学歴やキャリアを根拠に、子育てを成功だ失敗だと考えることには抵抗がある。重要なのは、問題が起きたその時に子どもにとって最適な解を選べたかどうか、それだけだ。だが、その解が適切だったかどうかは、ずっと後になってみないとわからない。娘が生涯を終えるとき、あの親でよかったと思えるなら、その時初めて子育ては「成功」と言えるのではないだろうか。つまり親がそれを知ることは通常あり得ないのだ。

 

最近読んだSF短編集の中に、たまたま母と娘が登場する作品2編があった。1つはテッド・チャンの『あなたの人生の物語』、もう1つはケン・リュウ『母の記憶に』である。

 

『あなたの人生の物語』は、先ごろ公開された映画『メッセージ』の原作で、女性言語学者が、ある日飛来した異星人と交流し彼らの言語を理解することで、人類とは異なる時間の捉え方を習得する話だ。

 

人類の目は顔の前面にあるが、その異星人の目は身体の周囲にぐるりとついている。そのため、人類のように前や後ろという概念がない。同様に、時間についても過去から未来へつながるという概念が存在しないのだ。人間が未知だと思っている未来も、彼らにとっては既知のもの、ただ「そうなるもの」としてある。言語学者は彼らの言語を研究していく中で、異星人と同じように過去も未来も同列にある時間の概念を手に入れる。その時彼女には未来はもう未知ではなくなるのだ。

 

身体性が言語だけでなく時間の概念をも左右する発想も面白かったのだが、この短編は異星人とのファースト・コンタクトものというより、それと並行して言語学者が彼女の娘の人生について語る、題名のとおり「あなたの人生の物語」がストーリーの核である。もはや言語学者にとって過去も未来もないから、彼女は自分だけでなく娘の人生までも見通すことができる。どんな子ども時代を過ごし、どんな思春期を過ごし、誰と恋をし、何の職業につくのか。そこに自分がどう関わっているのか。我が子の生涯のすべてを母は予め知っている。

 

もう一方の『母の記憶に』は、病で余命2年と告げられた母が、娘の成長をできるだけ長く見届けられるよう、宇宙空間に旅立つ物語である。母は7年に1度だけ地球に戻ってくる。7年の月日は、高速で移動する宇宙ではたった3か月だ。だから地球に戻るたび、娘は7年分の歳を重ねているが、母は旅立ったときの姿のまま現れる。やがて娘が老いたとき、余命を使い果たした母は、娘と共に生涯を終えようとする。ほんの数ページの短い話だった。

 

この2つの物語に共通するのは、主人公である母親がある種メタ的な視点で娘の生涯を見届けるという点である。それは娘の最期を看取るという意味でもあるから、どちらの物語にもいくらかの悲しみが含まれている。しかし、自分がこの世界に産み出した1人の人間、ことに同性の娘という存在がどのような人生を送るのか、それを見届けたいというのは母親の究極の願望かもしれないと私は思った。

 

子育てに成功と呼べるものがあるのなら、それは子がその生涯を幸せに終えるときではないかと先に書いた。成功か失敗かをジャッジするのは母自身ではなく子なのだ。だから母親は、自分の母親としてのふるまいが適切だったのかどうか、確認したいという欲望を抱く。誤りだったと知ったところでやり直しはきかないのに。母親とは業の深いものである。

 

もし娘の生涯を知る機会を与えられたら、私もそれを選択するだろうか。知りたい気もするが、やはり私には恐ろしい。私のふるまいが誤りだったとき、やり直しがきかないのなら申し訳ない気持ちになるだろうし、仮にやり直すことができたとしても、それで育つのは今の娘とは違う人間かもしれない。私の誤りも含めたすべての出来事を消化して、今の娘ができあがっているのなら、私はもうそれでいいとも思うのだ。私が大切なのは今私の前にいるこの娘であって、もっと利口な誰かや、もっと強い誰かではないのだから。

 

突然始まった娘の不登校は卒業まで1年半に渡った。初めの混乱の時期を超え、事態を受け入れるしかなくなってからの私と娘は、リビングルームで一緒にアニメを観たり、街に買い物に出かけたり、静かに暮らした。一見平和そうでも、娘の心の中にはまだ嵐が吹いていただろうし、私は私でこの先どうなるのか不安だったが、今になって振り返ればそれも2人で過ごした濃い時間だった。

 

『あなたの人生の物語』の中で、異星人たちは過去や未来のない世界で生きている。過去を懐かしむことも、未来を不安がることもない。その視点を手に入れた言語学者も、娘の人生を淡々と語る。娘の人生をメタ的に俯瞰することは、ある意味母親の願望かもしれないけれど、娘が産まれた日の喜びや、あの不登校の日々や、それを乗り越えて迎えた高校の入学式といった出来事を懐かしく思い返すことができなくなるなら、私はなおさらメタ母にはなりたくないと思うのだ。

 

娘はこの春大学生になり、経済的にはともかく、もう母親がしてやることはほとんどなくなった。この先彼女は自分の足で、世界を歩いていく。若いがゆえの悩みは色々とあるようだが、私は極力関わらないようにしようと決めた。母親は卒業だ。役目を終えた今、私はこれからどう生きようかと考える。残りの人生でできることもそう多くないが、せいぜい楽しく暮らそう。そして時折、若く眩しい娘の横顔を見ながら、子育てに奮闘した自分を密かにねぎらってやろうと思う。知ることのない「成功」を願いながら。