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前回は「いまを感じる俳句」と題して、新しい言葉や情景を詠みこんだ俳句をご紹介しました。

そのなかで、季語や575の定型を守りつつ、俳句にあたらしい命をふき込むことについて考えてみました。

ぶっちゃけて言ってしまうと、俳句は古めかしい、難しい。そんなイメージをもってしまうのは、季語や575の定型といった伝統的なルールのせいではないかと考えられます。

今回は、季語に焦点をあて、そもそもなぜ俳句に季語が必要なのかということについて考えてみたいと思います。また、俳句の誕生の歴史や季語のない無季俳句についても併せて考えてみたいと思います。

 

なぜ俳句には季語が必要なのか

そもそも俳句がどういうわけで生まれたのかを考えてみましょう。

俳句は、明治時代に正岡子規によって独立した文学ジャンルとして確立しました。

こういうと、なんだか違和感のある人もいますよね。じゃあ松尾芭蕉って俳句じゃないの?与謝蕪村や小林一茶はどうなるの、と。

正岡子規以前は発句と呼ばれていたはずで、大雑把ないい方をすれば、どちらも同じようなものではあります。

ややこしいので、すこし順序だてて考えてみましょう。

俳句のもとは和歌で、これが源流にあたります。

和歌は、主に平安時代の貴族たちにとって教養であり、現代でいう携帯電話やスマートフォンのような公私にわたって――とりわけ恋愛に――必須とされるメッセージツールでもありました。

鎌倉時代になると、複数人によるリレー方式(連作といいます)によって詠む連歌という文芸が確立し、主に室町時代に流行しました。

連歌はリレー方式ですから、575、77、575、77……と交代で詠んでいくわけです。句のそれぞれに名前がついていて、はじめの575を発句、77を脇句、次の575を第三句とつづき、さいごの77を挙句といいました。

そこからさらに、滑稽さや身近な面白みのあるものを素材とする俳諧の連歌がうまれ、江戸時代に流行します。有名な松尾芭蕉も与謝蕪村も小林一茶もみんなこの時代に活躍したひとです。

ようするに彼らが作っていたのは俳句になる前の発句(連歌の第一句)だというわけです。

この連歌には、「発句には季語を入れる」というルール(式目といいます)がありました。このルール、私はとても合理的だなぁと納得してしまうのですが、いかがでしょうか。

例えば、リレー小説というものがありますよね。実際に書いたり読んだりしたことがある方だと、イメージがしやすいかもしれません。複数人ですこしずつ小説を書きすすめるわけですが、ほとんど小説の体をなさないほどにトンチンカンな内容になってしまいがちですよね。

連歌も道理はおなじことかなと思います。複数の人間が集まってルールもなしに詠みはじめたら収集がつきませんね。

しかし、発句に季語があればこそ、連想がしやすくなり、一定の方向性をたもつことができます。そのため、発句は「あいさつ句」とも呼ばれているのです。

明治になって、正岡子規の登場により、発句は俳句と呼ばれる独立した文芸となりました。そのため、現代の俳句にも発句のルールが受け継がれています。

ここで、連歌(連句)の例をひとつご紹介します。松尾芭蕉の「おくのほそ道」から、有名な「五月雨を集めて早し最上川」の連句です。「早し」がはじめには「涼し」となっていますが、これは発句のみあとから校正されたものと言われています。

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発句:五月雨を集めて涼し最上川(芭蕉)

脇句:岸に蛍をつなぐ船杭(一栄)

第三:瓜ばたけいさよふ空に影まちて(曾良)

第四:里をむかひに桑のほそみち(川水)

第五:うしのこにこころなぐさむゆふまぐれ(一栄)

第六:水雲重しふところの吟(芭蕉)

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こうしてみると、複数の者が詠みつないでいくものが連歌だということや、発句の季語「五月雨」「涼し」が脇句以降の他の作者の連想を引きだし、一定の方向性をたもって詠まれていることが実感できると思います。

季語の効用とは、この連想を引きだすという作用にほかなりません。俳句のばあい、連歌のように他の詠み手は存在しないわけですが、たった17文字で奥深い世界を表現しうるのは、読み手の連想を引きだす季語の効用があればこそだといえます。そしてそれこそが、俳句に季語をおくことの理由といえるでしょう。

 

季語にはどんなものがある?代表的な季語をご紹介

ここまで、俳句に季語が存在する理由について見てきました。そこで、季語にはどんなものがあるのかを知るために、代表的な季語をご紹介したいと思います。

紙幅の都合もあるので、四季それぞれに2つの季語を紹介する程度にとどめることとします。

俳句としては定番な、よく見かける季語だけれど、ふだんの感覚とはちょっと違うかな、というものを選んでみました。また、その季語を使った例句を一句添えてみました。

季語について知りたい場合は歳時記があると便利です。歳時記は書店でふつうに手に入ります。百科事典のような大きなものから、コンパクトな辞書くらいのものまでいろんなサイズがあります。手にとってみて見やすいものを選ぶのがよいと思います。

季語を知ることは俳句の世界へのパスポートのようなものです。たくさんの季語を知れば、もっともっと俳句をたのしむことができるようになるはずです。

――春――

【長閑】(のどか)

のんびりとした春の日和におだやかな時間が流れている様子をいいます。国語辞典的には、心がのんびりとくつろいでいる様子を指すようで、特に季節は限定されません。のどかな気分で冬休みを迎えた、なんて言い方も現代文としては間違いとはいえません。

○行き過ぎし短き駅や海のどか(子規)

 

【日永】(ひなが)

春になり、昼の時間が長くなった頃をいいます。昼の時間がもっとも長いのは夏至前後ですが、俳句ではそのことを実感する春季をさす季語となりました。こちらは国語辞典的にも春季とされています。

○永き日や欠伸うつして別れ行く(夏目漱石)

 

――夏――

【麦の秋】(むぎのあき)

念を押しますが、夏の季語です。夏に実りを迎える麦のようすを指します。ちなみに稲の秋といえばもちろん秋です。竹の秋といえば春でしたね。うっかりしていると取り違えてしまいそうですよね。実りの季節を迎えた一面の麦畑や田んぼはどちらも金色に輝いて神々しいものですが、夏と秋という季節の違いは明らかでそこからくる連想もずいぶん変わってくると思います。

○飯盗む狐追うつ麦の秋(蕪村)

 

【甘酒】(あまざけ)

甘酒といえばいまでは初詣の行き帰りで飲むなど冬の風物と感じられる方が多いのではないでしょうか。もともとは、夏の暑気払いに飲まれていたのだそうです。発酵にひと晩ほどかかることから一夜酒(ひとよざけ)とも呼ばれています。

○御仏に昼供えけりひと夜酒(蕪村)

 

――秋――

【夜長】(よなが)

秋になり、夜の時間が長くなった頃をいいます。夜の時間がもっとも長いのは冬至前後ですが、俳句ではそのことを実感する秋季をさす季語となりました。こちらは国語辞典的にも秋季とされています。

春の季語である日永の対になる言葉ですね。

○鐘の音の輪をなして来る夜長哉(子規)

 

【星月夜】(ほしづきよ・ほしづくよ)

秋の夜、満天にかがやく星のうつくしい様子をいいます。これもまた、本当に星空が澄み冴えるのは冬季のはずですが、その変化を実感する秋季の季語となりました。星月夜とはいうものの、月はありません。月のない夜に、星が煌々とまたたいてあたかも月夜のようだ、という言葉です。

○われの星燃えてをるなり星月夜(虚子)

 

――冬――

【小春】(こはる)

小春は旧暦10月のことです。小春といっても春ではありません。立冬をすぎて晴れた日のおだやかな様子をさします。それはあたかも小さな春のようですが、ほんとうの春はまだ厳しい冬のむこう側にあります。

○暮れそめて馬いそがする小春かな(几董)

 

【時雨】(しぐれ)

冬のはじめに山間などでみられる通り雨のことを指します。単に時雨といえば冬の季語になりますが、秋や春にみられる時雨は秋時雨、春時雨と区別します。

似た言葉で驟雨(にわか雨のこと)がありますが、こちらは夕立などとともに夏の季語になっています。

○幾人かしぐれかけぬく勢田の橋(丈草)

 

無季俳句~その誕生と例句について

季語や575の定型といった俳句のルールに対し、これを超えようと無季・自由律をめざすうごきがありました。

極論すれば、その原因は子規にあったと考えられなくもありません。

俳諧連歌の発句から俳句へという変化のなかで、座の文学から個の文学になった影響がおおきいといえるからです。もちろん子規以前にも無季俳句はなかったわけではありませんが、子規以後、その傾向はいっそう顕著になります。

子規の死後でみると、明治末年の新傾向俳句運動、昭和初年の新興俳句運動、昭和30年代の前衛俳句運動といった運動が、寄せては返す波のようにおこります。

かならずしも代表句というわけではありませんが、いくつか、それぞれの運動に属した作者の句をご紹介します。

 

――新傾向俳句運動――

○ミモーザを活けて一日留守にしたベットの白く(河東碧梧桐)

 

――新興俳句運動――

○見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く(日野草城)

○しんしんと肺碧きまで海の旅(篠原鳳作)

 

――前衛俳句運動――

○銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく(金子兜太)

○湾曲し火傷し爆心地のマラソン(金子兜太)

○まなこ荒れ/たちまち/朝の/終りかな(高柳重信)

※筆者注:/は改行を表します

 

これらの運動は、それぞれに主張するところも異なり、季語や575の定型に対する考え方も一様ではありません。共通しているのは、総じて季語や575の定型を守ろうとする伝統俳句の古めかしさ、難しさからの脱却や進化を目指したものといえそうです。

反面、無季や自由律をつきつめると、どうしても抽象的で読みとりにくいものにならざるをえません。

さらにいえば、たしかに俳句がかつての俳諧の時代から連れてきてしまった季語や定型といったルールは、難しく古くさいものでもありますが、ただ、それらを脱ぎ去ってしまったものが、本当の意味で俳句とよべるものなのか、という疑問もあります。

子規の弟子であった高浜虚子は、こうした新しい文学への志向そのものは認めつつも、それらを俳句と呼ぶことには抵抗しました。そして季語と575の定型をまもり、客観写生をまもるべきとする伝統俳句の立場を堅持しつづけました。

虚子は、子規の死後いったんは俳句の道を盟友・河東碧梧桐にゆずり、自らは文章家の道を歩みはじめましたが、大正時代に入り碧梧桐が新傾向俳句の道に踏み入ると、俳壇にとって返します。有名な春風や~の句はこのころ詠まれました。

○春風や闘志抱きて丘に立つ(虚子)

盟友に対峙することへの底知れない覚悟が感じられる俳句ではないでしょうか。

 

まとめ~季語の効用

今回は、俳句にとって季語がなぜ必要なのかという点について、俳句誕生の経緯とともにご紹介をしました。また、無季俳句の誕生と例句を概観しました。

正岡子規によって俳句が個の文芸として独立したそのときから、季語や定型といった発句時代のルールについては問われなければならない運命だったといえそうです。

ただ、季語のない俳句は、子規も指摘をしているところですが、著しく連想を欠いてしまうおそれがあります。

座の文学であれば、それは座の仲間うちで必要とされたことでした。個の文学となったいま、俳句は詠み手と読み手とで紡ぎあげなければなりません。

そのように考えたとき、季語はやはりパスポートなのだというふうに理解できます。そのパスポートは、過去と現代と未来の俳句をも結びつけてくれるに違いありません。

今回はちょっとむずかしい話をつづけてしまいましたが、季語によって俳句はどこまでも広がっていくのだということを多少なり感じていただけることを願い、この稿を終えることとします。