ウィーンの特集番組があると必ず画面に現れる、金ピカのヨハン・シュトラウス像。
この像があるウィーン市立公園で地下鉄4号線を下車し、公園を通り抜けると、滅多に青にならない信号のある、大きな道路に出る。
急ぎ足で道路を横断し、ちょっとだけ急な石畳の坂を登りきった後、行き交うオーストリア国鉄の列車を眺めながら高架を渡ると、目の前に黄色い建物が現れる。
ウィーン国立音楽大学。
初代学長は、アマデウスの映画で有名になったサリエリで、卒業生にはブラームスやマーラーなどがいる、歴史ある大学だ。
正門をくぐり、太陽に満たされた明るい中庭に足を踏み入れると、開け放された教室の窓から様々な時代の、様々な楽器による音楽の断片が、降り注いで来る。
たった一小節のパッセージを延々と繰り返しているバイオリン。
ちょっと弾いては中断して口論しているカルテット。
真摯に音楽に向き合う学生たちの姿は、とても美しい。
まぶしいほどに青い、芝生の中を細く通る小道を辿り、中庭を抜けた先には、日の光を浴びて輝く、ガラス張りのモダンな建物が建っている。
ここが、私たち弦楽器専攻の学生の校舎だ。
「はぁ。。」
ため息なんだか深呼吸なんだか、自分でもよくわからない息が漏れる。
水曜日、この校舎に足を踏み入れるのには気合がいる。
1年間、クラシック音楽の本場ウィーンで生活し、その空気に触れ、世界的にトップクラスの音楽家たちに直接レッスンを受けながら、音楽に対する理解をさらに深め、その技術と知識を日本に持ち帰る。。。。
それが、休職して留学生となった私が一応掲げる、美しき留学目的である。
とは言うものの、実際留学が決まった時、
「一年間仕事無し!学生生活を謳歌できる!週末は旅行三昧!やっほー!」
という、浮かれた気持ちが全く無かったかというと、嘘になる。
しかし、それがとんでもなく甘い考えだったことを、私は留学してすぐに思い知ることになる。
レッスン室の前で足を止め、私は扉を恨めしく見つめる。
毎週水曜日、この扉を開く際、祈ることはただ一つ。
先生の機嫌が良いことである。
私は、そっと扉に耳を当て、中の様子を伺ってみる。
部屋の中はしんとしていて、物音ひとつしない。
良い兆候である。
期待を込めて、扉を細く開く。
扉の隙間から私の視界に映ったのは、、、。
不機嫌そうに仁王立ちしている、我が師匠の姿。
あ。これあかんやつだ。。。
私はがっくりと肩を落とし、観念する。
「Grüß Gott.」
私は、扉を押し開け、口の中で小さく挨拶の言葉を口にする。
不愛想に頷きつつ、私に投げかけられる先生の眼光がやたら鋭い。先生がこういう表情をしているときは、大抵ロクな事が無い。できれば、このまま無言で回れ右をして立ち去りたいのだが、さすがにそんな勇気は持ち合わせていない。
レッスン室の中に入った私は、楽器ケースを開きながら、未だ不機嫌そうに仁王立ちしている先生を、注意深く横目で観察する。
先生は、ヨーロッパ人の男性としては、かなり小柄な部類に入ると思う。こうして並んで立っていると、私と大して差がないのではないかという大きさだ。
しかし彼からは常に、その小柄な体形からは信じられないほどの威圧感というか、パワーのようなものが伝わってくる。彼の中で常時渦巻く音楽が衝撃波となって体外に漏出しているのではないかと本気で疑いたくなるほどの謎のオーラに、私は今日も相変わらず圧倒される。
先生は二つの事柄において、とても有名な人物である。
一つは、彼の作り上げる音楽の素晴らしさ、もう一つは、音楽に一直線であるが故の、彼の気難しさである。
先生は、押しも押されもせぬ世界的なバイオリニストだ。彼の生み出す、厳格で完璧な音楽は、幼いころから私を魅了し続けていた。
だから、私が働いている日本のオーケストラに、彼が指揮者としてやって来た時、CDやDVDの中の英雄でしかなかった彼が目の前で動いてしゃべっていることに感動を通り越して、なんとなく呆気に取られてしまったことを覚えている。
彼が第一バイオリンを務める弦楽四重奏の演奏を聴いていると、総譜に何が書いてあるのか、その隅々までが目の前にくっきり見えてくることに驚く。
音楽を構成する過程で、曖昧にされていたり、適当に処理されている箇所はどこにもない。その音楽に対する忠実で真面目な姿勢は、職人というものを通り越して信仰に近いものすらを感じる。
ただ一つ問題なことは、彼が自分だけにでなく、他人にも同じレベルでその姿勢を求めることなのである。
例えば、私が日本のオーケストラで働いていた時のこと。
オーケストラが指揮者として訪れていた先生に、事前に伝えていなかった、単純で短い曲を1曲アンコールとして追加演奏してほしいと、演奏会数日前に打診したことがある。
「いや、リハーサルもほとんど必要ないですし。本当に簡単な曲ですから。」
と、いうのがオーケストラ側の言い分だったのだが、先生は、
「この世に、、、、
この世に簡単な曲など存在しない!!!」
と、顔を真っ赤にして叫び、完全にへそを曲げてしまった。
一見笑い話のようなこの事件だが、先生のことを深く知った今となっては、あれは名言だったなあと思えてくる。
音の一生は短い。
多くの音は、生まれてから消え去るまで、たった数秒しかない。
その音の一生が、有意義で美しいものであるよう、生みだす瞬間から消え去った後までしっかり見守る、そういった責任感のようなものが、先生にはある。
そんな気難しさを持つ先生ではあったが、私には恐れよりも、憧れのほうが強かった。
だから、彼のもとで1年プライベートで留学をできるか思い切って尋ねた時、
「僕の教えてる大学の受験を受けて、学生になるならね。」
と、今考えれば、あれは拒否だったんじゃないかとも思える無茶振りをされた時も、20代後半のオバちゃんが本気になって、10も年下の子たちに混じって大学受験をする小っ恥ずかしさのことなど、まるっきり考えもせず喜んだ。
だが、実際受験への準備を始めてみると、それは私にとって思った以上の苦行であった。仕事と平行して、多くの受験曲を準備しなければならなかったし、入学するためには実技に加えて、学科やドイツ語の試験もある。
普通、オーケストラに就職してから短期留学する人はプライベートでレッスンを受けるか、入試の必要がない実技のみを学ぶコースを受講することが多い。
なんで私だけこんな正門突破しなきゃならないんだ、と半泣きになった日もあったが、今思えば、学校に生徒として入学していれば滞在許可の心配もないし、学費も保険も安くて済む。授業にも出席しなくてはいけないので、ドイツ語も強制的に勉強することになる。厳しい選択ではあったが、私には最良の選択だった。
先生は、音だけでなく、人にも責任を持ったのだと思う。
「今日は何の曲を準備してきたんだ。」
ぶっきらぼうな先生の声に、私は我に返る。
「ブラームスのバイオリン協奏曲の3楽章です。」
慌てて答えた私は、白いカーテンの揺れる窓際沿いに置かれた、グランドピアノの方に目をやった。
いつものように、その前にはちょこんと伴奏者が座っている。
私が短く目で合図を送ると、彼が小さく頷いたので、私は楽器を構え、演奏を始める。
ブラームスの3楽章は、いきなり音程に神経を使うダブルストップ(※注釈)で始まる。小さな手を持つ私には、弾きにくい箇所のオンパレードである。
指慣らしをせずに弾き出したせいか、指が思うように開かない。
いきなり数か所、外れた音程が部屋に響き渡る。
(うわ、まずい。)
ちらっと先生の方に目をやると、
(あー、、、怒ってる。。。。)
小さな体から放たれる衝撃波が増している。
窓際のカーテンがバサバサと立てて大きく揺れる。風のせいだと思いたい。
「…ノリコ」
先生の低い声が聞こえる。
やばい、これはよろしくない。
気づかぬふりをして、さらなる大音量で弾き続けたいところだが、それではますます状況を悪くするのみである。
私は観念して演奏を中断する。
先生は、半眼でおもむろにドアの方を指し示す。
そして、
「Das ist die Tür.」(こちらがお出口になります。)
短くそう言い、つかつかと私のほうに歩み寄ってきたかと思うと、今日初めての満面の笑顔を見せて、あっという間に私をぽいっと部屋から廊下に放り出す。
ばたんっ
背中の後ろで、不機嫌に扉が閉められる音に、私は首をすくめる。
この歳になって、こんなマンガみたいな追い出され方とか。
不謹慎なことに、妙な笑いがこみ上げてくる。
でもコレ、10歳若かったら、泣いていたかもしれない状況である。
そういえば、一緒にクラスに入学したナターシャはどうしたんだろう。
入学後半年くらいしてから、姿を見ていない。
先生に聞くのはなんとなく怖かったので、アシスタントの先生に彼女の消息を尋ねたところ、
「ほら、、ね。毎年半分は消えていくからさ、、、。つまり、そういうことよ。」
と、よくわからない答えが返ってきたことをふと思い出す。
大きな窓が並ぶ明るい廊下に、私はバイオリンをぶら下げたまま飾り物のように立ち尽くす。
廊下の突き当りにある、非常階段へのガラス扉の向こうでは、隣室の教授が楽しそうに、私を眺めながら煙草を吸っている。
さて、どうしたものか。
教室には戻れない。かといって、ここに馬鹿みたいに立っていても仕方がないし。。。
バタバタバタ、、
その時、忙しない足音が遠くから聞こえてきて、私は顔を上げた。
階段の向こうから、バイオリンを手に持ったゲオルグが小走りでやってくるのが目に飛び込んでくる。
「あ、ノリコ、おはよう。良かった、今ちょうど追い出されたところ?」
何この質問。
「そうだけど、ゲオルグも?」
「うん、朝一番で追い出された。で、今電話きて呼び出されたんだけど、まだ機嫌悪いの?困ったな。」
彼は、ごそごそとポケットから鍵を取り出し、私に手渡す。
「僕が使ってた練習室の鍵。良かったら続けて使って。携帯持ってる?」
「持ってる。」
ジャケットのポケットに入れっぱなしになっていた携帯のことを思い出し、私が答えると、
「良かった。いやあ、追い出される時は、携帯を持って追い出されるに限るよね。」
だから、何この会話。
それじゃ、と片目をつむってゲオルグは今しがた私が追い出されたレッスン室へ消えて行く。
アシスタントの先生の言う通り、もしも半分の学生が本当に消えていくのならば、残りの半分はこんな感じで生き延びてきたんだろうな、と微妙に納得しながら、私はゲオルグから引き継いだ練習室に移動する。
音大の練習室は大抵争奪戦が激しい。今日のように苦労せずにゲットできることはなかなかない。ゲオルグに感謝しつつ、練習室に入り、大きな窓を開くと、部屋はあっという間に太陽と風と、鳥のさえずる声で満たされる。
携帯電話の時計にちらりと目をやる。まだ午前だ。
先生がいつもの不機嫌そうな声で、「どこにいるんだ!」と電話をかけてくるまでには、多分、まだたっぷり時間がある。
世界から切り離された、私と音楽だけの贅沢な時間。
それをしっかりかみしめながら、私はブラームスをゆっくりと丁寧に弾き始める。
やがて先生に呼び出されて、戻るレッスン室の前の廊下には、きっとまた、誰かがバイオリンを手にして立ち尽くしているに違いない。
私からその学生に、再び譲り渡されるだろうこの部屋の鍵は、窓から差し込んだ日を反射して、机の上で明るく輝いていた。
※ダブルストップ・・・バイオリンのように、基本単音を奏でる楽器において、同時に複数の音を押えて鳴らす奏法。
OP.8 留学の話。 その2 「先生」