eyecatch

 

今さらながら『シン・ゴジラ』の話をする。映画賞のシーズンが始まって、『シン・ゴジラ』もすでにいくつかの賞を獲った。私は怪獣映画にたいして興味がないのだが、予想に反しておもしろかった。映画は幅広い層にウケて、昨年の夏あたりは随分と話題になっていた。なかでも中高年の男性の熱狂ぶりは、他の映画ではまず見られない現象だった。ビジネス系の雑誌やWEBサイトがこぞって取り上げ、有識者による考察を繰り広げる様子は、気味が悪いほどだった。

 

中高年男性、すなわちおじさんたちが『シン・ゴジラ』にこれほど熱狂したのは、ゴジラやエヴァへのノスタルジーもあるが、おじさんの共感のツボがそこらに散りばめられていたからである。とあるビジネス系WEBサイトに、『シン・ゴジラ』の政治家や官僚の描き方が「リアル」と書いてあったが、日本の一般企業だって似たようなものだ。おじさんたちは映画を観ながら、まどろっこしい指示系統とか、誰も責任を取りたがらず何も決まらない長い会議とかの背後に、自分をみつける。会社でいつも感じているモヤモヤした思いとともに、スクリーンの片隅に自分の姿を追加したのである。

 

そんなおじさんたちだから、はみだし者の特命チーム「巨災対」の不眠不休の奮闘に胸を熱くしたのだ。そして「オレだって機会さえ与えられれば矢口蘭堂になれるんだぞ」と思ったかもしれない。だがそれを、そのまま口にするのはさすがに照れがあるから、その代わりにビジネスサイトの『シン・ゴジラ』深読み記事を読みあさるのだ。

 

水を差すようだが、おじさんたちよ、「まずは君が落ち着け」である。大抵の人間は矢口蘭堂にはなれない。組織の大半は「一兵卒」で成り立っているのだ。みんなが矢口だったら組織は機能しない。ヤシオリ作戦だって、自衛隊員以外にも、薬品を製造する人、ポンプ車を運転する人、無人在来線爆弾のために在来線車両を改造する人、そういった名もない「はたらくおじさん」あってこその成功だ。「はたらくおじさん」、素敵じゃないですか。

 

とにかく『シン・ゴジラ』は、そうやって中高年男性の熱い支持を得た。いわば怪獣版の『半沢直樹』や『下町ロケット』なのである。

 

ゴジラは太平洋から突如現れ、東京に上陸する。その理由も目的も『シン・ゴジラ』では謎のままだった。浅野いにおの漫画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』は、それと似ていなくもない。

 

ある日突然、無数の「侵略者」を乗せた巨大な宇宙船が東京上空に飛来する。自衛隊による防衛で鎮静化するが、10万規模の死傷者を出してしまう。『デデデデ』は、その3年後、依然として空には母艦が浮かんだままの東京で暮らす少女たちの日常を描く物語だ。まだ連載中で、今後ストーリーは大きく展開していきそうなのだが、これまでのところ「侵略者」の目的は謎である。

 

時折母艦から飛来する小型船の迎撃や、上陸した「侵略者」の駆除が、散発的に行われる中、少女たちはかわらず、恋愛や友人とのおしゃべりで日々を過ごしている。「侵略者」が本当に「侵略」を目的にやって来たのか、弱すぎる彼らを強力な武器で殲滅することが「防衛」なのか、時折頭をよぎるそうした疑問をなるべく考えないように、今だけを見て暮らしている少女たちが出会う謎の人物の正体とは――。

 

母艦がその影を落とす東京で、少女たちは「だからって私たちに何ができるわけでもないし。」と醒めた目線で社会を眺めている。主人公の門出(かどで)が、担任から古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』を借りる場面が出てくる。「今の若者は現状を幸福だと答える率が昔より高い。将来に希望があるから現状に不満を覚えるのであって、この先にいいことがないのなら今を幸福だと思わないと、自己を否定することになるからだ。」というこの本を、門出は「すごくおもしろかったです!」と言う。

 

多分『シン・ゴジラ』のエンディングから3年後の世界も、これと同じようなものだと思うのだ。ヤシオリ作戦の成功により凍結はしたものの、またいつ活動を再開するかわからないゴジラがそびえたつ東京。その足元で、少女たちはドリンクバーをおかわりし、おじさんたちは会議をしているのだろう。

 

言うまでもなく、これは3.11以降の日本の状況を暗示している。最初の危機的状況をどうにか回避した福島第一原発では、今も静かに汚染水のタンクが増え続けていて、この先どうなっていくのか、明確なヴィジョンは示されていない。中東の紛争は続き、ヨーロッパには難民が溢れている。日常はかわらないように見えても、そこには薄暗い影が落ちているのだ。

 

さて、『シン・ゴジラ』と『デデデデ』の間にはもうひとつ、私には見過ごせない共通点がある。ほとんど「おばさん」が登場しない、ということだ。

 

『シン・ゴジラ』では、余貴美子が防衛大臣を演じていたが、これは「おばさん」というより「おじさん」枠だ。とすると、あとは巨災対チームにお茶出しをするおばさんとして、片桐はいりが一瞬登場するだけなのだ。そもそも、いくらアメリカが実力社会だとしても、核攻撃を前提にした交渉のための大統領特使カヨコ・アン・パターソン役が石原さとみなんてアリだろうか。若い娘を相手にそんな難しい交渉をするほど、日本の政治家の頭はやわらかくない。

 

『デデデデ』もそうだ。たまに門出と凰蘭の母親が出てくるくらいで、しかも門出の母は編集者、凰蘭の母は区議選候補だから、おばさんとしてはレアタイプである。人口の男女比は半々で、世に「おじさん」がいるのと同じだけ、「おばさん」だって存在しているはずなのに、この2つのディストピアの物語から、「おばさん」という存在はそっくり抜け落ちてしまっているのである。

 

それはなぜか。答えは単純だ。「ストーリーに必要ない」からである。

 

当たり前のことを言うなと思うかもしれないが、要するにおばさんたちの存在は、社会が大きく変動する局面において、描くに値するだけの役割を持っていないのだ。

 

今や、専業主婦の割合は40%を切り、仕事を持っている主婦の方が多い。「はたらくおばさん」はたくさんいるのだ。だが、男女共同参画社会だとか国は言うけれど、実際にはめぼしいところは男性が埋めて、残ったところを「労働力」として女性が参画してね、という話である。同一労働同一賃金などという話も出てきたが、おばさんたちはそもそも同一の労働なんかしていない。パート先で、レジを叩いたり、電話を取り次いだりしているのだから。

 

それがいいか悪いか、日本の経済成長にとってどうかという話は、今回の軸から外れてしまうのでしない。私が言いたいのは、ほとんどのおばさんたちの「役割」は、日々の生活を維持することで、そこにはドラマが入り込む余地はないということなのだ。

 

『デデデデ』で最初の母艦の飛来により東京がパニックになる中、門出の母親が「トイレットペーパーが足りなくなる」と買い出しに出かけていく。『シン・ゴジラ』なら、おばさんたちは巨災対に差し入れられた大量の塩むすびの向こう側にいる。それがおばさんの役割なのだ、少なくともこの日本では。

 

『シン・ゴジラ』に胸を熱くしたおじさんたちは、そこに自分を投影できた。けれど、「はたらくおじさん」たちの背後には「はたらくおばさん」たちも静かに存在しているのだ。主役になるどころか、脇役にすらなれない。強いていうなら「背景」である。そこでおばさんたちは、どこにもドラマのない日常を、ハムスターの車輪のように回しているのだ。

 

私も、そうやって日常をまわすおばさんの1人である。ドラマはなく、スポットライトもあたらない。だが、矢口蘭堂や、カヨコ・アン・パターソンになれなくても、日常を支えるという役割は、これはこれで重要なのだ。当たり前すぎて捨て置かれるおばさんたちにも、もっと脚光をあててやってほしい。おばさんは地球を救わないかもしれないけれど、地球が最後を迎える日まで、懸命に家族の日常を守ろうとするだろうから。