女はいつから「おばさん」になるのか。慶應義塾大学商学部教授の中島隆信は著書『オバサンの経済学』の中で、おばさんを「女性らしさを放棄した存在」と定義し、その誕生のタイミングを「女性らしさを維持するためのコストが、それを維持することで得られるメリットを超えた時」であると書いている。ここでの「女性らしさ」はヴィジュアル面に限定されているが、「女性らしさを維持するためのコスト」とは、単に化粧や服を指すのではないと私は思う。他者から見て「女性らしい」と思われるために、言いたいことを我慢したり、笑顔を振りまいたりといった心理的コストもそこには含まれているはずだ。

 

女性たちは、「コスト>メリット」となった時点で「女性らしさを維持すること」をあっさり放棄して、おばさんに転生するのではない。その決断に早い遅いの個人差はあるにせよ、そこに至るにはそれぞれの苦悩の日々がある。年々増大するコストのかたわらで、メリットは加速度的に目減りし続ける。あえて言葉にすることはなくても、周囲の温度が冷えていくのを、女性たちは肌で感じているのだ。

 

 

映画『ハッピーアワー』は、そんな問題に直面する世代、30代後半の女性たちを扱った作品である。前回とりあげた『滝を見にいく』と偶然にも共通する点として、演技経験がない、つまり素人女優を主演に据えている。しかも『ハッピーアワー』では、その素人女優4人が、ロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞までとってしまった。『滝を見にいく』での素人おばさんたちの起用が、年代ならではのリアルな「くたびれ感」を狙ったものだとするならば、『ハッピーアワー』には、もしかしたら主演の女優たちも意識していなかったであろう、「賞味期限まであとわずか」の女性が持つ微妙な空気が満ちていて、それがこの映画がここまで賞賛された理由ではないだろうか。監督の濱口竜介は、こう述べている。

 

“この年代の女性は、社会的に弱い立場にあるように思いました。まず出産に関するタイムリミットをすごく意識しなきゃいけない時期でもある。でも、社会の側からの彼女たちのサポートはまったく万全ではないから、彼女たちは自分のキャリアをどうするのかについて選択を迫られる。そして否応なく、いわゆる「容貌が衰える」時期でもある。でも、女性においてそのことが特に問題になるのは、明らかにこの社会が男性社会だからです。20代の頃には求められなかったような形で、自分の体と社会から選択を迫られているんだと思います。本当は彼女たち個人の選択とは言い切れないものなのに、社会は素知らぬ顔をしている。彼女たちはサポートなく放り出されている。そういう、すごく微妙な年代ではあるわけですよね。”(*1)

 

 

5時間を超える長編の中で、4人の女性たちの心の機微が丹念に綴られる。学芸員の芙美は、書籍編集者の夫との一見平和だが上辺だけの関係に悩んでいる。夫が担当する若い女性作家との間に、特別な感情が芽生えているのを察しているが、口に出せない。専業主婦の桜子は、仕事中心の夫や、親を遠ざける年代になった中学生の息子、一時的に同居することになった義母との生活の中で、自分の居場所に疑問を持ち始めている。年下の男と不倫関係にある純は、科学者の夫との離婚裁判中だが、勝訴の見込みは薄く泥沼化している。看護師のあかりは、ベテランとして責任ある仕事をこなしているが、周囲の男たちが、「看護師なんだから面倒見がいいんでしょ」とばかりに私生活でももたれかかってくることに、なんとなく苛立ちを感じている。

 

映画の序盤で、芙美の勤めるアートスペースでのワークショップに桜子たち3人が参加する。「重心に聞く」と題されたどこか胡散臭いワークショップで、他の参加者と額をつけたり、腹に耳をあてて相手の内臓の音を聞いたりしながら、言語を用いないコミュニケーションの方法を探るというものだ。

 

30分は延々と続くこのシーンの最後で、感想を求められた純が「幸せな時間でした」と言う。タイトルの『ハッピーアワー』にもつながるこの言葉は、身体が触れ合うことで、相手(と自分)の存在を実感できた、忘れていたその感覚を思い出した、という意味に私は受けとった。パートナーや家族と、あるいは社会とでもいいが、しっかりと繋がっている、受け入れられていると実感できることは幸せだ。彼女たちにとって、もはやそこが曖昧になってしまっているのである。

 

主人公の女性たちはそれぞれ、パートナーとの関係性が変化していくことに悩みながら、その感情を抑圧して生きている。監督の言うように、30代後半となると「出産」のタイムリミットが刻々と近づいてくる。実際に出産する気のあるなしに関係なく、それによってパートナーから見た自分の存在が「女性ではないもの」になっていくのではないかという不安を、どうしても感じてしまうのだ。映画の中で、彼女たちはたびたび口論する。友人と、あるいは友人の夫と。だが自分の夫には何も言えない。ただ感情を溜め込むだけだ。パートナーに対する不安は、おいそれと相手にぶつけられるものではない。そこで白黒はっきりさせてしまったら、激しく傷つくかもしれないからだ。

 

一方、男性たちはどうか。タイムリミットを感じることのない彼らは、女性たちが内なる焦りを抱えていることに気づかない。彼らにとって重要なのは、彼女たちの「妻や母という機能」であり、それを満たしている限り問題はないのだ。純は離婚裁判の中で、「私は夫に関心を向けられてはいなかった」と言う。にもかかわらず、純の夫である公平は、裁判を「濃密なコミュニケーション」と呼び、そこで初めて妻の魂に触れた気がする、僕は彼女に恋をした、と言う。彼は離婚の2文字を突き付けられるまで、一人の女性としての妻に視線を向けたことはなかったのだ。

 

 

敗訴した純が失踪したことで、波紋のように変化がおきる。残された3人は、そこにいない純の代弁をしようとするほど、それが本当に純の考えたことなのか、それとも純を利用して自分の想いを吐き出しているだけなのかと考える。そして彼女たちはそれぞれの問題に向きあいはじめるのだ。

 

結末における彼女たちの選択の深層に流れるものは「相手にとって私とは何なのか?」という共通の問だ。このまま歳を重ね、女性としての商品価値がなくなった時に、相手との間に残るものがあるのか。求めていたものはそれぞれ違う。互いに対する深い理解であるとか、家庭を運営する共同体としての結束とか。『ハッピーアワー』の女性たちは、単なる機能としてではない、一人の人間として関心を向けてほしかった。それが得られないと知ったとき、これまでの抑圧を解き放ち、自分がまだ女であることを見せつけるのだ。この結末について濱口監督はこう言っている。

 

“この映画を終えられる瞬間というのは4人の登場人物たちすべてがそれぞれ何がしか自分のうちにこの後の人生を生きていくための力を発見したときではないかなという気がしていました。” (*1)

 

そうなのであれば、私は4人のうち1人くらいは、今ある関係の中でその力を発見してほしかったと思うのだ。男性から見てどうかとは関係ないところで、自分の価値を自分で発見する女がいてもいいではないか。それは、冒頭に書いた「女性らしさを放棄する」ことかもしれない。女性であることから降りたうえで、今の関係を再構築して逞しいおばさんになっていくキャラクターがいてもいいと感じたのである。

 

『ハッピーアワー』は5時間超を全く長いと感じさせなかった。どこも削れない微妙な伏線が配置され、プロではない女優のぎこちない台詞がかえって生々しい。まるでドキュメンタリーを見るように、彼女たちがどうなるのか固唾を飲んで見守ってしまうのだ。こんな女性たちが日本中のどこにでもいて、おばさんの扉の前でたちすくんでいるのだろう。若いうちに女性であることのメリットを存分に享受した人ほど、それが失われることが恐ろしく感じるに違いない。

 

だが、泣こうと叫ぼうと時間は平等に過ぎてしまう。とっくの昔におばさんの私は、彼女たちに同情するかたわらで、早くこっちに来ればいいのに、とも思うのだ。確かに、おばさんの社会的地位は高くない。正当に評価されないことも、理不尽な非難を受けることも多い。だが視点を変えれば、これまで「女性らしさ」を維持することに使われてきた自分のリソースを、好きなように使う自由も得られるのだ。自分のためにお洒落を楽しむ人、趣味にうちこむ人、おばさんの扉の外側にいる人たちには想像もできないだろうが、おばさんたちの世界は意外にも多彩なものである。その世界で、おばさんたちは、妻や母といった役割を淡々とこなしながら、皆それなりに機嫌よく暮らしているのだ。山中に取り残された『滝を見にいく』のおばさんたちがそうであったように。

 

これまで3回(第1回第2回)にわたって、映画の中の「おばさん」について書いてきた。若さが重視される社会の中、やがて背景に塗り込められるおばさんたち。私は、おばさんたちにしかない魅力や美点を語りたかった。しかし、そんなものはないのだ。落着きがあるとか、面倒見がいいとか、ひねりだすことはできてもそれは結局個人の資質によるものだ。逆に言えば、「図々しい」とか「恥知らず」とか、おばさんヘイトに使われる言葉も同じく個人的資質である。図々しいおばさんは、元々図々しい女だったのだと思う。そうした資質が若さに覆い隠されていただけなのだ。

 

その魅力を語るかわりに、私は私を含めたおばさんたちの健闘を称えたい。そしてできる限り機嫌よく生きていこうと思う。これからおばさんになる女性たちが、これ以上怯えなくてもすむように。私たちは扉を開けて待っている。住めば都、ここの居心地も慣れればそう悪くはないのだ。

 

*1 出典:『ハッピーアワー』濱口竜介監督インタビュー 「エモーションを記録する」