近所に住むキャンプ好きの知人から聞いた話だ。連休中のある日、スーパーで大学生と思しき女の子たちが買い物をしていたのだという。彼女たちは肉や野菜を大量にカゴに積み上げ、ペットボトル飲料を何本も買い込んでいた。これからバーベキューに出かけるらしい。それはいいのだが、知人が気にしていたのは、彼女たちが皆、淡い色のヒラヒラしたブラウスやスカートを身に着けていたことだった。知人は、あんな服では絶対汚れるし、第一危険ではないかと心配していたのである。

 

私は言った。たぶん彼女たちは買い物を担当するだけで、河川敷で火をおこし、肉を焼くのは男の子たちが全部やってくれるのだろうと。知人は至極納得したのだが、その後私たちは、ヒラヒラした服で「えーコワーい」だの、「やだキタナーい」だのと言って全部男にやってもらう女の子より、Tシャツにジーンズで、率先して火おこしをする子の方が素敵じゃないかという結論に達したのである。その知人は、夫や息子がカブトムシ採りや川遊びに熱中している間に1人でテントを建て、火をおこして夕食の準備を始める強者なのだ。知らん顔している夫や息子も、それはそれでどうかと思うが、少なくとも彼女のそういうところはかっこいいと私は思っている。

 

 

ヒラヒラ女子はどうやって生まれるのだろうか。彼女たちも、女ばかりの集いであれば火もおこすし肉も焼くのだろう。私がそんな疑問を口にすると、今度はその知人が、そのようにふるまった方が得だ、と娘に教えている母親を知っている、と言うのである。何も知らない顔をして、男が全部やってあげなくちゃと思わせろ、と。知人が言うには、その母親自身も、そのまた母親にそう言われて育ったと語っていたそうだ。「女子たるもの殿方の三歩後ろを歩むべし」ではなくて、「その方が得」。ヒラヒラ女子はしたたかである。

 

私にはその人を否定することはできない。その母親が娘に教えた処世術は、おそらく彼女自身の成功体験に基づいている。私との価値観の違いはあれども、娘がより良い人生を送れるように考えた結果であるはずだ。その母親が女性は何も知らなくていいと考えているわけではない。「その方が得」とは、女性の能力をわざわざ証明してやる必要はない、といういたって現実的な理由にも思えるのだ。

 

娘にとって母親は最も身近な同性のモデルである。娘が産まれ、やがて成長して自立するまでの間に、母親が与える有形無形のメッセージはその後の娘の価値観にどう影響するのか。ヒラヒラ女子の一件は、私自身は娘にいったい何を伝えてきたのだろうかと考えさせられる話だった。

 

 

 

最近私は母と娘が描かれた映画2作品を立て続けに観た。『マルガリータで乾杯を!』と、大ヒットした『湯を沸かすほどの熱い愛』である。

 

『マルガリータで乾杯を!』はインドの女性監督ショナリ・ボースの作品で、障害者の恋愛と性がテーマだ。2014年のトロント国際映画祭では最優秀アジア映画賞を獲得したそうである。

 

19歳のライラはデリーの大学生で、脳性麻痺のため生まれつき四肢が不自由だ。家族は両親と弟の4人。専業主婦の母親は献身的にライラの身の回りの世話をしてきた。ライラが失恋をきっかけにニューヨークの大学に編入しても、母は一緒に渡米して娘を支える。

 

母親に感謝はしていても、19歳ともなれば自立したい年頃だ。車での送迎を断った帰り道、デモ隊と警察の小競り合いに巻き込まれたライラは、デモに参加していた視覚障害者の女性、ハヌムと出会う。2人はやがて恋愛関係になり、ハヌムと暮らしたいライラは母親をインドに帰してしまう。娘の自立を望む母親は、体調の悪化も手伝ってライラの求めるままに帰国し、自由になったライラはアメリカでの生活を満喫するのだ。

 

ところが、夏休みにハヌムを連れて帰省したライラが、自分がバイセクシャルであることを告げると、母親の態度は一変する。障害を持つ娘の自立は応援できても、セクシャリティは受け入れられないのだ。ぎくしゃくする関係を修復できないでいるうちに、母親は再発した癌が悪化して倒れてしまうのである。

 

 

 

もう一方の『湯を沸かすほどの熱い愛』は、今さら言うまでもないほど評価が高く、来年の米アカデミー賞に日本映画代表として出品されると聞いた。

 

癌で余命2か月の宣告を受けた双葉は、死ぬまでにやっておくべきことのリストを作る。失踪した夫を探しだすこと、休業中の銭湯を再開させること、彼女は持ち前の情熱でひとつひとつ実現させていく。その中に、学校でいじめられても誰にも訴えられない気弱な娘を強くすることがあった。学校に行き渋る娘の布団を引きはがし、「あんたはお母ちゃんの子なんだから、できる!」と言い放つ。その言葉に励まされた娘はいじめに立ち向かう勇気を持つのである。

 

しかし、娘は実子ではなく、夫の連れ子だった。双葉はその事実を告げ、嫌がる娘を無理やり実母に会いに行かせる。双葉自身が幼い頃生き別れた実母への思慕を断ち切れずにいたからだ。娘には1人で実母のもとに出向かせたのに、双葉は探し出した自分の母に1人で会いに行くことができない。「逃げるな、立ち向かえ」と娘に言っておきながら、自身は実母に拒絶されることに向き合えないのだ。

 

 

 

どちらも感動的な話ではあったが、正直なところ私はどちらの母親にもそれほど共感を覚えなかった。少なくとも私もこんな母親でありたいという感想は抱かなかった。この2人の母親は、自分の中にある矛盾に無自覚なように思えたからである。

 

大雑把に言って、母が娘に託すメッセージは「私のようにならないで」か、「私のようになって」かの2つに集約されるのだと思う。その2つは1人の母親の中に混じりあって存在していて、折に触れそのどちらかが顔を出す。

 

そのメッセージは、結局のところ母親の生きてきた範囲を超えるものにはならない。人生は成功と失敗の連続だ。母親は自分の経験則を娘に与えることで、無意識に娘に自分の人生の「生き直し」を望んでいる。『マルガリータ』で母親が娘に送るメッセージは「私のようにならないで」が強すぎ、『湯を沸かすほどの』は「私のようになって」が強すぎるように感じた。しかし、ある局面で無自覚にそのメッセージが反転され、その矛盾に娘は混乱する。相反するメッセージが整合性を持つのは母親の心の中でだけだ。母は娘が自分の生き直しを実現させる対象ではなく、別の人間だという認識が必要だと思うのだ。

 

 

 

ところで、この2つの映画に共通するのは、どちらの母親も劇中で死を迎えることである。この2作品に限らず、母親が登場する作品のうち、いわゆる「感動作」と言われるものには母が死ぬものがやたらと多い。もちろん、家族の死は誰にとっても大きな出来事なのだが、母と子、特に母と娘との物語となると、「毒母」の話か、「死にゆく母」の話か、たいていそのどちらかである。

 

前回『愛を乞う人』について書いたとき、すべての物語はいくつかのパターンに分類できるという話を取り上げた。『愛を乞う人』のような「毒母もの」が心理的に母を殺すことである種の復讐を遂げる物語なのだとすれば、今回の2作のように愛される母親が現実の死を迎える物語は何を意味するのだろうか。

 

母親が死ぬということは、それまで受け渡されてきた数々のメッセージがそこで途絶えるということである。子はその時点で、母から渡されたものを整理する。前回書いたように、人が物事を記憶するのにストーリーを必要とするなら、子は母を記憶するためのストーリーを作らなくてはならないからだ。その作業を終えて初めて、子は母のいなくなった世界を歩きだす。

 

『マルガリータ』でも『湯を沸かすほどの』でも、娘が母のために紡いだのは「家族のために献身的に尽くしてくれた母」のストーリーだ。ライラはハヌムと別れ、インドに残って家族と暮らすことを選択する。そうすることで悲しみにくれる父と弟を支えるのだ。それはこれまで母が家族にしてきたことをなぞるものである。『湯を沸かすほどの熱い愛』の娘も、双葉を弔った後、母のように生きようと誓う。そう感じさせるラストシーンだった。

 

映画の中では母の人生が死によって全肯定され娘に引き継がれる。たぶんここで感動しないといけないのだろう。だが私は娘に私の人生をなぞってほしいとは思えなかった。私にもこれまで生きて発見した経験則はあるが、当然私のメッセージにも時として矛盾がある。受け取るかどうかは娘の自由だ。鵜呑みにしないで自分が納得できることだけを選択してほしいのだ。「自分で選べ、母を疑え」私が娘に伝えることがあるとすれば、これに尽きるような気がする。そして、死によって過度に美化された母のストーリーが作られないように、もう少し長生きしなければとも思うのだ

 

 

 

私の娘はライラと同じ19歳だ。ヒラヒラ女子の一件を娘に話してみたところ、娘は間髪入れずこう言い放った。

「ハァ?自分で火おこして肉焼くほうが楽しいじゃん。」

 

少なくともこの点について、娘は私と同じ考え方のようである。それは私には嬉しいことだが、今どきの「女子力」という観点からするとどうなのか。母はまた矛盾した考えを抱くのである。