しかし、「強者」のほうもそれほど幸せではない。

このようなゲーム社会の中で殺伐とした日々を過ごしているプレイヤーたちは、どんどん現実社会とゲーム社会が混同していく。強者達は自分が社会的に大きな独立した組織の一員になったような錯覚に陥り始め、現実での生活態度も横暴になったり、ゲームへの執着の密度が高くなっていく。もちろん、ゲーム内での地位を維持するために、どんどんとゲームに費やす時間も多くなる。そして、ついにはゲーム廃人と呼ばれるようになる。

 

ブラックジョークで「産業廃棄物」と言うことがあるが、まさにその通りで、ゲーム内でしか自分の価値を見いだせないようになり、現実を放棄して社会からドロップアウトしてしまう。私もそうであったように、このゲーム廃人と呼ばれる人達は、現実では味わうことの出来ないゲーム社会の地位と、アイドル的存在に扱われる快感から離れられず、ひたすらゲームをし続けてしまう事になる。

このゲーム廃人に一度なってしまうと、オンラインゲームそのものが終了するか、ゲームシステムの改悪などでプレイヤーからゲーム離れをしない限り、ゲームをやめることができない。費やした時間や労力を捨てることは難しいからだ。また、ゲームそのものがサービス終了となれば、生きる価値を見いだせずに、精神の病気を患ってしまうと言うのも珍しい話ではない。

 

結局、「強者」も「弱者」もなかったのだ、と言えるのだろう。きっと。

 

 

 

考察に戻る。

もう一つのゲームジャンルは、「レベル」概念がないゲーム、例えば、「マインクラフト」や「テラリア」だ。ゲームの明確な目的もほぼ無く、少しオプション的なクエストはあるものの、自由度はとても高い。ゲーム内では何をしても良いため、逆に、「何をするか」で自分の才能を魅せることができる。

 

こちらはマインクラフトの動画。ブロック(「レゴブロック」がモチーフだと一部では言われている)を積み重ねて、いろいろなものを製作して行くゲームである。ゲーム世界を探検したり、夜になると現れるモンスターを倒しながら、コツコツと試行錯誤を繰り返し素材を集めては自分の好きなように建物や家を建築していく。

一見単純そうに見えるが、作るものにはプレイヤーの感性が直接反映されるので、プレイヤーごとの個性溢れる素敵な世界をつくることができる。

 

この動画のように、手間暇をかけて巨大な建築物を建て、その感動を視聴者と共有する動画がある反面、ベクトルが全く異なる動画もある。

 

私が気になった動画を紹介しよう。

 

 

すぐに気づくと思うが、子供が動画の中に登場する。そして大人も。(大人と呼ぶにはあまりにも成熟が感じられないのだが。)

これが2つめの「強者」と「弱者」のパターンだ。説明するまでもなく、大人が「強者」であり、子供は「弱者」だ。

 

そもそも、子供たちがこれほど気軽にネットの世界に足を踏み入れることができるということが、危険性をもっているのだろう。さまざまな人がネットに入ってこれる、ということは素晴らしいことでもあるのだが。

 

私が見た中には、不登校の小学生から定年退職を迎えた男性まで、さまざまな人が所属する組織があった。ネットにあまり関心のない人からすると、実に奇妙な世界なのかも知れない。

ゲーム世界では、年齢や職業にはみなほぼ無関心で、プレイヤーの能力でそれぞれの格付けがされてしまう(それがシンプルで良いという評価ももちろんある)。なので、ゲーム廃人と呼ばれる人達は、オフ会に行き、初めてその人の年齢や素性がわかる、ということもあるのだ。

 

「大人」たちは、動画配信やチャットを使って子供たちと親密になる。そして、子供たちからの信頼をえたところで、ある日突然、標的の子供に対し牙を向ける。素直な子供は、何が起こっているのか分からないまま、大人たちに好き勝手にやられてしまうしかない。しかも、その様子は録画され、ネットの世界に晒されてしまうのだ。

 

さらに悪いことに、その動画を持て囃す人々も多い。動画の再生数やコメントも増えるため、配信者は悪い意味でのカリスマ性を持つようになる。そうすると、そのことに味をしめて、また同じことを繰り返す。負の連鎖。

 

 

「強者」が「弱者」を支配するという構造は、現実世界にも存在する。というか、それが厳然としたこの世界のルールだ。それは、ネットの世界でも変わらない

しかし、顔の見えないネットの世界では、特有の力学が作用して、その構造はさらに強化されていく。現実世界に居場所を持てない人がネットで救われるということがあるのと同時に、ネットは人間の負のエネルギーの「溜まり」ともなっているのだ。

そこから何が生まれるのか、私はこれからも見ていくことになるだろう。