震災が生んだいくつもの境界線
地元の人は線を引かれたくないと思っています。「フクシマ」って書かれることも嫌がっています。
「ヒロシマ」「ナガサキ」はカタカナになっていますよね。でも同じように「フクシマ」になって欲しくないという声はあります。
差別的だという理由です。いったんそういうカテゴリーに入れられちゃうと、そういう目でみられてしまう。風評被害なんというのもありました。
住んでる人にとっては心地よくはないです。
– そこは難しいですね・・
なんせ目にみえないから・・・
– それに福島といっても広いですからね。
そうそう。会津とかは別世界。

(編集注:2016/12現在、ストリートビューは2015/7当時のものとなっている。写真にあるようなバリケードが道を塞いでいる。)
前はゲートが置かれていたところなんですが、それがなくなったときの違和感がすごかった。
物理的な境界線が消えたとき。
今までは入れなかったところが普通になる。頭では分かっていても不思議な感じでした。
今までは何だったんだという。風景は変わらないし。
– しばらくすればそれにも慣れて普通になっていく。
国道のほうなんかも、線量が劇的に変わったわけではない。
そうすると、境界線ってなんだろうと・・・。
でも境界線は致命的なもので、中の人はそこに住むことはできなかったんです。人の一生を左右するものだし、差別の問題にもつながったりする。
そんな決定的なものなのに、ある日突然ぽんって投げられてなくなってしまう。不思議でした。
南相馬はもともと20kmの境界線上にあって、その境界線を境にして分断されていました。20km圏内には入れなかったんです。
だから、南相馬や原発に行く前線基地は相馬にありました。
相馬は震災の年に相当経済的に潤っていて、南相馬の人なんかもあっちはいいなあと言ったりしていた。
それが今は前線が南相馬に移動していて、立場的には逆になっています。
南相馬が潤っているいっぽう、相馬は没落しているというか、元の町に戻ってしまいました。
そういうのも境界線の力なのかなとも思います。
もともと浜通りのあたりは非常に貧しかったんです。
それが原発ができて、いっきに福島県の中でも裕福な町になってしまった。
そこですごくいい思いをしてきたというのはあります。人は原発で働いて、町にもお金がどんどん入ってきていた。家は新しく建て替えられるし、無駄な公共施設はできるし。
そういうのもあって、南相馬のほうからは「あいつらはいい思いしてるからいいんだよ」みたいな妬みもあったりする。それは言い過ぎではあるんですが、そういう差別のようなものを生みますよね、境界線は。
写真を撮ることが難しくなった
– 震災から5年経って、ご自身に変化はありますか?
最初はこの町がチェルノブイリみたいになってしまうのかなと思っていました。
どうなるのかな、これでいいのかなとずっと考えていました。
ただ、今はもとに戻ってしまった。震災当時に比べて人は戻ってきています。
その中で、写真をどう撮ればいいのかなというのは考えています。
自分の中で、人が撮りにくくなりました。3年目以降は風景ばかり撮っています。
– 「こういうものが撮りたい」というのはあるんでしょうか?
この町がどういう風になるのかを見続けたいですね。
定点観測、です。
僕自身の経済的な理由もあって、いろいろな場所をまわれないということもあるんですけどね。だから相馬と南相馬に絞っているというのはあります。
僕は、原発の問題は社会の合わせ鏡だと思っています。
なぜ撮りにいったかというのも関わりがあって、さっきは建前的なことを言ったんですが、もちろんそれもあるんですけど。極限的な状況で人(の本性)って出ますから。そういうものを見続けたいなという思いがあります。
– そういう意味だと極限の状況は終わったんじゃないですか?
東京がですか?
– いえ、福島です。終わったというか、状況としてはゆるくなっているというか。
いや、でもまだ結構いろいろとありますよ。
たしかに極限の状況というわけではないんだけど、いろいろ揉めてます。
境界線によって補償内容が違ったりとか。あっちの家は金もらってるとか、お前は避難区域の人間だからいっぱいもらってるんだろうとか。
そういう汚いところは出る。
– 汚いものが見たい?(笑)
見たいわけじゃないんだけど。見たくもないんだけど(笑)
ああ、やってるなあと。話しもいろいろ聞くし。
社会の合わせ鏡というのは本当に思う。ダルいとか、忘れようとか、なかったことにしようとか。
なかったことにはならないんだけど、日常に戻りたいっていう。
それが悪いこととは思わないし、日本人が持つメンタリティなのかなとも思うけど、僕は違った立場で見ていたいなと。
原発事故のあとに日本の社会は変わるのかなと思ったんですけど・・・結局変わってない。
原発も再稼働しているし。
– 震災のあと、「日本の社会は変わるんじゃないか?」という期待感を持てた時期もありましたが・・。なぜ変わらないんでしょうか?
やはり「安定」なんだと思います。日常に対する執着心というのが日本人は本当に強い。
福島だけじゃないです。東京だって、電車が少し遅れたくらいで騒ぐし、日常に対するこだわりが強い。
それは日本社会そのものがそうだから。
だから、日本社会は変えないことを選んだんだなと思っています。もとの生活に戻りたいっていう形の復興を選んだんだなと。
– 震災のことをなかったことにしたい?
なかったことにはできないと思うけど・・・忘れたい。
津波の場合は家は流されてるし人は亡くなってるし・・。だけど、原発の場合は家は残ってるし、人も死んでいないことになっています。
強い変化があれば一からやり直したいってなりますけど、そういうのがないと・・。
国が「大丈夫だよ」って言ってしまっていますしね。
南相馬にも「原発反対」とか「ここは危ない」ということを言っている人はいるんですが、
そういう人たちはもう変な目で見られてしまっていますね。
– そういったことを写真を通じて変えたいということはあるんでしょうか?
いまはそういうものはないですね。
– ということは自分自身の問題として撮っている?
いまはそうでしょうね。
震災直後は、「ここに人がいるんだぞ」というのを見せたかった。見捨てられた町に、人が残っているんだぞと。
いまは違います。今は「普通の町」に戻ってしまったから。
高木佑輔 プロフィール
1979年東京生まれ、横浜市在住。
2005年からフリーランスの写真家として活動を開始。社会の片隅に生きる人々の存在を記録している。
2008年からビルマをテーマに撮影をするが、2011年東日本大震災を機に福島の撮影に専念し、現在は原発後の福島と家族をテーマにした写真集プロジェクト「KAGEROU」に取り組んでいる。
2010年から「高橋かつお」のペンネームで活動するが、今回の写真集プロジェクトを機に本名での活動を再開した。
受賞歴
Human Rights Award in FCCT/OnAsia PHOTO CONTEST 2010
写真展
2010年 “The Prison Called Burma”/FCCT
2012年 ”Abandoned”/Zen Foto Gallery
グループ写真展
2012年 “Tohoku – Images of a Disaster” / The Burunei Gallery in London
2012年 “Images of Tohoku”/ FCCT
2013年 “Burma Untold” / forty-five downstairs gallery in Melbourne
2013年 The 6th Jeonju Photo Festival in Korea