5868747985_74ebb2eb5e_b

photo by dahorsburgh

 

※この記事は特集「世界には輪郭なんてない」の記事です。

夫と結婚する以前の話だが、姑(当時はまだ姑ではなかったのだけど)とマントヴァに旅行したことがある。ある美術展を見学するためであった。夕食をとるために、街の中心にあるレストランに二人で入り、リゾットを注文した。北イタリアは米の生産地だから、リゾットがおいしい。ところが、姑は給仕人に次のような注文をつけた。

「リゾットに、バターは入れないでね」

給仕人は、一瞬意味がわからなかったのかメニューを書いていた手を止めたが、こう言った。

「シニョーラ、申し訳ございませんが、我がレストランではバターを使わずにリゾットは料理できません」。

しかし、姑はゆずらない。

「味なんかどうでもいいのよ。まずくてもなんでもいいから、とにかくバターは使わないでちょうだい」。

給仕人は、不承不承メニューを持ってキッチンに向かった。キッチンからも、怒号が聞こえたことは覚えている。が、バターを使わないリゾットは、姑の前に運ばれてきた。私が頼んだリゾットは、バター入りであった。もう10年以上も前の話だが、正直言えば、一口味見をした姑のリゾットのほうがおいしかったことを私は記憶している。

 

とうわけで、姑の家にはバターはなかった。私が娘を生んでから、娘の好物が「パスタ・ビアンカ」という、バターとパルミジャーノ・チーズを使った料理と知ってからは買うようになったけれど。我が家もほぼ同様で、バターを常備していることはなく、バターを必要とする料理をするときにだけ買いに行く。

その代わり、というのもおかしいのだが、大量消費するのがオリーブオイルである。6歳の子供と大人二人の我が家でさえ、オリーブオイルは5リットル缶で購入する。炒め物はもちろん、サラダ、スープ、とにかくどんな料理でもオリーブオイルを使うからあっというまになくなってしまう。

私の家があるカステッリ・ロマーニと呼ばれる地区は、イタリアの首都ローマから南に30キロほどのところにあり、ローマっ子たちが週末に自然を楽しみながら食事をする格好の場所となっている。どこのレストランも、田舎風のあまり洗練されていない料理を出すのが特徴なのだが、なぜかパスタに生クリームやバターが使われていることが多い。普段は食べ慣れていないこれらの乳製品が使われたパスタは、重く胃にもたれる。というわけで、星の数ほどあるカステッリ・ロマーニ地方に住んでいながら、リピーターとなりたいレストランは今でも見つけることができない。

夫によれば、1980年代、フランス料理がスノッブな人たちのあいだで流行したことがあり、イタリア各地のレストランでもフランス料理の影響を受けてバターや生クリームを使用するところが増えたのだそうだ。この流行は一時的なもので、ローマの街にかぎっていえば今は生クリームをパスタに加えるレストランは少ない。それなのに、カステッリ・ロマーニの我が町の周辺のレストランにだけ、このおかしな風習が残ってしまったというわけだ。姑が北イタリアでバターを使った料理を拒否したことは非常に恥ずべきことであって、北イタリアではバターを使うのが主流だという。

 

「地中海料理」といえば、オリーブオイルは基本のキで必要不可欠なものと思っていたのだが、オリーブオイルを使わずバターのみのイタリア料理というのは存在するのだろうか。

そんな疑問を持った私は、オリーブオイルやバターのイタリア半島における境界線はどのあたりなのか、調べてみる気になった。その歴史を調べると、実はオリーブオイルとバターのせめぎ合いに、ラードが加わっていたのである。

 

 

蛮族の油、エリートの油

 

とても興味深かったことがある。現代において「ヴェジタリアン」である人の多くは、地球の生態や自らの健康に対して意識の高い、教養のある階層というイメージがある。それゆえに、揶揄の対象になったりもするのだけど、古代ローマ時代においても「オリーブオイル(つまり植物性の油)」はエリートのものであり、「バター(つまり動物性の油)」はバルバリと呼ばれた蛮族のものとされていたことだ。

古代ローマ時代の博物学者プリニウスは、「バターとは、我々のオリーブオイルと同じものとして異民族が使うものである。彼らはバターを食するだけではなく、肌に塗布もする」と述べている。バターを肌に塗る風習は、やがてローマにも広がったようだ。さらにさかのぼって、古代ギリシア時代にもアジアから輸入されたバターの存在が確認されているが、ギリシア人たちもバターを食用としてではなく、軟膏として使用していた。

 

「バター」には「蛮族がもたらしたもの」というイメージがつねについて回ったようであるが、さらに「野蛮なもの」とされていたのが「ラード」だった。「ラード」について触れているのは、古代ローマの農学者カトーただ一人である。というのも、もともと古代ローマの人々は豚を食する風習がなく、現代のフランス辺りに住んでいたガリア人がローマ化するにつれてイタリア半島にも豚が伝えられたので、ローマ皇帝までが豚を口にする用になるのは3世紀を待たなくてはならない。

しかしラードにも転機が訪れる。ローマ帝国が衰退するにつれて耕地の荒廃が進み、ゲルマン民族と呼ばれる農耕民族でない人々の侵入が始まると、必然的に彼らの影響が食生活にも及んでくる。そしてローマ帝国時代が終わり、中世を迎えると、狩猟を愛した権力者たちによって豚肉や豚の脂をつかったラードは礼賛の的になるのだ。ラードは当時、火も通さずに食べたり、滋養強壮のためにも使われていたという。

イタリア半島に住むローマの人々が、「オリーブオイル」を最高のものとして愛好したことは中世になっても変わらなかった。しかし、耕地が減り森が増えると、森に牧畜されていた豚の価格が下がり、庶民に手の届く油といえばラードがもっとも一般的という時代がやって来るのである。

 

キリスト教会も油を無視できない

 

ところで、ローマ帝国も末期になると、キリスト教がヨーロッパに広がる。修道院の僧たちは、規則によって動物性の食品の摂取は禁止されたり制限されたりしていた。彼らは、どのような油を使用していたのだろう。

 

仏教にも「精進日」があるように、キリスト教にも「四旬節」と呼ばれる食の節制期間が存在する。この期間は、聖職者に限らずキリスト教徒すべてが節制するのが常であった。キリスト教会は最初、四旬節にはラードの使用は控えるようにと呼びかけたようだ。しかし、オリーブの栽培が不可能な地域では、植物性の油であるオリーブオイルは希少品であり庶民の手には届かない。そのため、さまざまな代替油が生まれたようだ。とくに、クルミから精製する油が四旬節にはよく使用された。しかし、風味という点においてはクルミの油は格段に落ちたようで、人々は不満を募らせるようになる。そこでキリスト教会が動いた。

816年、アーヘンで行われた公会議で「ガリア地方の修道院では、四旬節にもラードの使用が可能」と可決されたのだ。おいしくないものを食べるのは節制期間といえども嫌だ、といういかにも人間的な希求を、キリスト教会の公会議で可決してしまったのだからおもしろい。「フランク王国にはオリーブの木は育たない」のだから、という理由までついている。14世紀のある法王は、フランス王に直接「四旬節にもラードを食することを許可する」と法王教書で伝えたほか、なぜかオリーブの木が育つスペイン人にまでラードの使用を許しているのだから不思議である。

それでも、四旬節に動物性のラードを使用することを躊躇する善良な人々も存在した。オリーブオイルは手に入らず、クルミの油は気に入らず、ラードは使いたくない、という人々が食していたのが「バター」なのである。8世紀のフランスの王様が、国民に公布した「四旬節に食べてよい食べ物」リストには、バターがしっかり記されている。