『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。
けれども『どういふ工合にうれしい』といふ問に対しては何人ぴともたやすくその心理を説明することは出来ない。
思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。
極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。
この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。
萩原朔太郎『月に吠える』より

からだについて語るのはとてもむずかしいことだと思う。

私たちは日々の暮らしのなかで、自分のからだのことなんて全然意識しない。
腕を伸ばしたときに「いまわたしは腕をのばしている」なんて考える人はいないだろうし、
歩いているときに「いまわたしは歩いている」なんて考える人はまずいない。
せいぜい病気になったときに日頃の自分の不摂生を恨むくらいのものだ。
そもそもからだについて考える必要なんてない。

それに、いったい何について語ればからだについて語ったことになるのだろうか。

Amazonで検索してみたところ、からだに関する本には、例えば次のようなものがある。
スポーツ理論、健康づくり、ヨガ、整体、医学、身体知、身体系の哲学、認知科学、生物学・・・。

なるほどと思うと同時に、これで本当にからだについて語ったことになるのか、とも思う。

なぜなら、これらの本は全て、「からだ一般」を対象としている。
つまり、どこかの誰かの、一般的な平均的なからだ、だ。
決して「わたしの/あなたの」からだについて語られているわけではないのだ。

だからたぶん、からだについて語るということは、「ことば」そのものと深く結びついている。
わたしのからだに対して、わたしがどのように言葉をつけることができるのか。

詩人が言うようにそれは詩や音楽の領分なのかもしれないのだけれど、試みに、手を中空にもちあげ、
手のひらを眺め、ぐっと握りしめ、そしてまた開いてみようと思う。

Feel and Think.

CIRCUS 編集部