※この記事は、CIRCUS第2回特集「いいカラダ。」の記事です。

 

今回から、「身体で感じる俳句」というテーマで、あなたを俳句の世界にご招待いたします。

といっても、別に怪しげな勧誘をしようというわけではありませんので、ご安心ください。それに招待する、などというと、なんだか偉そうですが、じつは私自身も俳句初心者なのです。

私は、自分自身が俳句の世界に入ろうとしたとき、正直どうしたらよいのか、よくわかりませんでした。

どのように読んだらよいのか、読んで何をどう感じたらよいのか。句作云々の前に、俳句というものをどう扱ったらよいのかが分かりませんでした。

その時、もしかしたら、同じように俳句に興味はあってもその入り口で難渋している人は、ほかにもいるのかもしれないと思ったのです。

 

その後、正岡子規の随筆を読んで、わたしは心のつかえが解かれるような思いがしました。じつに、一句一句の情景がありありと目の前に浮かんでくるのです。句を詠むときの背景や心の動きなどが丁寧に説明されるためにその句の奥行が明らかになるのでしょう。

このように考えると、俳句はただ5・7・5の17文字を読んで終わるものではなく、むしろその17文字はどちらかといえば暗号のようなものなのだと気づきました。

あとになって知ったことですが、俳句は連想の文学なのだそうです。この連想があればこそ、俳句は生きてくるのだといいます。

ここでは、俳句のことはよく知らないけど、少し興味はあるというような、いわば俳句の門前で躊躇をしているような人向けにお話しできればと考えています。

幾つかの俳句を引き合いに、どんな連想ができるのか、身体感覚つまり五感にどう作用するのか、といったことを考えることにします。わずか17文字の俳句が、連想によってどんな世界にまで深化しうるのか、考えてみたいと思います。

 

 

行く秋や 奈良の小寺の 鐘を突く (子規)

 

試みにウォーミングアップとして、子規のこの俳句を選んでみました。ごくシンプルな内容になっています。

季語は「行く秋」すなわち晩秋です。行く秋や、と切っているので、秋が行ってしまうなぁとまずひと区切りをしています。

この「や」は「けり」「かな」と同じように俳句の中を分断する≪切れ字≫としての効果を持っています。なぜ17文字しかない俳句をさらに細切れにするのか、不思議な気もします。

これは切ることにより生じる余韻を生かすためだと言われています。俳句の中を切るときには「や」が、俳句の終いを切るときには「けり」「かな」が多用されます。

「行く秋や」の後を「奈良の小寺の鐘を突く」とつづけています。

さあ、ここからが本題です。想像力をたくましくして、この句の世界を深く見てみましょう。

奈良というと興福寺、東大寺など大きな寺院のイメージが強いですね。そこをあえて小寺の鐘と詠んでいます。

地元の人間ならともかく、観光で奈良に行った者がわざわざ小寺に行くことはちょっと想像できませんので、おそらくはたまたま、偶然に通りかかったということでしょう。

そこで思いがけず鐘の音を聞いた、という俳句です。「鐘を突く」と結んでいるので、実際に鐘を突く場面を目の当たりにしたのではないかと思います。

晩秋ですから、秋の乾いた空気が天高くまで満ちていて、よく晴れた日の午後だったと思います。陽は少し西に傾いてきていて、なにか用事を済ませた帰り道だったのかもしれません。

あなたは、なぜそんなことが分かるのか、と思うかもしれませんが、なんとなくそんな風に思うだけです。つまりは、連想です。

一人の読み手である私の連想なので、別の読み手はもう少し違う連想をするかもしれませんし、何より詠み手(作者)の意思や真実はさらに別のところにあるかもしれません。

けれども、それでいいのです。

俳句以外の文学も同じことでしょう。作者の執筆にいたる動機などとはかかわりなく、書かれたものだけが読者の目にさらされ、読者はそれを読み、物語の世界に没入・感情移入をするわけです。俳句だからといって、ことさらに難しく考えることはありません。

こうした連想を通して考えると、この句は、一読するだけで大いに聴覚を刺激する句だと言えると思います。

「鐘を突く」とただ目の前の光景を写したにすぎませんが、この句からは小寺の寂寥とした鐘の音がありありと聞こえてくるからです。

最後に改めて、俳句を眺めてみるとします。できれば、ゆっくり、声に出して読んでみるとより一層俳句の呼吸や間合いといったものを感じることができると思います。

連想の目をもって読む俳句は、きっとはじめの印象とはかなり異なって見えるはずです。

行く秋や 奈良の小寺の 鐘を突く

 

 

鋸に 炭切る妹の 手ぞ黒き (子規)

 

冬の句で、季語は「炭」です。現在では薪や炭を使う生活は縁遠いものとなってしまいました。季語としては冬でも、現代では逆に夏のキャンプやバーベキューでお世話になることの方が多いかもしれません。

そういう意味では、季語の季節移動があってもいいような気はします。しかし、長年の積み重ねでなかなかそうはなっていません。

これが良いか悪いか、という議論をはじめてしまうのは、ここでは適切でないので措いておきます。

俳句に戻って観察をはじめてみましょう。

鋸で炭を切っている妹の手が黒かったという、うっかりすればそのまま散文のなかの一節でもおかしくないような、自然な言い方をしています。

こんなに自然なのに俳句になるのか、という見方もできるでしょう。

子規のつくるものは、短歌にしても俳句にしても、たまたま口をついて出てきた言葉が五七五や五七五七七の定型になっていた、というものも少なくありません。

子規の短歌や俳句に対する態度がよく分かる傾向ではないでしょうか。子規は文字通り、息をするように歌をつくり、句を作ったのです。

そうした句や歌は、一見、何でもない風に見えていながら、考えればとても奥深い詩情を含んでいたりするものです。

見た目だけに頼って、連想を軽んじたりすると、その深さに気づくことは難しくなってしまいます。

前置きが長くなりました。

季節は冬ですので、おそらく寒い日だったのでしょう。炭を切っているわけですから、当然戸外、庭にでもいるのでしょう。鋸を持つ妹の手は、だいぶ前から悴んでいたかもしれません。

さらに場合によると、雪が残っていたり、霜が降りていたり、吐く息は白く曇ったりしたかもしれません。

冬ざれ、などという言葉も併せて浮かんできます。野も山も冬空にどこか色あせて、眠ってしまったかのような印象です。

その中を妹が鋸を使って炭を切っている、という光景を見ていた詠み手(作者)は、その妹の手が真っ黒なことに気づきます。

色彩の乏しい冬の庭にあって、妹の真っ黒な手だけが鮮明です。手「の」黒き、ではなくて、手「ぞ」黒き、と言っていることからも、作者として強調しているのは紛れもなく「妹の手」です。

しかし、この句においても、黙示的に聴覚を刺激されます。それは冒頭に置かれている「鋸」の一語があるためです。

作者が見ている妹の一連の動作を思い浮かべれば、それは自ずと明らかになるはずです。

おそらく、はじめ作者は鋸を曳く音を聞いたのです。

(なんだろう、と思って目を向けると、妹が冬の庭にあって炭切りをしている。おやまあ、手もとを見ればなんだか真っ黒じゃないか。)作者はそんな風に思ったのではないでしょうか。いずれにしても、この鋸の音によってこの句を作る機を捕らえたはずです。

われわれ読者も、また、この鋸の一語によって、その音を容易に連想することができます。

では、最後にもう一度、句を眺めてみましょう。

鋸に 炭切る妹の 手ぞ黒き (子規)