視力が落ちるほど、翻訳された海外文学ばかり読んで育った。

 

そのせいか話し言葉が少々おかしいな。と、自分でも思う。

 

ふと気がつくと口走っている「何の変哲もねぇ」とか「のべつまくなしに言われても」とか「けったくそ悪いな」とか…身の周りには同時代性も同地域性も見つからず、思い当たるのは“明治期の翻訳文学言葉”。自分の面妖な喋りは「翻訳調」と呼んで一向に差し支えないのかもしれません。魔戦。

 

明治初期は、大翻訳時代とも呼ばれるそうだ。

 

幕末以降、新政府の欧化政策によりまして、西洋文明が急速に我が国に流入、言語なくして何が脱亜入欧ですかいと、とにかく英語をどんどこ日本語に訳したよと。

自分のような者は、この時期より綿々と行われてきた翻訳作業によって、各国ブンガク漁り読み、脳内四方八方かき乱され、既に何処国人なんだか訳わからんようにまで思想解体、身に余るほどに大恩恵を被った次第です、ああ、ほんとありがと。

 

しかし、コトは文学オタクがうひゃうひゃ喜んでオレバ良いだけの事態ニハあらず。だったのです。

 

「和製漢語」とは、日本人による漢語風の造語のこと。それまでにはなかった新概念を他所から輸入するにあたり、当の概念とやらが自国に存在しないのだから、相対する日本語など見当たらず、つまり翻訳することも叶わず、漢語の基本を踏まえながらも、漢語には無い独自表現で言葉を新しくつくっちゃったよ、ということだったんですね。脛。

 

例えば、「Society」…「社会」。当初、かの福沢諭吉氏は「人間交際」と訳し、他には「仲間連中」「人倫交際」などなどの候補があったそうだ。人間交際! 仲間連中! するってぇとナニか…“私たちの生活は、「人間交際」の仕組みに依存しています”…とか…“「仲間連中」の今を考える! 個人と「仲間連中」の関わり”…とか…、浄瑠璃ですか講談ですか? と質問したくなるよな近代到来もまた、あり得たのか。「Society」を「社会」としたことで、少なくとも自分たちを取り巻く世間への視界は、ぐっと開けた。とは、思える。(ぐっと開けた視界でもって、戦争にもつき進みましたが)

 

何しろ科学、哲学、政治、経済の用語は、ほぼすべて…「科学」「哲学」「政治」「経済」というワード言うに及ばず、…「医学」「衛生」「遺伝」「記録」「栄養」…「福祉」「資本」「政治」「法律」…「経験」「権利」「義務」「責任」「目的」…「主義」「意志」「階級」「文明」「進化」…まったくの造語から純漢語の意味変換まで幅広いので諸説あるものの、その数は数万語に及ぶそうでありますだす。

 

それまで自国になかった新奇な概念に、時の叡智を総動員し苦心努力のすえ命名し、この島の土壌へと数万も植えてくださいまして、まったくもってお世話様でございます。でもしかし。ちょっと待て。

 

「人権」この言葉の概念は果たして、ちゃんと根付いたんだろうか? 「平等」はどうだろう。「責任」は。「権利」と「義務」は。そしたら「国民」は。「民主主義」は。輪、倭、把、話、和。

 

一番気になるのは「自由」かもしれない。

 

「自由」という言葉の存在自体は平安時代まで遡ることが可能らしく、鎌倉時代の『徒然草』なんかにも“よろづ自由にして、大方、人に従うといふことなし”などと、シッカリご登場なさっています。意味は「勝手気まま」というよなイメージか。ふうん、勝手気まま。これって現代も「自由」という言葉に対して抱く印象と、さして変わらぬよな気がしやしまいか。課。蚊。過。

 

うへえ。

 

だって明治期この時、日本語訳に挑んだところの原語は「liberty」なのだ。Libertyって勝手気まま、我儘イッパイ、やりたいようにやっちまえ、ワハハ。なんてぇ意味なの?

 

libertyとは“獲得した自由”…制度として勝ち取る客観的な自由、の意。だそうだす。ニューヨークの「自由の女神」は”The Statue of Liberty”、アメリカ合衆国独立を祝ってフランスから贈られ、ああしてあすこに立っているわけだす。「liberty」に含まれる抑圧と闘争と解放のニュアンス、その政治性に少しは思いを馳せろと。「先に何がしかの抑圧なり制限があり、そこから己らの自由を己らでブン取る」…という、一連の流れとその意味合いとが、含まれているんではないのかい。
おまけに「自由」に相当する英語には「freedom」もある。「liberty」とは語源が違うものの、こちらの方は“根源的自由”…最初からそこにある主体的な自由、の意。だそうですね。それは生まれながらに誰しも所持している、そこにあって当たり前のものですよ、と。…ああ、これは。liberty以上にfreedomの方が、じつに難解な言葉だなあ。物心ついて以来、自由こそが信条で、多種類あるノートの中でも殊更に“自由帳”を愛するよな自分にも、理解体得が難しい。

 

(束縛や制限ありきで、それに盲目的に従うことこそが「和」であり、我慢は美徳、従属が基本姿勢、…である限り、「自由」はいくら時代が変わっても、未来永劫「勝手気まま」を脱しないだろう。「freedom」ですらないのだ。)

 

この辺り、福沢諭吉氏や、『On liberty』(ジョン・スチュアート・ミル/著)を翻訳した中村正直氏など、多いに訳語変換に苦悩した結果であるらしいので、せめてlibertyとfreedomを分けて訳してくれたら良かったのに…とは思うけど、とても彼らを責める筋ではございません。

 

それどころか明治期の和製漢語は当時の中国や韓国にも逆輸入され、近隣国の西洋理解において重要な役を担ったらしいです。中国における人文・科学分野の言葉たるや、7割近くが日本からの輸入で1000語くらいあり、数が多いというよりも使用頻度がえらく高く、和製漢語を使わずには何も語れないほどに、もはやそれらが外来語だったことも忘れるくらいに、現在もバリバリ現役…国名にまでご採用されちゃってる「人民」「共和国」も然りです。なんと、国名にまで。ワア。えっへん。

 

…とはいえ、かの時代は近隣国もご同様に激動期であったため、日本でうまいこと漢語にしてくれてるじゃん、訳し直すのも面倒だし使っちゃえ的な、早急手当ではあり、熟慮の末に取り入れた納得感では、どうもなさそうだ。新たな扉を開くものの、古来の文化やプライドの破壊をもいたす、諸刃の剣だよ。外来語。

 

ここで、そうだ、日本語には外来語に対して、カタカナという便利な武器があるじゃないか? いっそのこと和製漢語は拵えずに、すべてカタカナにするという道はあったのか? という疑念も浮かんでまいります。いやいや、和製漢語はひたすらに「表意」を目指し、そのため同音異義語だらけになった(「科学」と「化学」とか、はたまた「過程」と「仮定」と「課程」と「家庭」とか…)という負の面も看過しつつ、原語から意味を汲み漢字に込めることにこそ、存在意義があったのだ。翻訳どころかその先の造語にまで至っている=新しき文化を取り入れたいという気持ちの強さ、熱意ゆえなのでありましょう。

 

だって英製和語ならぬ、「harakiri」「karoshi」などなど、英語になった日本語たちのことを考えよ。あれは世界の誰も腹など切りたくないし、過労で死ぬまで働きたくなどない…という、忌避の表れなのではなかろうか。というかその前に、そんなことする“意味がわからない”のだ、クレイジーであり、理解不能であり、翻訳も不能。決して真似したくもない文化を東の涯てでもって続々とご発明なさって、どえらくご苦労様。

 

それにしてもです。

 

「自由の女神」は「勝手気ままな女神」のまま、100年もウカウカと経過してしまった感。決して西洋化がすなわち近代化ですとは思わぬまでも、さりとて足元見つめた確固たる立ち位置、独自の未来像もいっかな結べぬままの、島国だよなあ。

 

数ある和製漢語は意味が抜け落ちたスカスカの出汁ガラの如く、パサパサ、ふにゃふにゃ、ピロピロ、ふらふらと、宙に浮いていることよなあ。

 

お気の毒様。