突然ですが、あなたは、俳句というものに対して、「難しいもの」「古めかしいもの」というイメージをお持ちではないでしょうか。

今回は、いまを感じる俳句と題して、前回までとはすこしちがう俳句の一面をながめてみたいと思います。

俳句にかぎらず、いわゆる伝統芸能とよばれるものってどれも「難しそう」「古くさい」と思ってしまいがちですよね。

ひとつには伝統芸能のもつ特徴――もちろん、それは当初「おもしろさ」であったはずです――が、ながくひき継がれてきたために、現代のわれわれには、どことなく難しそうだし古くさいよな、と思えてしまうのでしょう。

俳句でいえば、五七五の17文字で表現をするということや、季語をいれるという特徴がありますね。

そうした特徴を受けついでゆこうとすれば、どうしても「ねばならない」という意識をもってしまいます。17文字でなければならない、季語を入れなければならない、と。それってなんだかとても窮屈ですよね。

それならば、そんな難しくて古くさい特徴などすててしまえばいい、と言われたらどうでしょうか。

実際、俳句の歴史の中でそうした考え方もうまれました。いわゆる無季・自由律俳句というものです。季語はいらない、文字数も関係なし!といったものです。

これなら、だれでも好きなように俳句を作ることができそうですね。でも、現代の俳句をみると、そうした考え方はかならずしも主流にはなっていません。その理由はいくつかあると思いますが、それは別の機会で触れたいと思います。要するに、自由とはあんがい不自由なものだ、ということでしょうか。

もっとも、既にある俳句の特徴を捨てずとも、俳句にあたらしい生命をふきこむことはできます。「いま」ある言葉や情景を読むのです。そうすれば、あたらしい響きをもった俳句になるはずです。

そのために、今回は、すこし趣向を変えてあたらしさ、すなわち「いま」を感じる俳句の世界にとび込んでみたいと思っています。もちろん連想の力は引きつづき使いますので、おわすれなく。

それでは、まいりましょう。

 

失ったものを 数えて 進級す

作者名がありませんが、第27回お~いお茶新俳句の優秀賞に選ばれた俳句で、中学生の作品です。

パッと見たかんじ、さえない俳句だと思われた方がいるのではないでしょうか。正直に白状すると、じつは私もそう感じました。

しかし、第一印象で決めつけてはいけないのは、人も俳句もいっしょです。私はすぐにその印象は大きなあやまりだ、と思いました。

季語は「進級」です。季節は、そう、春です。1年生から2年生、2年生から3年生へと進級します。3年生は卒業をしてそれぞれの進路へ進み、新1年生があらたに入学してくるわけですね。

すこし連想をすれば、枝ぶりのいい桜の木に花がほころんでいる、その奥に校舎があり、こどもたちの声まで聞こえてきそうではありませんか。

進級す、といっているわけですから、作者である中学生は2年生になったか、あるいは3年生になったかのいずれかで、そのどちらかを特定する必要はなさそうです。

どのように進級したのか、という説明として「進級す」の前に「失ったものを数えて」が添えられています。

この「失ったもの」というのを、作者の目線でとらえられるかどうかによって、この句の評価が変わってくるところです。

はじめに私はさえない俳句だと感じたことを書きました。それは大人目線で「失ったもの」を読んだからです。そんな上から目線でこどもの俳句を読むなど大変なあやまりだと気づきました。

こどもにはこどもの世界があります。

特に中学生という多感な時期にあって、進級というのはたしかに一大事でしょう。クラス替えがあって、仲のよかった親友やひそかに恋心をいだく異性の子と別のクラスになったかもしれません。或いは部活動の先輩が卒業をしてしまったのかもしれません。

すこし飛躍した連想ですが、春という季節だけに家族に異動があった、ということも考えられないではありません。お父さんが転勤になった、とか。もっといえば、飼い犬が死んでしまったとかそういう可能性もあると思います。

そうしたものを指折り「数えて」進級したというのです。春という季節特有のやや不安のあるなかを、いままさに生きているのです。

しかしけっして暗い俳句ではありません。それは春という陽光あふれる季節と桜の花とが、たしかな希望も添えてくれているからです。これが外国のように秋入学だったりすると、この句の心もちはまったく様変わりしてしまうでしょう。「進級す」と言い切っているところからも、作者のひるまず歩んでいこうとする意思が感じられます。

春という季節のもつ力を意識した、とても姿のいい俳句だといってよいと思います。同時に「進級」という言葉は、俳句に新しさをあたえてくれていると考えられます。

それでは、もう一度、句を眺めておきましょう。

 失ったものを 数えて 進級す

 

すれちがえば プールの香り 五時間目

第1句とおなじく、第27回お~いお茶新俳句の優秀賞に選ばれた俳句で、中学生の作品です。

季語は「プール」で季節は夏です。

夏の学校をイメージすることがまず必要になってくるわけですが、どうでしょう。今は空調を備えた学校が増えたとききます。私の学生のころは教室にエアコンなどついていませんでしたから、夏の日の午後の授業など暑さに頭がもうろうとしていた記憶があります。

この句も、どちらかといえば空調のない廊下などであってほしいのですが、もちろんそこまではわかりません。

「すれちがえばプールの香り」とありますので、先生か同級生かはっきりとはしていませんが、すれちがいざまにプールの香りがした、というそのままを詠んでいます。

おや、とおもった方がいるかもしれません。この句は五七五の定型がややくずれ六七五の俳句になっています。定型より文字数がおおいことを字余りといいますが、もちろん字余りだって俳句です。

この句についていえば、むりに定型にしようとすると「すれちがう」とか「すれちがい」になりそうですが、どちらも次の「プールの香り」へのつながりが悪くなります。

また「すれちがえば」としたことで、あるグループを指定しているようにも感じられます。例えば、隣のクラスのあの子も、この子も「すれ違えばプールの香り」がするよ、とそんなふうに読むことができると思います。

5時間目といえば、給食も食べ終わり、眠気と暑さでつらい時間を過ごしているのでしょう。そんなタイミングでのプールの香りはこれ以上ないほどの大きなインパクトがあるのでしょうね。さわやかな夏の季節のあたらしさを感じる俳句ができあがっています。

それでは、もう一度、句を眺めてみましょう。

すれちがえば プールの香り 五時間目

 

故郷の声 走らせて 涼新た(又吉直樹)

この句の作者は、ごぞんじお笑い芸人のピース又吉こと又吉直樹さんです。小説『火花』で第153回芥川賞を受賞された又吉さんの俳句の世界をのぞいてみることにしましょう。

この句の季語は「涼新た」で季節は秋をさします。新涼、ともいったりします。

まぎらわしいのですが「涼し」は夏の季語です。暑さの中に感じる涼しさをいいます。

これに対して、新涼とは秋になったあとの涼しさをいいます。もう夏の暑さは峠をこしていて、そこにはほんものの涼しさがあります。虫の音を背景に感じるその新涼は、やがて冬の寒さへと変わっていくものです。そうした予感をも含んでいるような季語ですね。

それはそうと「故郷の声走らせて」にどんな連想をすればよいでしょうか。

今回はちょっとタネあかしのようでもありますが、お題をヒントに考えたいと思います。この句のお題は「新幹線と夏休み」だったそうです。そう聞いただけで大まかな映像が浮かんではきませんか。

新幹線といえば、2011年の九州新幹線、2015年の北陸新幹線、2016年の北海道新幹線と全通や開業が話題となりましたね。

故郷の声を走らせるということは、新幹線を利用して夏休みに帰省するというような状況なわけですから、われわれはすぐにもいくつかの具体的な映像をひきだすことができます。

例えば。車内では、おそらく同じ地方へ帰る人のグループがいくつもできて、にぎやかになっているという場合がありますね。同じ言葉のグループが、停車駅ごとに少しずつ減っていく、でも自分の田舎はまだその先だ、というときの少し心細いような、懐かしいような不思議な感覚というものが浮かんできます。

または、新涼を感じる初秋の晴れわたった空のもと、田舎の子供らが開通したばかりの新幹線をみつけて土手のようなところを走っていく、という場面を連想してもよいでしょう。

大きい子はなにか声を発しながら走るでしょうし、小さい子はわけもわからずそれに従って走るでしょう。途中で転んでしまう子がいるかもしれない、そんなのどかな光景が浮かんできます。

あるいは、夏休みもおわり、また元の生活に戻っていく者を故郷の人間がホームで追いかける場面、というふうに連想してもいいかもしれません。走り出す電車としばらく並走しながら、また正月に帰って来いよ!みたいな声をかけることってありますよね。

いくつか考えられるのですが、どの場合も不思議と「涼新た」とぴったりハマっているようで、季語との一体感をつよく感じます。

もしこれが真冬や真夏で「寒さかな」「暑さかな」などとあったらどうでしょう。そもそも走る気がなえてしまいそうですよね。

春季であればよさそうですが、すこし意味合いがかわってきそうです。帰省するのは盆と正月というのが一般的と思われること、秋季である盆の一抹の寂しさをふくんでいるところにこの句の座りのよさを感じるのです。

故郷の声、というのは地元を離れた人間にとってはやり特別な力を持っていますよね。昨今の新幹線ブームもあって、新しさを感じる俳句になっていると思います。

俳句をはじめて間もない方が読んでも、おもわず新幹線に乗って帰省をしたくなってしまうのではないでしょうか。

それでは、もう一度、句を眺めてみましょう。

故郷の声 走らせて 涼新た(又吉直樹)

 

血脈の 讃美歌ひびく 霜夜かな(又吉直樹)

今回の最終句である第4句も、同じく又吉直樹さんの俳句です。

季語は「霜夜」で季節は冬です。よく晴れた冬の日の夜には地表が冷やされ、霜柱が立ったりしますね。

改めてみると、いきなり「血脈」などというむずかしい言葉が登場しますね。こういう言葉がすっと出てくるのはさすがに芥川賞作家だなぁと思います。恥ずかしながら、私は分かりませんでした。

辞書によると、「血脈」とは仏教用語で、「師から弟子へと仏教の精髄を受継ぐ関係」また「密教や禅宗で師から弟子に戒を授けるときにその保証として師があたえる血脈図の略称」なのだそうです。

ちょっと不思議な感じがしませんか。

そのような師弟関係がありながら、歌っているのは讃美歌なんです。まずもって、ここに何ともいえないあたらしさを感じます。

この師弟は、日ごろは仏の教えや戒律についてきびしく教え、教わっているという関係ということです。おそらく、この日も、昼間はしんと張り詰めた堂の板の間などでそのような「日常」がくりひろげられていたのではないでしょうか。

その同じ師弟が夜になって讃美歌をうたっている、というのです。

霜夜に讃美歌を歌うというのですから、連想されるのはクリスマスですね。クリスマス当日なのか、クリスマスが近いから練習をしているのか、そのあたりまでは分かりません。

「響く」という言葉をつかっているところからすると、練習を重ねてもうそれなりに完成の域にあるようにも感じられますし、あるいはすでに本番で巧拙はともかく歌が響いた、というようにも感じられます。いずれにしても句の大意にはそれほど関係ない部分でしょう。

讃美歌を歌う、このときばかりは師匠も弟子も、神の前に横一列になっている気がします。どちらかといえば、弟子が師匠をはげましてともに歌っているような雰囲気を感じますが、そのような非日常がこの句の主眼ではないかと考えられます。

底冷えの霜夜に響く讃美歌は、どこまでも、どこまでも夜の空気にしみ込んでいきそうですね。

それでは、もう一度、句を眺めてみましょう。

 血脈の 讃美歌ひびく 霜夜かな(又吉直樹)

 

 

いかがでしたでしょうか。

今回は、比較的あたらしい言葉やあたらしい情景が詠まれた俳句をご紹介しました。

古くさいだけが俳句ではありません。言葉や表現しようとする情景を新しいものにすることで、いますぐにでも「新しい俳句」への道を歩きだすことができるのです。

季語を含めた古い言葉は、当然これまで受け継がれてくる中で洗練されていますので、非常に深みがあるのも事実です。

しかし、新鮮な真あたらしい言葉をつかって俳句を作ることができるのは、いまを生きる我々だけです。

今回ご紹介した俳句からすこしでも新しさを感じていただけたら、そして古くさく難しいといった俳句のイメージがすこしでも変わってくれたら、と願っています。