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photo by Republic of Korea

 

※この記事は、特集「よくわからなくなるお金のはなし」の記事です。

 

私は日本の音大で「ゾッキー」と呼ばれるグループの一員であった。

念の為断っておくが、暴走族に所属していた訳ではない。

音楽大学付属高校生の略である。

私は中学校を卒業した後、音楽大学の付属高校へ進学を決めた。

それだけ早い時期から自分の進むべき道を知り、志高く修行に励みたかったのかというと、実はそんな尊いものではない。

自分の師匠がその高校で教えていたので、なんとなーく付いて行ってしまった残念なパターンだ。

「太陽と月、どちらが大きいでしょう。」という質問の回答にクラスが真っ二つに分かれて争ったり、「鉄砲が最初に伝来した島はどこでしょう。答え: ○○島」の○○の部分に、多くの生徒が「鹿児」の字を書きこむような凶悪事件が度々起こる学校で、「ヤバいところにきてしまった」と冷や汗を流したこともあったが、音楽的な面では実に豊かな教育を受けさせてもらった。

特に、このころ培った「聴音」というテクニックは、今でも一発芸として重宝している。聴音とは、いわゆる耳コピというやつで、聞こえてきた音を瞬時に楽譜におこすテクニックである。付属高校時代に受けた聴音の教育は、今考えても実に高度なものだった。クラスの中には、ランダムに選ばれた10個の音をピアノでジャーンと鳴らしたものを、あっという間に楽譜に書き写すことのできる生徒がたくさんいた。

ちなみに、こういうことができる人はヨーロッパの学生には皆無である。日本人とヨーロッパ人ではできることが違うのである。

ウィーンの音大で、聴音の時間、面白半分にこのテクニックを披露したところ、他の生徒は私をまるでゾンビでも見るような目つきで見つめながら後ずさり、大声で先生を呼びに行ってしまった。

 

ゾッキー達、未来を憂慮する。

音楽大学付属高校という中で、ちょっぴり特殊な高校生活を送った私たちの中には、もちろん国際コンクールに優勝して、世界のトップソリストになりたい、という崇高な目的をもって通う生徒たちがいた。しかし、中には自分の道を決めかねていたり、音楽の道に進むという、自分の選択にすでに疑問を持ち出す者もいた。

「ねえねえ、○月×日なんだけど、空いてる?私の先生がコンサートするんだけどね、私から買ってくれたら3千円のチケットが2千円に割引になるんだけど、どうかなあ。」

こういう類のコンサートのお誘いが、度々あった。

どうやら師匠のコンサートのチケットを、5枚なり10枚なり、ノルマで買い取らなければならない生徒がいるようだった。割引分は、間違いなく自腹だ。

子供ながらに、私には不思議だった。人気バンドの東京ドームのコンサートのチケットは、一瞬でソールドアウトになるのに、なぜクラシックのコンサートは、生徒が泣きそうな顔をしながら自腹を切って売らなくてはならないのだろう。しかも、東京ドームの座席数は5万5千席で、室内楽用コンサートホールの小ホールは500席ほどなのにも関わらずである。

もしやクラシック音楽って、需要がないんじゃ。。。

嫌な予感がよぎってしまうのも無理はない。

 

クラシック産業はビジネスとして回るのか

 

もちろん、全く売れないポップスのコンサートもあれば、即日完売のクラシックコンサートだってある。そんなことはわかってる。

それにしても、だ。

日本のクラシック音楽ファンの割合は、一体どれくらいいるのだろう。

CDの邦・洋盤を合わせた総新譜数を占めるクラシック音楽の割合は約10パーセント程度。余暇にクラシックのコンサートを訪れる日本人の割合を見てみると、たったの5,7パーセントだ(総務省の社会生活基本調査2012年度より)。

うん、知ってた。。。

テレビがあり、インターネットがあり、映画があり、遊園地があり、、、今日、世界にはエンターテイメントが溢れている。

そんな中、定期的にクラシック音楽のコンサートを訪れてみようという人がそう多くないことは、仕方のないことなのかもしれない。

クラシック音楽は難しい、退屈、敷居が高いというイメージがある。また、チケット代も安いものではないことが多いので、行きたくても行けない人がいる。そんな人はインターネットで動画を検索さえすれば、世界中の好きなクラシックのコンサートを無料で視聴することができてしまう。

 

日本においてクラシックの生演奏は、もう需要がないのだろうか?

それがそうでもなさそうなのである。

日本オーケストラ連盟に加盟している在京オーケストラの数は10団体もある。1つの都市の中に10のプロオーケストラある場所なんて、世界中どこを探したって見つからない。ウィーンにも、ベルリンにもない。

そして、一晩に行われる演奏会の数も、東京は世界にずば抜けて多い。

それなのに。

定期的にクラシック音楽を訪れるような習慣のある人は少ないのである。

この矛盾はなんだろう。

私はマネージメントを勉強したことが一切ないし、しかもゾッキーなので、これからお話しすることは、私の単なる考察である。もしも、違うよ!とか、こんな考えもあるよ!という人がいたら、是非ご連絡頂ければ幸いである。

 

 

オーケストラの収益について考えてみる

 

私はオーケストラ弾きなので、とりあえずオーケストラについて考えてみよう。

オーケストラを維持するには莫大なお金がかかるのではないか?

大きなオーケストラなら100人を超える団員への給与がかかる。指揮者、ソリストにも莫大な金額のギャランティーが発生する。事務所のマネージャーさんにも、楽譜を管理するライブラリアンさんにも、裏方で舞台を組み立てたり、コンサートの進行を円滑にするために動いてくださっている人にも給与は発生するし、専用のホールを持っていないオーケストラならば、練習にも本番にも、ホール代がかかる。サントリーホールなら、一晩で120万円する。コンサートの為のチラシの印刷、宣伝、楽器の購入、搬送、ピアノの調律、楽譜の購入、エキストラの出演料 etc..

挙げだしたらキリがない。

練習日数を最低限に収めて、数か月同じプログラム、連日東京ドームで5万5千席を満席にして公演を行うのならば、もしかして元が取れるのかもしれないが、実際オーケストラが演奏会を行うホールのキャパシティーはせいぜい2千席程度だ。しかも、それがいつでも満席になる保証はない。満席にしようと思ったら、話題性のあるコンサートにしなければならない。超有名なソリストを呼べば、席は満席になるかもしれないが、ソリストのギャランティーも跳ね上がる。

どう考えてもこんな状況の中、演奏収入で収益を出そうとするのは困難である。自主公演とよばれる、オーケストラ主催の定期公演などの演奏会は、ほとんど赤字公演になのだと思う。

それに対して、コンサートの成否に関わらず確実に収益をあげられるコンサートという物もある。依頼公演といって、他の主催者に、オーケストラ自体を買ってもらうコンサートである。伴奏のためにソリストや合唱団に買われることもあるし、音楽鑑賞教室と呼ばれる、小、中、高校生を対象にした短いプログラムの演奏会のことで、このタイプの演奏会は、確実に黒字を出すことができる。

この依頼公演をどれだけ取ってこれるかは、事務所のマネージャーの力量にかかっているのだが、そうそうたくさん取れるものではない。

総合的に考えて、オーケストラというものは、どうしても収入よりは支出の多くなってしまう団体だと言っていいだろう。

 

では、どうしてそれでもオーケストラが成り立っているのか。

オーケストラは、企業や個人、地方自治体から、寄付金・補助金を受けている。プロオーケストラのほとんどが、この寄付金・補助金に頼っているのが現状だ。

しかし、日本を含め、世界的に厳しい経済状況が続く今日、企業や個人からの寄付金停止、地方自治体からの補助金カット、廃止といった動きも起きている。

クラシックの本場、ドイツでさえそうである。私は1年間ドイツで研修していたことがあったのだが、そのたった1年の間にも、たくさんのオーケストラが合併、消滅したのを目の前で見てきた。

日本でも、ここ10年ほどで、楽団員の給与が終身雇用制度から能力評価による年俸制に切り替わった楽団、補助金を全廃されて、公益財団法人化した楽団などがあり、オーケストラを取り巻く環境は目まぐるしく変わってきている。

赤字だから、クラシックは日本の文化ではないから、とバッサリと補助を切られていく様子を見るのはとても悲しい。

 

確かにクラシックに興味のない人にとっては、自分の税金がオーケストラに使われることに憤りを感じるのは当然かもしれない。

育った文化が利益としてペイするのは、何百年後ということが多いのだ。ウィーンだって未だにモーツァルトに食べさせてもらっている。日本の観光都市も、昔の人たちが育んだ文化に、今もなお観光客が引き寄せられ続けているという場所も多いだろう。

今現在を見るだけでは、オーケストラはきっとビジネスとしては成り立っていないかもしれない。

でも、それだけを見て切り捨ててしまうことは、長い目で見て得られるはずだった何かの可能性も、切り捨ててしまっているような気がしてならない。