4月、とあるライブハウスの前。私は開演を待つ列に並んでいた。周囲は20代くらいの若い人が中心で、一人で来ている人が多いようだった。見回してみても、私と同世代の人は見つからない。そりゃそうだろうな、と思う。私の年齢になると、オールスタンディングのライブは辛いのだ。長時間立っているだけで大変なのに、ライブが盛り上がればもみくちゃだ。同世代の友人たちは、ちゃんと座席が用意された「コンサート」にしかもう行かないと言う。できれば私だってそうしたい。でも私は「彼」がどんなライブをするのか見届けたかった。「彼」が何を言わんとしているのかを理解するために。

 

「彼」には名前がない。(一部では便宜上「平凡さん」と呼ばれているが、間の抜けた響きなのでこのまま「彼」で通すことにする。)「彼」はドレスコーズのアルバム『平凡』のコンセプト上に創られたキャラクターだ。デヴィッド・ボウイがジギー・スターダストを生み出したように、ドレスコーズ志磨遼平の創り出した架空のシンガーである。

『平凡』は、均質であることが良しとされ、個性的であることが弾圧の対象となる世界の大衆音楽、というコンセプトのアルバムだ。こう書いてしまうと、なんだか安いSF小説のように聞こえるが、単純にそういう設定で遊んでみました、というものではなかった。

わかりにくいアルバムだと思った。音がわかりにくいわけではない。1曲目の『common式』から、ZAZENBOYS吉田一郎のベース、Skillkillsビートさとしのドラムス、さらに在日ファンクホーンズに支えられた、一糸乱れぬファンクが鳴らされ、脊髄反射で踊らされる。かと思えば、『towaie』、『静物』のようなメロウな曲、映画『GANTZ:O』の主題歌だった『人間ビデオ』も収められて、理屈を抜きにしてただ楽しむこともできる。なのに、アルバムがリリースされて数か月、私は『平凡』のコンセプトについてまだ考え続けている。

これは志磨遼平による20世紀の総括だ。そこにはある「問い」が、いくつかのレイヤーとなって重なっていて、私には簡単にわかったことにできなかった。だから、「彼」の生身のパフォーマンスを見れば、少しは答えが見つかるかもしれないと思ったのだ。

 

『平凡』は、資本主義が限界を迎え、限りある資産をシェアすることで存続する社会を想定している。シェアされる資産は、万人向けでなければならないし、それに効率よく適応するためには個人は特異性を持ってはならない。だからここでは個性が罪なのだ。(誤解のないように言っておくが、これはあくまでコンセプトである。どこか特定の社会民主主義国家を当てはめているわけではないし、何かを礼賛するものでもない。)

資本主義社会での「個性」は、何を消費するかで決められてきた。資本主義は成長し続けることが原則だ。だから少しでも安く作り、できるだけ多く売ろうとする。だが世界の中で安い労働力を見つけることはもう難しい。そして私たちは既に使いきれないほどのモノを持っている。経済はほとんど成長の余地がないのだ。近い将来、資本主義の限界が訪れるだろう。今はその事実を後ろ手に隠して、それほど必要のないものを売りつけたり、使えるものをわざわざ壊して新しい何かを作ったりして、まやかしの「成長」を偽装しているのだ。

それは音楽においても同じだ。次から次へと、少し違うだけのバンドが出てくる。オールドファン向けには、古いバンドのバージョン違いのライブやデジタル・リマスターの音源が発売されて、購買をあおる。アイドルなら握手券やチェキ券になるのだろう。

いやいや買わされるわけではない。私たちは自由意志で購買行動をとるのだ。新しいもの、珍しいもの、要は人と違うものをたくさん持っていることが素敵の条件だと、ずっと教えられてきたのだから。Instagramはそんな「私は素敵」で溢れかえっている。ところが、私たちは他にもたくさんの「素敵」を抱えている。だから、どんなものもさっさと既存のテンプレートに押し込んで「ハイ、これは〇〇系」と分類し、頭の中にアーカイブする。そうしないと新しいものを詰め込む余地がないのだ。

 

それでも、そのテンプレを自分で用意するならまだいい。下手をすると、あらかじめテンプレがセットされた状態で皿に乗せられてくる。曰く「フェスシーンで頭角をあらわした○○」とか、「次世代のシティポップ○○」とか。本当に次世代の音楽かどうかなんてどうでもいい。新しく見えさえすればいいのだ。そうやって少し違うだけのモノが、消化しやすい形で次々に生み出される。「断捨離」や、「ミニマリスト」「ノームコア」が注目されだしたのは、そんなごまかしに気づき始めた人が増えているということなのかもしれない。

 

“いい加減に終われ わたし・オン・パレード

きらめくイタさと小鳥と鈴と”

――『エゴサーチ&デストロイ』

 

ところで、このアルバムのツアーは『meme tour』と題されていた。meme(ミーム)とはイギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスが著書『利己的な遺伝子』の中で提案した、人類の文化的遺伝情報を指す言葉である。生物学的情報が遺伝子gene(ジーン)によって継承されるように、文化的情報、習慣や技能といったものが、会話や教育やメディアなどによって伝播し、模倣されて、継承されることをミームと呼ぶ。ミームは文化的進化の担い手であり、遺伝子と同様に変異し、また環境に適応できないものは淘汰される。

『平凡』のテーマで「個性」の扱いと同様に重要なのが「失われる文化」である。「流行は繰り返す」と言うが、いくら繰り返すと言っても、「おしゃれ女子にオススメ!この秋は平安時代ファッションがトレンド!」とか「ナチュラル志向ファミリーに提案する次世代の竪穴式住居!」とかにはならない。ここより以前には戻ることがない、という特異点が存在するのだ。最近、AI時代が来たらどの職業が淘汰されるかという議論をよく見かけるようになったが、科学技術は強力なミームであり、かつ劇的な変異で社会構造すらも変えてしまう。そうなった時、周辺の文化はそれに伴って変異するか、淘汰されるかのどちらかだ。

喫煙の習慣を例にとってみる。30年ほど前までは、喫煙は「かっこいい大人」のメタファーだった。それが、喫煙は有害であるというカウンターミームの伝播によって、「かっこいい」から「かっこ悪い」に変異した。そう遠くない将来淘汰されてしまうはずである。

「ロックンロールは死んだ」なんて、もう何十年も前から言われている。「反体制・反権力」の音楽だったはずのロックは、商業的になり過ぎたとか、もう革新的じゃないとか。だがそれは、「反体制」が「かっこいい」という前提のもとに成り立ってきたのであって、例えば「反体制」自体が「かっこ悪い」ものになったら、どんなロックンロールもただのかっこ悪い音楽になる。

 

誰もが薄々と感じている、来るべき社会の転換点において、これまで私たちが愛してきた文化は、その根本の意味すら失ってしまうかもしれない。『平凡』で歌われるのはそういうことだ。これまで志磨遼平は、長髪、長身痩躯の華麗なロックスターで、音楽ばかりか文学、美術、マンガにいたるまで、様々なアートを貪るサブカル・モンスターとしても知られていた。いわば、それら芸術文化のミームを継承する存在だった。その彼が、長かった髪を切って、何が「かっこいい」のかについてのパラダイムシフトが起こると言っている。そして「ムダだらけ」で「愛らしい時代」20世紀に、彼らしい優しい言葉で別れを告げるのだ。

 

“叶うならまだ どうかこのまま

そう願っても 遅かった

ありがと とても好きでした

さよなら デザイア”

――『アートVSデザイン』

 

『平凡』は、ガチガチに固められたコンセプトの向こうに、「これからぼくらどうなっていくのかな」という「問い」が沈められている。「もうすぐ嵐がくるよ」と。その答えが見つからないまま、私は『meme tour』に足を運んだ。映画『独裁者』の床屋のスピーチが流れた後登場した「彼」は、バグったように動きながら歌う。そこはさながら秘密集会のようで、MCもなく、観客は沸いていたがこれまでのライブのように曲の間に彼の名前を叫ぶ人もいなかった。なぜなら「彼」は志磨遼平ではないから。

アンコールの最後、『20世紀(さよならフリーダム)』で、「彼」と若い観客たち(その中には私の娘もいたのだが)を、私は少しさびしい思いで眺めていた。彼らがこの先どんな答えを出すにせよ、それは私とはまったく違うものになるはずだ。「愛らしい」20世紀を生き、人生の折り返し点も過ぎた私は、淘汰されるミームの記憶である。残る人生での私の使命はそれを覚えていくことであり、彼らに幸多かれと願うことなのだなと、そう思ったのだ。

 

“別れのときだ

ぼくらはきみを 見捨ててく

すべての夢を

かたちにのこす だれかにたくす”

――『20世紀(さよならフリーダム)』

 

私はこれまでのドレスコーズが、志磨遼平という人が、好きだった。たぶんこれからもそうだと思う。でも『平凡』の後、彼はどこへ向かうのか。きっとどんどん先へ行ってしまう。私は捨てられない20世紀の遺産を背負いすぎている。私は彼と、彼が引き連れていく若いオーディエンス達の背中を遠くから重い足で追うのだ。