今年の復活祭の休暇の一日、郊外にある夫の伯父のセカンドハウスで過ごした。

セカンドハウスなどというとどれだけセレブな伯父さんかと思うかもしれないが、イタリアのある程度の世代は特別お金持ちではなくても、余暇用の小さくささやかなセカンドハウスを持っている人が多い。伯父さんはここで家庭菜園を楽しんでいる。というより、ほぼ自給自足の生活を営んでいる。

セカンドハウスの庭にはあらゆる野菜が並んでいる。今年はイチゴの苗も増えていた。びわの木、レモンの木、ブルーベリーの木、オレンジの木、ベルガモットの木などが植えられている。鶏小屋があり、養蜂箱がある。物置には、伯父さんが作った赤ワインと白ワイン、そしてむせこむほどに酸味の強いお酢もある。

伯父さんは、親戚一同が集まるクリスマスや復活祭に、家族に料理を食べさせるのと生き甲斐にしているような人である。逆にいうと、「もうお腹いっぱいでいただけません」などと言うと、とたんに機嫌が悪くなる。

この伯父さんに連れ添う伯母さんも、強者である。イタリアンマンマの典型で、彼女もたいそう肥満している。それなのに、椅子に座っているところなど見たことがない。常に料理をしているのだ。今年の復活祭、彼女が用意したのはアスパラのラザニア、トマトと挽肉のラザニア、羊肉とジャガイモのオーブン焼き、羊肉のフライ、アーティチョークのフライ、野菜サラダ、ケーキ、ジャムタルト、イチゴなどなど。これを、大人14人分、子供10人分用意したのだ!食材を切ったりするところからはじまり、料理の段取りを考えるだけで私などは頭が痛くなる。狭いキッチンでできることは限られるので、庭には屋外用オーブンが二基あり、どれもフル稼働であった。伯母さんが作る料理を、自分の母親のそれと比べてくさすのも伯父さんのいつものクセだ。とはいえ、伯母さんの料理をこれでもかというほど食べるのだから、口だけの話だ。実際、伯母さんのラザニアは絶品であった。肥満型の伯母さんは、一度心臓発作で倒れている。しかしそのときも、「あんな風に苦しまずにあの世に行くのも悪くないと思ったわ」と泰然としたものだ。伯父さんと伯母さんのあいだには、娘ばかり4人おり、その娘たちが結婚離婚を繰り返して、9人の孫がいる。普段は、生活のために働く娘たちに代わり、昼間は孫たちと犬の面倒まで見ている。

 

伯父さんは、家族がご飯を食べないと機嫌が悪くなる人である。が、今年の彼の怒りの矛先は小食の私ではなく ( 最近は小食とも言えなくなってきた ) 、子供たちに向かうことになった。2才から8才までの子供たちが10人も集まれば、当然おとなしく座って食事などしていない。食いしん坊の我が娘だけは、ラザニアも肉のフライも野菜サラダもしっかり完食していたが、食べ終わればほかの子供たちと一緒に広い庭で走り回り滑り台を倒しケンカをする。伯父さんは、この辺りまでは我慢していた。

伯父さんが激怒したのは、伯父さんの姑であるおばあちゃんが、ひ孫たちに卵形のチョコレートを配り始めたときだった。中におまけが入っているチョコレートを、子供たちは競うようにひいおばあちゃんからもらい、おのおのひいおばあちゃんの頬にキスをする。なにやら、ほのぼのとした光景であったのだが、伯父さんは激怒した。

「そんなうまくもないチョコレートを食べるくらいなら、なんでラザニアを食べない!なんで、肉を食べない!!」

これに対して、伯母さんも4人の娘たちも抗弁する。

「たまに家族が集まったときくらい、好きに遊ばせたらいいじゃないの。この石頭!」

 

というわけで、まるで50年代のイタリアの映画を見ているような錯覚に陥った午後であった。まるでフェリーニの映画みたい、とつぶやいた私に、夫は「いや、フェリーニだってここまでの想像力はなかっただろう」と笑ったくらい、それはそれはすさまじいケンカであったのだ。

 

イタリアはユーロの導入後、圧倒的に共働きが多くなった。物価と収入のバランスが悪くなったからだろう。

いかにそのリラの時代であったとはいえ、伯父さんは奥さんとその母親、娘4人を飢えさせずに一人で養ってきたのだ。父親の愛に恵まれなかった我が夫は、「あれこそ男の中の男だ」と伯父さんをたいそう慕っていて、養蜂の仕方やワインの醸造法をしじゅう尋ねる。家の中は子供たちに荒らされて惨憺たる有様だったが、伯父さんの宝物の庭は整然と掃除が行き届き、ここで子供たちがボール遊びなど始めようものなら雷が落ちる。その庭には、今はライラックやアヤメが花を咲かせていて、無骨な手で花を引寄せて伯父さんは「いい匂いだろう」と花の匂いをかがせてくれた。

私の父はまったく違うタイプの男性であったけれど、家族のために働き、家族に惜しみなく与えるという点はまったく同じであった。分蜂を眺める伯父さんの背中を見つめながら、亡き父を切なく恋しく思い出していた。

 

そういえば少し前、少しばかり風変わりなイタリアの農夫たちが新聞で話題になっていた。

 

一人は、北イタリアはアルバの農夫ヴァルテル・イスナルディという41才の農夫だ。話題になったのは彼のマーケティング方法である。自分の農園で生産されるクルミの実を封筒に入れて、手書きで手紙を書き、無作為にイタリア中の人々に送ったのだ。その数、なんと1万2千通!手紙にはこうある。

「いきなり丁寧語も使わない手紙を書いて、許してほしい。僕は、無知な一農夫なのです。同封したクルミは、小さくて固めだけど、昔ながらのクルミだから味わってみてほしい。10粒ほど送らせてもらうよ。秋になれば、ニンニクや栗も僕たちの農園で収穫できる。購入して食べて後悔することはないと思う。最後に、突然こんな手紙を書いてお邪魔をしてごめんなさい」

ピエモンテ方言が混じったこのような手紙が1万2千通、それも手書きであるため文章や内容は少しずつ異なるのだが、その手紙と総量1トンのクルミがミラノやローマ、イタリアの各都市に送られたのである。これは少しずつ話題になり、新聞にも大きく取り上げられるようになった。新聞記事を読んだ我々は、送り主の農園主があまりに若くてびっくりした。インターネットも携帯も持たない老人ならばともかく、41才の企業主が手書きの広告を展開したのだ。本人は「スロー広告」と呼んでいる。

12才と13才の息子の父でもあるヴァルテルは、世捨て人ではない。家にはインターネットもあるし、彼自身フェイスブックを初めとするソーシャルのアカウントもある。それなのになぜ、わざわざ手書きの手紙を書き続けるのか。

「僕は商談を行うときも、メールのやりとりではなく、相手の顔を見てするのが好きなんだ。だから手紙も、フェイスブックやメール経由ではなく、物理的に家に届くという方法が好きなだけなんだ」

と彼は語っている。

しかも驚いたことに、彼が送った1万2千通の手紙に対して、300通の返事が届いているのだそうだ。1万2千通に対して300通は決して多い数ではない。しかし、まだ人の心は生きていると実感できる事象ではある。見知らぬ人から手紙が届き、あまつさえ中に食品などが入っていたら、まず疑ってかかるご時世である。しかし、社名の入った名刺と北イタリアの方言丸出しの手書きの手紙と小粒のクルミ数粒は、一部の人の心には間違いなく届いたのだ。返事の多くは、「クルミは本当においしかった」という満足を伝えるものであったそうだ。

「無知であること」を武器に、みごとな戦略を成功させたヴァルテル氏である。

 

もう一人、話題になった農夫はリッカルド・ベルターニという86才の老人である。

エミーリア・ロマーニャの片田舎に住む彼は、小学校しか修了していない。にもかかわらず、独学で100の言語をモノにしたのである。

カプラーラという小さな集落にあるリッカルド老人の家の扉には、「リッカルド・ベルターニ文庫」と誇らしげに書かれている。この小さな家の一室で、リッカルド老人は書籍と日記に囲まれて70年を過ごしてきたのだそうだ。習得した言語は100,著述した本の数は1000冊にも及ぶ。

「農夫の言語学者」と呼ばれるリッカルド・ベルターニは1930年生まれ。父親は共産主義者で、家業は農家。小学校では数学が大嫌いで、卒業してすぐに家族と一緒に畑仕事を始めたというリッカルドはしかし、その状況に満足ができなかったという。

「私は善良な農夫にはなれませんでした。耕さなくてはいけない畑や、面倒を見なくてはいけない家畜のことなど頭にはなく、頭の中は本のことで占められていました」。

父親が共産主義者であった関係で、リッカルド・ベルターニが読み始めたのはトルストイであったという。まずイタリア語訳のトルストイを読み、次にロシア語辞典を購入した。ロシア語をどうしても習得したくなったからだ。

「18才の私は、トルストイの作品をロシア語で読むことしか考えていませんでした。ロシアやウクライナにあこがれていたのです」。

 

昼間は農業にいそしまなくてはならないリッカルドは、夜中の2時に起床し夜明けまで勉学にいそしむ。夜明けまでの時間が、彼の頭脳が最も冴えるときであり、今でもこの時間を最も愛している。

市立図書館と書籍のある友人の家を行き来し、リッカルドはどっぷりと言語の世界に浸かっていったのだそうだ。ロシア、シベリア、モンゴル、と興味のある国は少しずつ移動したが、日記に毎日記す単語は増えていく一方であった。それはやがて、民俗学への興味につながる。フランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースと文通し、ドイツの神話について研究をともにしたこともある。

70年にわたる彼の「独学」を支えた書籍は、すでに「図書館」の様相を呈していて貴重なものも多い。スラブ語、エトルリア語、バスク語、エスキモー語、タゲスタン語などをはじめ、すでに消えゆく言語まで取得したというのに、リッカルド・ベルターニは英語とドイツ語は話せないのだそうだ。そしてイタリア国外に出たこともない。

「私はロシアやモンゴルやシベリアの小説を言語で読み、自分の心の中にかの国々を作り上げてきました。実際に目で見て、絶望するのが怖いのです」。

小学校を卒業したあと、「あらゆることに反逆する」と決心したリッカルドは、今も宗教も哲学も信じていない。本を読み書くことができる限り、それは続ける。あとは人々に思い出されるのも好まないという。これは、小説家で記号学者であったウンベルト・エーコと同じ言葉である。彼も、死後に自分の名を冠した学会は開催してくれるなという遺言を残した。

「私のことなど思い出してもらいたくはない。ベッドの上で、机に座って、私が読んだ書籍をあるいは書いた書籍を人々に読んでもらえることが私の望みです」。

 

そういえば、ノーベル文学賞受賞者のダーリオ・フォーの祖父も農夫であった。昨年、90才の天命を全うして亡くなったフォーは、世界の演劇を変えたといわれる文学者である。

その著作『私の生涯の最初の7年 ( Il paese dei Mezaràt: i miei primi sette anni ) 』の中で、母方の祖父ジュゼッペ・ロータ、通称ブリスティンが住んでいたサルティラーナ・ロメッリーナでのバカンスの思い出を語っている。ダーリオ・フォーの人格を形成したこの時期に、祖父が彼に語り続けた物語は陽気だが奥の深いものであったらしい。『私の生涯の最初の7年』は、映画監督のフランシス・コッポラも心から愛した書籍で、「私にとっては、春の息吹を感じるような作品でした。おとぎ話のようなお爺さんブリスティンは、農夫であり教師なのです」と温かな評を寄せている。

ベターニ氏の知性は本人だけのものであったが、ブリスティン老人が語ったおとぎ話は、次世代に「ダーリオ・フォー」という知性を世に送り出したのである。ブリスティン老人は、幸せな人であったと私ならば思う。

 

イタリアでは「農夫=無知」という言葉が、言わずもがなで結びついている。しかし、たくましくしたたかな農夫たちは、そうした揶揄さえも武器に生きているようにしか私には見えない。

我が伯父さんの口からは、トスカーナの血を感じさせる歯に衣着せぬ雑言が、ローマ弁で飛び出してくる。甥の嫁が日本人なのか中国人なのか今でもわかっていないし、結婚して10年も経つのにいまだに私の名前の呼び方が毎回変わる。しかし、伯父さんが私のことを家族の一人として大事にしたいという想いを、私はなにかにつけ感じるのだ。伯父さんの大家族の中に入ってしまうと私の声はあまりに小さくて伯父さんにはよく聞こえていないし、伯父さんのきついローマ弁のイタリア語は私には理解不能でコミュニケーションさえままならないことも多いのだが、伯父さんの家族愛はしっかり感じることができる。

ダーリオ・フォーのお爺さんのような物語はその口は語らないけれど、伯父さんの言葉は家族を第一に思う人のそれであり、そのしつこさが家族にケンカを起こさせる原因にもなるのだろう。

 

伯母さんの手料理をたらふく食べた復活祭の休日の終わり、伯父さんはいつものように私たちに山のようなおみやげを持たせてくれた。採れたてのソラマメ、伯父さんがつくった赤と白のワイン、鶏小屋から取ってきた卵。

語彙が多くない伯父さんの別れの言葉は、いつも決まってこれである。

「俺はまったく無知な男だ。でも、お前たちが来てくれるのは本当に嬉しい」

歯が抜けた口をほころばせた伯父さんの笑顔に見送られて、私たちは家路についた。

 

参照元

http://torino.repubblica.it/cronaca/2017/04/14/news/alba_ecco_come_sono_diventato_famoso_con_la_mia_pubblicita_slow_-162974768/

http://www.repubblica.it/cronaca/2017/02/08/news/contadino_riccardo_bertani_poliglotta-157847882/

http://laprovinciapavese.gelocal.it/tempo-libero/2016/10/18/news/il-nonno-di-fo-insegnante-contadino-1.14272926

https://www.amazon.it/paese-mezar%C3%A0t-primi-sette-qualcuno/dp/8807016265

http://www.repubblica.it/cronaca/2017/05/08/news/i_ragazzi_del_muretto_a_secco_quei_sassi_sono_opere_d_arte_-164892519/