私は、女子校育ちで男性とはまったく友人づきあいができない。

青春時代をまったく異性と触れずに過ごした私は、同僚として男性と食事に行き世間話をするくらいが関の山で、友情を築くほどの話題も見つけられないのだからだらしがない。

イタリアに来てある時期、なぜか私には芋づる式に同性愛者の友人が増えた。女性も男性もそれぞれ同性愛者なのだが、恋愛関係は同性同士、友情は異性も含めて、というのが普通らしく、性の垣根など取っ払ったつきあいは私には非常に心地よかった。今考えても、あのときに築いた友情はとても尊いものであったと思う。

当時できた友人、ダニエルも同性愛者の一人であったが、つきあいのはじまりはちょっと変わっていた。

 

夫の大学時代の友人に、フランチェスコという男性がいた。

背が低く分厚い眼鏡をかけ、20代半ばだというのにひどく老けてみえた。後から知ったのだけど、フランチェスコはひどい吃音があり、よけいに引っ込み思案の性格になってしまったらしい。

家族についての話も聞いたことがなく、ひどく孤独な人、というのが私の印象であった。

私の夫は誰とでも仲良くなるという特技があり、またひどく友人とのつきあいがマメだったこともあって、フランチェスコの家に食事に招かれることもよくあった。内気な人の常で、一度友情を築くとそれが厚いものになるのはフランチェスコも同じであったからだ。

そのフランチェスコが、同性愛者だと知ったのはだいぶ経ってからだ。

「フランチェスコにもようやく彼氏ができたよ」

と夫に報告され、「え?」とは思ったものの、同性愛であることをそれほど隠匿しないイタリアでは珍しい話ではない。

驚いたのは、その相手だった。

ダニエル、というその彼氏はアメリカ人で、フランチェスコとは30才近く年上であった。

イタリアに来て不動産業で財を成し、コロッセオの近くに瀟洒なマンションを買って住んでいるのだという。

さらに呆れたことに、夫はその二人を「我が家に招待した」というではないか。

コロッセオが見えるマンションに住むアメリカ人が、果たしてこの貧乏な家庭に本当に来るのかしらん、と私は半信半疑であった。子供がいなかった当時は、我が家は本当に友人の出入りが多かった。そのたびに、私は餃子や唐揚げやポテトサラダや生春巻きを作ってもてなした。熱くなって盛り上がるとまったく入っていけないイタリア人同士の話題から逃れるために、台所にいたほうが気が楽、というのも理由のひとつではあったのだけれど。

 

イタリアにあこがれてやって来るアメリカ人は非常に多く、イタリア語を完璧にマスターするアメリカ人もこれまた多い。それなのになぜか、ひどいアメリカなまりは少しも直らない、というのが常で、ダニエルも聞けばすぐにアメリカ人とわかるイタリア語を話す人であった。

フランチェスコとは正反対の巨体で、太い眉にぎょろっとした目をしたダニエルは、最初はあまり話もしないので、こちらは値踏みでもされているのかとびくびくしていたものだ。逆に、普段は無口なフランチェスコが、彼氏とともに招待されたことに大興奮をしていて、ひどく饒舌なのとは対照的であった。

ダニエルの舌がほぐれたのは、ホットプレートで焼いた餃子を食べ始めたときである。

お世辞にも料理は得意とはいえない私だけれど、自家製の餃子だけは母に子供のころから仕込まれて、イタリアに嫁入りするときにも海外で使えるホットプレートを持たせてくれたのだった。

料理の話から盛り上がり、話題があちらこちらに飛び、なにかのきっかけで「私は歴史や美術が好き」、といったとたんにダニエルの顔つきが変わった。

一度君とローマを歩きたい、と言いだしたのだ。

夫以外の男性とローマの街を歩く、そのシチュエーションを考えただけで私は「ご遠慮いたします」と言いたかったのだけど、当の夫が「来週の水曜日はローマはストライキで、いつもより早い時間に仕事に向かうって言ってただろう?仕事が始まるまでの時間、ダニエルとローマを散歩したら?」などと言い出す始末。

フランチェスコも、彼氏と友人の奥さんがうち解けてくれれば嬉しいと言わんばかりで、私もうんと言わざるを得なくなったのだった。

それに、食事中の会話で、ダニエルが日本の文化への造詣が深いことも感じ取れた。なんというのか、彼の教養が「エセ」ではないことは直観でわかった。

ダニエルと過ごす時間は、決して苦痛ではないだろう。

それに、異国で財を成したアメリカ人、というとつい思い浮かべてしまう尊大さも、彼にはなかった。

 

ダニエルがどうしても私に見せたい、といった教会は、コロッセオの近くにあった。

ルネサンスが好き、といった私に、なぜあのコテコテの中世の教会をダニエルが見せたがったのか、あのときの私にはまったくわからなかった。

しかし、初秋の空気が漂うローマでダニエルが見せてくれた教会には、荘厳さが漂っていた。ダニエルはこの教会に通い慣れているのか、入口で尼僧に「マードレ、見学をさせていただきます」と折り目正しく挨拶し、私を教会内に導いた。ダニエルは、彼の趣味に適うものだけを私に見せ、興味がないものの前は素通りしていく。

あのときに見た、遠近法もなにもない中世のフレスコ画は、私の目にも焼き付くように残っている。なにもかもが灰色のような中世の古い教会の中で、なぜか黄色だけがひどくまぶしかった。

教会内を見て外に出ようとした私の腕をとり、ダニエルは入口にいた尼僧にもう一度声をかけた。

「マードレ、柱廊を見学することは可能でしょうか」

そのとき、ダニエルはさりげない所作でなにがしかのお金を差し出したように見えた。

言葉は発せず、小さくうなずいた尼僧に導かれて、柱廊前の扉に立ち鈴を鳴らす。すると向こう側にいる尼僧が言葉もなく扉を開けてくれる、という仕組みなので、相当教会通でなければこの柱廊は見学できないということになる。

そこには、たった一人の尼僧が、立ったまま聖書を読んでいた。

柱廊の内側にある中庭には、大理石でできた洗礼盤のようなものがあり、屋根を伝って落ちてくる秋の露のしずくが、まるで水琴窟のような音を奏でる別世界であった。

柱廊の片隅で聖書を読む尼僧の邪魔にならないよう、私たちも無言で教会の柱廊を何周か歩いた。

教会から出た後、私は「日本の侘び寂びって知ってる?」と思わず語りかけた。

深く頷いたダニエルは、イタリアにすでに30年暮らしていること、数年前にエイズにかかっていることがわかり、それ以来サン・ピエトロ大聖堂やサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂のようなきらびやかで完全なものには心惹かれなくなったこと、日本の深いトーンの文化に惹かれるようになったこと、そして今はローマではこの教会が一番好きだ、と語ってくれた。

そのあと、ダニエルはもう一つ近くの教会に連れて行ってくれた。その教会のフレスコ画も美しく、観光客の姿もちらほらしていた。しかし私には、あの言葉も発しない尼僧がいた灰色の教会だけが目に焼きついてしまって、二つ目に見た教会の記憶は薄い。

 

私はその日の深い感動を、どうしても夫に伝えたかったのだけど、あの荘厳な空気、ダニエルと共にした思い、今まで目にもとめなかった美を見つけた喜び、そうしたものを言葉にしようとしても、支離滅裂なイタリア語の羅列になって終わってしまった。夫は笑いながら、「楽しい時間が過ごせて良かった」と言った。

恋でも愛でもない、これが友情というものなのかしら、と自分でもとまどうようなダニエルへの好意は、思いを共有できた人を見つけたという喜びから生まれたのだと思う。

私は、ダニエルに素直にその思いと感謝を伝えた。

その後、なんどかダニエルのコロッセオ近くの自宅に夫婦で招かれたり、我が家にもまた餃子を食べに来たことがあったと記憶している。しかし今思うと、実際にダニエルと会ったのは10回にも満たないのではないだろうか。それでも、私はダニエルとの友情は一生続くと信じている。

 

そして、フランチェスコとダニエルは、まったく夫婦のようによくケンカもした。

別れた、またくっついた、を繰り返しているうちに、フランチェスコに脳腫瘍が見つかった。手術は無事に成功し、二人は今も共にいる。ダニエルにも重い病気も一生のつきあいであるため、二人で支え合って生きていくことを決めたのだそうだ。フランチェスコは研究者としてイギリスに渡り、ダニエルはローマを引き払ってフランスとスペインの国教近くの小さな街に終の棲家を買った。病気が治ったフランチェスコは研究者として忙しい毎日だ。彼は家族とは縁が薄い、だから帰る家が必要だったんだ、それがこのフランスの家だよ、とダニエルは言った。

電話で、「またなぜそんな小さな街に?」と聞いた私に、ダニエルは「この家は、古い小さい教会の柱廊に隣接しているんだよ。君と見た、あの教会の柱廊に似た古くて風格がある柱廊なんだ。朝に夕に、好きなときに柱廊を歩ける。君にもぜひ見てもらいたい」。

そして、笑いながらこういった「きみの手作りの餃子も、もう一度食べたい」。

恋した相手でなくても、殺し文句は万人に有効だなと思う。

 

その後、私には子供が生まれて、フランスの片田舎にあるダニエルの終の棲家はまだ見ることができないままでいる。

フランチェスコは、イギリスとフランスを行き来し、たまにローマに戻ってくると必ず夫に電話をしてくる。相変わらず、おどおどとした話し方だけれど、声はとても明るい。

私は、またいつかダニエルと二人で柱廊を歩く日を、密かに夢見ている。