アイルランドは、世界一ストリート・ミュージシャンが多い国なのだそうだ。伝統的に、幼少期から音楽に親しむ環境があるのだろう。ジョン・カーニー監督による『SING STREET 未来へのうた』は、80年代のアイルランドを舞台に、10代の少年が恋愛とバンドを通じて成長していく過程を描いた映画だ。『ONCE ダブリンの街角で』、『はじまりのうた』等、ミュージシャンを扱った作品が多いカーニーは、自身もバンドのベーシストとして活動していた経歴があり、『SING STREET』は彼の半自伝的映画ということである。

 

 

16歳のコナーは、父親の失業で私立高校の授業料が払えなくなり、荒れ放題の公立に転校する。厳格なカトリックの校長や、暴力的な不良に早々に目を付けられたコナーは、通学途中に年上の自称モデル、ラフィーナに一目ぼれし、成り行きで「僕のバンドのMVに出ないか」と誘ってしまう。その誘いを現実にするため、友達ダーレンの助けを借りてあわててメンバーを集め、バンド「シング・ストリート」を結成するのだ。

急ごしらえのくせに、バンドのポテンシャルが高すぎる。ギターのエイモンはマルチ・プレイヤーだし、学校唯一の黒人で「黒人だから何か楽器できるだろう」という理由で勧誘されたンギグは、本当にキーボードが弾けてしまう。張り紙を見てやってくるラリーとギャリーも有能なドラム&ベースだ。10代で初めて作るバンドにこんなに弾けるヤツばかり集まるわけがないぞ、と私は心の中でつぶやいた。それともこれがアイルランドのスタンダードなのか?

 

 

大昔の話だが、私も10代の頃バンドで歌っていた。高校の友達がキーボードを弾いていたバンドで、ヴォーカルが辞めてしまったから入らないかと誘われたのだ。スタジオの見学に行ったら、私が普段聴かないようなハードロックのバンドで、こんなの歌えないと断ったが、向こうは相当困っていたらしく、キミの歌いたい曲も入れるからと頼み込まれて、加入させられてしまった。

お遊び程度の学生バンドで、たいして上手くもなかった。ギターの男子2人が張り合ってやたらとボリュームを上げるものだから、私は自分の声すらろくに聞こえず音程もへったくれもない。もちろんプロなんか目指していないし、寄せ集めのバンドなんてそんなものだと思っていたから、映画の中のバンド「シング・ストリート」があまりに最初から「弾ける」ことにつっこみたくもなったのだ。

 

 

そんなつっこみどころは大目に見るとして、オリジナル曲を完成させて念願のミュージックビデオ撮影にこぎつけた彼らが微笑ましい。当時人気だったデュラン・デュランの影響をモロに受けて、衣装はタンスからひっぱり出したフリルのシャツにロングコート。ラフィーナにメイクもしてもらい、人気のない裏通りで「それっぽく」撮影する。

その後も流行のバンドが出るたびに、ファッションも音もまるごと感化されてしまうところ、しかもお金がないからどうにも残念な感じになるところなど、初心者バンドの「あるある」が満載で、経験者には懐かしくも恥ずかしい。ザ・キュアーにハマって、ボサボサ髪にアイライン、黒いコートで徒党を組んで登校するシーンには笑ってしまった。キメているつもりなのに、ほっぺたは真っ赤なお子ちゃま顔。似合わないことこの上ない。

 

 

そう言えば私のいたバンドも、アイアン・メイデンがかっこいい、という理由だけでツインリードだった。ライブの時、ギターの2人は私のアイシャドウで念入りにメイクし、しかも1人は身長が160cmくらいなのに、およそ似合っていないメッシュのタンクトップ(しかもゴールド)を素肌の上に着るという恐ろしいことまでやらかした。一緒にライブをやった他のバンドも似たり寄ったりのダサさで、アクションペインティングを施したピチピチのタイツを見た時は、そんな服どこで買ったのか聞いてみようかと思った。まあ私は私で、DIY感たっぷりのプリンセスプリンセスみたいな恰好だったので、他人の事はあまり言えない。10代のバンドなんて垢抜けてないのが普通なのだ。

 

ところで、Google検索で「バンドマン」と入れると、候補の筆頭に「バンドマン クズ」と出てくる。いったい皆さん何を検索しようとしているのか。とにかく世間ではバンドマンはクズだという認識が定着しているらしい。某バンドのフロントマンの不倫騒ぎがこの認識をますます強化してしまったようだ。バンドマン諸君はこの不名誉なパブリック・イメージに少しくらい抗議したらどうかと思う。このイメージは洋の内外を問わないようで、映画の中でもバンドが出てくる作品は数々あるが、登場するバンドマンが高潔な人物として描かれていることはまずない。『SING STREET』では、コナーの兄ブレンダンがそれだ。

 

ブレンダンはバンドマン崩れのニートで、ロンドンに渡る夢を諦めて家でぶらぶらしながら、コナーに音楽や恋愛についてレクチャーする。「フィル・コリンズ好きの男はモテない」とか「バンドはオリジナルをやらないと価値がない」とか、ブレンダンのもっともらしい音楽論にはニヤリとさせられた。はたから見ればダメ男の兄でも、コナーにとっては人生と音楽の頼れる師匠だった。

 

このようによくダメ男の代表格として描かれるバンドマンだが、共通しているのは「ダメだけど、憎めない」という点である。なぜ彼らは憎めないキャラなのだろうか。

 

誰でも大人になるまでの間に一度くらいは、大それた夢を抱くはずだ。子どもの頃は、大きくなったら「野球選手になる」とか「ピアニストになりたい」とか無邪気に口にする。ところが成長するにつれて周囲が見えるようになると、現実と取引して目標を自分の手が届くものに架け替えていく。それをしないのはよほど才能があるか、バカのどちらかである。

 

バンドマンとは、この現実との取引を拒否した人たちなのだ。彼らが映画の中で成功したスターとして描かれるなら憧憬の対象だし、夢を追いかけるなら応援したくなる。納得ずくで現実を受け入れた私たちでも、「もしあの時夢に向かって進んでいたら?」と考えることはある。サクセス・ストーリーや、夢にまい進する人の話が楽しいのは、私たちが選ばなかった未来を「自分にもこんな事が起こったかも」と思わせてくれるからかもしれない。

 

一方、壊れてしまった夢をひきずり続けているブレンダンのような男はどこか滑稽で、なぜか共感を覚える。バカだ、ダメだと呆れながらも、その気持ち少しわかるよと肩の1つも叩いてやりたくなってしまうのだ。

 

そして彼らは「面白い」を最優先にして生きている人たちだとも言える。以前何かで読んだ、あるライブハウスの店長の言葉に「人に迷惑をかけないヤツが人を楽しませることができるのか?」というのがあった。彼は迷惑をかけるのとエンターテイメントで人を楽しませることは紙一重だと言うのだ。私はロックンロールとはそういうものかと、なんとなく腑に落ちた。誰かや何かをおもいやってばかりいると、正しいし平和だが面白くはない。

 

70年代の音楽シーンを描いた映画『あの頃ペニー・レインと』の中で、グルーピーのペニーが彼女を気遣う記者のウィリアムに向かってこう言う。“You’re too sweet to rock’n’roll.”(あなたはロックンロールには優しすぎる。)異論もあるだろうが、バンドマンは「クズ」と言われればそうだし、別の視点で見れば夢と欲望に忠実なだけとも言える。法に反する行為は論外としても、それ以外の点で品行方正でないのは、もうバンドマンという属性によるものとして割り引くしかないのではと私は思うのだ。だが今はちょっと悪目立ちすればSNSで叩かれる時代だ。最近のロックが面白くなく感じるのはそのせいなのかもしれない。

 

可愛い女の子と接点を持ちたいというだけの動機でバンドを始めたコナーだったが、徐々に曲作りにのめりこんでいく。ダサかったお子様バンドが、少しずつロックになっていくのを眺めるのが楽しい。やがて、バンドはライブでのある企みによって高圧的な校長に一泡吹かせる。そのロックンロールは観客を熱狂させた。まさに迷惑とエンターテイメントが紙一重の瞬間だったのだ。

 

ライブを終えたコナーとラフィーナは保証など何もないまま、未来に向かって荒波に漕ぎ出していく。10代の全能感がいつまで続くのかは誰にもわからないが、2人を見送る兄ブレンダンは少し寂しく、だが誇らしげだ。コナーを育て導いた彼も、もうくすぶった元バンドマンではない。弟の背中を押す大役を果たした彼は、これからは多分現実と折り合って生きていけるのだろう。

 

映画の最後には”For brothers everywhere”(全ての兄弟たちへ)という献辞が添えられていた。『SING STREET 未来へのうた』は、少年と、その兄の成長の物語でもあるのだ。