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私事ですが、自宅にプロジェクター設備を導入したために、思うさま画面を巨大に出来るぞワハハとなって、100インチ強にて映像投影いたし、とある米ドラマを観覧していました。(ここまで、ただの自宅視聴覚環境自慢)

 

…と。

 

ひとりのむくつけきオッさんが、波乱に満ちた情勢を分析するにあたり「I think that 云々かんぬん」と述べたところ、やむなき事情で珍道中を共にしている少女が鬼の形相で「I think だ? ざけんな」的セリフを吐く場面があった。

 

「〜だと思う」とか曖昧なこと言ってんじゃない、確定して、断定的に物を言え。と、オッさんを詰っているわけだす。確かに英語圏の人々は、「〜だと思うよ」を、こと決断の場面…とか、事実の説明場面…とかでは、使わないような気がする。

 

対する日本語脳の人々が英文でなんか説明する時には、かなりの頻度で頭に「I think」をつける。とにかくつけちゃう。日本語の「〜と思います」を直訳してしまえ、というご事情はあるにせよ、そもそもこの「〜と思う」というある種のまどろっこしさは、一体なんなのか。蚊。課。化。と、思う。

 

自らの中に何かこう、“ぼやかしたい“気持ちがあるのだな、ということに気づきます。言い切らないことでぼやかす、表現を和らげる、豪速球は投げないしね、優しく山なりのボールを投げるからね、ほうら。みたいな。

 

さらにその薄ぼんやりさせたいという気持ちの底に、相手に対する配慮とか礼節が沈んでいるのかなと覗いてみるや、そんなお美しいものではなしに

 

「責任の放棄」

 

の一語が黒々と浮かび上がってくるよ。

 

例えその時に事実を歪曲していようが、リサーチ不足だろうが、あくまで「私が思っている」のであればどこにも問題ナシ、責任の所在の問い詰めようがない。すなわち無責任。

 

日本語では、他所からの何がしかのお誘いに返答する場合にすら「思う」はヌルリと入り込む。

 

「行けると思います」。

 

更にご丁寧に、行くか行かないかまだわからないし、この場はとりあえずモヤモヤっとさせておいて、後々の自由度を上げておこうかしらん…何かあっても責めを負わないで済むしね。ぐへへへへ。という意図でもって

 

「多分、行けると思います」。

 

しかし、誘いに応じるかどうかという徹底的に自分主導な行動の見立てが始終「多分」で「〜と思う」なのは、些か曖昧表現が過ぎるというものではなかろうか、廊下。

 

日本語的には、兎にも角にも責任というものはどこまでもふわふわと宙空に漂わせ、視界の焦点を合わせることもならず。が、基本と見える…。

お互いがそういう風にして言葉を交わすうちに、確定事項というものが霧散して、いろんなことがうやむやに。

 

いかにも、動詞が弱い。

 

 

日本語における動詞というのは、他言語に比べるとえらく数が少ないのだそうです。そこんとこは副詞やオノマトペを付随さすことで、補っている。

 

なるほど、「走る」はせいぜい「駆ける」「疾走する」くらいしか言いようもない苦しさを、「ゆっくり走る」「ドタバタと走る」などの展開で救っているわけですね。

 

しかし副詞やオノマトペは、言うても装飾でしかなく、具体的な「状態や行動」内容にはどうしても成り得ず、物足りない。

 

国が傾くほどの大惨事の際ですら、そこかしこで散見される「きちんと対処します」やら「しっかり考えていきます」やらというお言葉の数々たるや。あんたがた物理的に今後何をどうしようというんですかぃあんたがたどこさっと、問い詰めたくならない方がおかしいだろうよ。

 

あるいは気心知れた仲間内で「きちんと」とか「しっかり」とか言い合うのは勝手だけれども、仲間内外の部外者がフラリとやってきた際、そのような茫洋とした表現が正確に理解されるのだろうか、という話。

 

副詞がそのような体たらくで、オノマトペときたら正式感がない、あれは幼児語ですよとまでは言わんが、学術論文などでの使用には到底耐えられない。どうするんだ。

 

キラキラ、つるつる、フラフラ、…視覚に訴え、リズミカルなオノマトペ、決して嫌いじゃないっす。しかしこと「状態や行動」という事実に対し、語感でごまかす、芯のない悪戯小僧である、という一面をも見逃せないのだ。打。

 

最低限、我々が操る動詞は少ない。という事実は、認めたほうが良さそうです。

 

種類が少ない上に、短く端的に言い切ることが不得手となると、更なる不明瞭が重なっちゃうことになるけど、いいんでしょうか。いつ何時、突発的に戦争が始まるともワカランよな世界情勢にあって、それではあまりにご悠長で、仕舞いには命に関わりかねませぬ。

 

極力ご自身の人力でもって、断定的に言い切ってみる。

 

動詞という状態や行動を表す単語に対し、これでもかと決意と覚悟を込める。

 

…ということを習慣づけて毎日行っているうちに、自らの行動力にも差が出てきたりなんかも、するかもわかりません。

 

 

さて、かく言う自分は、幼少時から“さってばさ”人間であった。

 

さってばさ、ってなんですかとお思いでしょうが、方言です。自分の生誕地の栃木県南部産かと思いきや、お隣福島のそれであるようですが、「そうとなれば、すぐにやる」みたいな意味でしょうか。

 

“そんなに、さってばさというわけにはいかないよ、世の中は”的に使われ、少々せっかちで気が短いんじゃござんせんか…と揶揄する意味が含まれている。

 

しかし、自分はどこまでも“さってばさ”人間なのである。

 

やりたいことはすぐにやる、思ったことはすぐに言う、やりたくないことはやらない、思ってもいないことは言わない。これぞ言文一致・動詞の有効活用。

 

しかしこれをははあ潔い真正直人間ですね、さぞかし人望も厚く世間でご出世なさるでしょう…とか受け取るのは早合点というもので、何事も回りくどくフヤフヤと根回しし、万事総員のお気持ちとやらを汲み、忖度の末に事を行うが「最善」とされる世の中にあっては、自分のような“さってばさ人間”は「空気を読まない人間」「自己中心的」とされ、集団行動の輪を乱す者でしかありませんよ。嗚呼。

 

英語圏の人々は言語ありき人間であるがために、どんなことでも言葉で説明する傾向にある、聞いてて五月蝿いと言いたくなるほどだ。しかし彼らの言語は行動に紐付いている。

 

日本語圏の方々やいかにと振り返ると、「言ってるだけ」が圧倒的に多い。行動に移す気が始めからさらさら無いがために、朦朧とした言葉をぬるい温度で無自覚に発する…それが通常運転なのでしょう。

 

机上の空論。絵空事。絵に描いた餅。餅の絵は食えんよ。

 

嘘をついて人を騙そうというなら百歩譲って実利とも言える、すべてが空転する妄言であるというのは、いかにも不毛だ。

 

だから、動詞を追い込む。