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photo by transformed from kazariya

 

茶にまつわる人。

ぼんやりと今まで出会ったお茶関係の方たちを思い浮かべていた。

それぞれのお茶にそれぞれ尊敬する方がいる。

 

私は茶というものがすべて好きだ。

ちなみに珈琲も好きだ。

残念ながら酒は飲めない。

酒もたしなめればもっと人生が面白い気もするのだが、下戸なので致し方ない。

 

 

紅茶ではないが茶を支えるある方のお話。

 

数年前にご縁をいただき、今でも時折「手揉み茶」作りを体験させていただいている。

先生は齢70を越えていらっしゃるのにとてもパワフルだ。

軽やかにしなやかに焙炉(ほいろ)に向かう。

 

手揉み茶、というのは読んで字のごとく。

手で茶を作る。

これは日本の緑茶を手で作る製法だ。

現在日本緑茶のほとんどは機械で製茶されている。
その機械は、この手揉みの手の動きや形を元に作られている。

生の葉を摘んで、まず蒸気で蒸す。

それを焙炉(ほいろ)という台の上で葉の水分を抜き、揉み、形を整え、乾燥させる。

茶葉を摘むところから始めれば一日がかりの大仕事だ。

機械なら数時間で終わってしまうだろう。
ご興味があれば機械の製茶工程はこちらをご参考いただきたい

http://imuraen.jp/seicha.html

http://www.ocha.tv/how_tea_is_made/process/schedule_ryokucha/

 

 

 

手揉み茶は形状が非常に美しい。

一つの芽と二つの葉で摘まれた茶がすべての工程を上手に終えると一本の棒のようになる。
そのピンと針のようにとがった葉を急須の底に敷き詰めるように入れ、40度ほどのぬるい湯を茶葉が浸るくらい注ぎ、じっくり3分浸出させる。

鮮やかな黄緑の新芽が、ゆっくりゆっくりと目を覚ます。
想像する緑茶の色よりずっと薄い液を小さな茶杯に注ぎ、少量口に入れて舌の上を転がす。

最初に飲むと多くの方が感嘆の声をあげる。

まるで玉露のような、濃厚な旨みと力強い味。

甘露のようでいて決してやさしくはない。

自然の力強さに圧倒される。

 

 

 

仕事の都合もあり、一年に一回か二回だけだが先生のところにお邪魔する。

熱帯寄りの植物である茶の木は、私が住む雪の多い北国では育たない。

いや、育つ可能性が低い。

しかし先生のご自宅には茶の木が育っている。

雪にも負けず、毎年春になるとしっかりと新芽を伸ばす。

 

先生のところに、とはいうもののご自宅にお邪魔するのではなく先生のお宅の近くの公民館を半分貸し切って茶揉みを行う。

小さな会館で、その地区の会長さんがときどき事務仕事をしに顔を出す。

とても山深いところなので、鹿やクマの話で先生を交えて楽しい話で盛り上がったこともある。

 

焙炉(ほいろ)は横2メートル弱、縦1メートル弱くらいだろうか。

腰より少し低い位置にあり、和紙が何重にも貼ってある。

体重をかけても少ししなるくらいだ。

下には電熱が引いてあり、温度の調整を行う。

 

茶処で摘んだ茶が蒸して冷凍の状態で私の住む北国にやってくる。

それを焙炉の上に広げてからおよそ6時間かかる。

もちろんその日の湿度や温度にも関わってくるので、完成までの時間はまちまちだ。

 

茶の状態を見ながら、変化する様子を手や鼻で感じながら少しずつ行う。

先生にご指導いただきながら、日々のくだらない話や、先生の長い人生の物語を毎回少しずつうかがう時間がとても楽しい。

長い時間を一緒に過ごすのだ。

色々な言葉や想いがこぼれ出る。

 

 

 

先生は以前に商売をなさっていたそうだ。

茶を商品として、利益のために使っていた時代があると。

バブルの頃は羽振りもよく金にまみれたよ、と笑いながら言う。

時折茶業の組合などで誘われて、手揉み茶を年に一回、二回と行っていた。

そこからなぜ今に至るのか途中経過は私にもわからない。

ただ、先生の言葉一つ一つに年を重ねた分の様々な重みがにじみ出てくる。

 

いつだかぽつりと

「嫌な事とか考えていてもさ、茶を揉みだすと忘れるんだよね。

忘れることができるんだ。」

と仰った事がある。

真摯に茶と向き合い、揉んでいることで時間も何も忘れ去っていると。

 

 

手揉み茶保存会の制服なのか、いつも上下白の作業着と帽子を着用している。

常にきちんとアイロンがかけてあり、真っ白で綺麗だ。

お茶を鑑定する前は歯磨き粉の味で何もわからなくなってしまうからと塩で歯を磨くそうだ。

茶のカテキンのせいなのか、年の割りには非常に肌がきれいだとよく言われるとも仰っている。

手も男性の力強さはあるものの、肌のきめ細やかさがある。

若輩の私にもとても丁寧に接してくださり、いつも温かいお心遣いをいただく。
たくさんの言葉の中でも忘れられない一言がある。

 

「最初から、どの工程一つでも手を抜いたら決して美味しいお茶はできない」

 

先生は過去の自身の経験を交えながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

耳を澄ませて茶の声を聞きなさい。

茶と誠心誠意向き合いなさい。

 

製茶の機械がいくつかあるように、手揉みの工程もいくつかある。

次の工程に移るタイミングも茶自身が教えてくれると先生は言う。

数回やってみたくらいの私にはまだまだそんな声は聞こえてこない。

 

「ほら、音が変わった。

もう少しこうしていると、今度は茶が揉んでほしいって言うよ。」

耳を澄ませて茶の声を聞こうとするが、私には何も聞こえない。

 

「ぼたぼた、がパラパラとなってきたでしょう?

大粒の雨が小粒の雨に変わったような感じ」

そう言われてみると、そうかもしれない・・・と自分に言い聞かせる。

 

先生は葉を握ったり、香りをかいだりして、私に次の指示を出す。

焙炉の下にある電熱の調整をしながら。

手いっぱいに葉を持ち、鼻を近づけている姿はまるで茶と会話をしているように見える。

茶がどうしたいのか、これからどうなりたいのか、進路相談をしているのかもしれない。

 

 

形を整える「こくり」という工程がある。

茶同士がこすりあって、細長く棒のような形状になるために欠かせない工程だ。

 

「できるだけ茶の向きを揃えてから」

と言われるが、どうやっても茶の向きが揃わず、ばらばらな向きのまま揉んでしまって粉々になる。

しかし、先生が焙炉に立って手早く茶を集めただけで、茶はみんな言うことをきいてまっすぐになるのだ。

新米教師の私たちにはベテラン教師に太刀打ちできない。

大声で、整列しなさい!と叫んでも言うことを聞かない生徒たちが、あっという間にきちんとまっすぐに並ぶ。

それはきっと、生徒たちの気持ちを聞いてあげていることからくる信頼感なのだろう。

魔法のようにさえ見える。

 

 

 

「茶を作る過程一つも手を抜いてはいけない。」

 

たった一つの工程でミスをしても美味しいお茶にはならない。

きっと先生には小さなミスなら途中でリカバリーする力があるだろう。

でも、私にはない。

ただがむしゃらに茶に向き合うしかない。

 

それはまるで人生のよう。

先生は手揉み茶を通して、一日一日を心から大切に過ごしなさいということを教えてくださっているような気がしている。

日々の生活を振り返り、ふと思い出しては胸に刻む言葉でもある。

「あの時少しだけ気を抜いたのではないか」

「あの時期にしっかりとやらなかったから、今ダメなのではないか」

と考えるきっかけとなる。

 

 

毎回先生のところから帰るときは、体の疲労は当然あるが心が軽くなっている。

今の自分の仕事に特別なアドバイスをいただくわけでもない。

茶と真剣に向かい合い、心を開き語り合う。

先生の話を聞かせていただき、自分の悩みを聞いていただいたりもする。

ただその時間が最高の癒しとなる。

 

 

自分の作った手揉み茶を淹れるとき、先生からいただいた言葉一つ一つが心に浮かぶ。

お湯の温度を見ながら、最高の状態で湯を注ぐ。

淹れる工程だって手を抜いてはいけない。

自らが細く長く棒のように形作った茶葉たちがゆったりとお湯の中を泳ぐのを見るのが楽しい。

私は先生のように茶葉たちに進路相談ができないが、そっと語り掛ける。

「美味しいお茶になってね。」

 

茶を作る人を想いながら、茶を飲む人を想いながら。