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前回に引きつづき、「身体で感じる俳句」というテーマで、俳句の世界に探検にゆきたいと思います。

探検、というと非日常の世界だというイメージが強いですね。でも俳句のいう世界は、じつはそれほど非日常ではありません。それどころか、本当はおどろくほど日常的でしたしみのわく世界です。

探検という言葉を使いはしましたが、アウトドアのような重装備の探検ではなく、いつもと違う路地に入ってみるといったような、子どもっぽい探検。ふだん着で、ありのままの姿と心もちでいることこそ大切で、それ以外には何もいりません。あとはそう、前回お話しした連想をするだけです。

 

今回も、前回と同じように幾つかの俳句を引き合いに、どんな連想ができるのか、五感にどう作用するのか、つまりどのように体で感じることができるのか、といったことを考えてみたいと思います。

たった17文字の俳句から、連想によって目の前にどんな世界があらわれるのでしょうか。それでは、ささやかな探検のはじまりです。

 

桐一葉 日当たりながら 落ちにけり (虚子)

子規の弟子である高浜虚子の句です。

季語は「桐」で秋になります。

字面だけで見ると、その桐の葉がひとひら落ちた、というなんでもない光景を読んでいるように見えます。

この俳句を一度でも口ずさんで読んでみると、ほら、もう軽く「連想」できるのではないでしょうか。

そう、桐の葉はただ散っているわけではありません。「日当たりながら」落ちているのです。前回もでてきた切れ字「けり」がここで使われています。落ちたなぁという詠嘆をこめて詠んでいるわけです。

ここまでで天候がわかりますね。季節が秋だということも踏まえて、秋の晴れた日に詠まれた俳句というわけです。

時間帯はどうでしょう。一見すると、そこまではわからない、と考えてしまいそうです。

こんな時こそ、連想を使って俳句の中に飛び込んだかのように情景を眺めなくてはなりません。

少なくとも、日当たりながら、といっている以上、日の出から日没までの間ということはわかりますよね。それでは、どの時間帯の「日」がこの句にもっとも似つかわしいか、と考えます。

それは午後だろう、と私は感じるのですが、いかがでしょうか。

秋という季節をもっとも象徴する一抹の寂しさ、秋思などという言葉もありますね。これから冬にむかうという、しみじみとした情感がそこにはあります。それには午後の日が合っていると思うからです。具体的には午後2時から4時の間くらい。多少西日であるくらいがいいと思います。

それはそうと、この俳句は身体のどの部分を刺激するのでしょう。

それは聴覚です、といったらあなたは異議を唱えるでしょうか。

桐の葉というのは、それなりの大きさがあります。そのひとひらがゆっくりと落ちた。ごそっというような乾いた音が聞こえそうではありませんか。

または聞こえなくともよいのです。

仮に「無音」だったとします。音もなく、桐の葉が落ちたという場面です。これもまた、聴覚を刺激されることに変わりはありません。

落ちた音を感じるか、無音を感じるかというだけのことです。いずれにしても、桐の葉がおちたと感知するのに聴覚を使っているからです。

それでは、今一度、この句を見つめなおしてみましょう。音は聞こえるのか、聞こえないのか。自分なりの連想を働かせつつ、読んでください。

桐一葉 日当たりながら 落ちにけり

 

流れゆく 大根の葉の 早さかな (虚子)

続いても同じく虚子の句です。季語は「大根」で、冬の季語です。

おそらく何者かが大根を洗っていたのでしょう。

どこで洗っていたのでしょう。「流れ」というだけでは天然の川なのか、人工的な水路なのかは分かりません。ただ、どちらでもこの句の大勢に影響はなさそうです。もちろん、大根を洗うというような生活の場に密接な位置にあることから、渓流や大河でないことだけは確かだと言えるでしょう。

冬ですから、当然その「流れ」は冷たい流れです。冷たさに水も澄んで、そこを流れゆく大根の葉の緑の鮮やかなことが目に浮かびます。

いったいどれだけの大根が洗われていたのでしょうか。1本や2本でしょうか。それともひと山ほどでしょうか。

もちろん、句の17文字にはそんなことは書いていません。だから、連想するのです。

私は、すくなくとも4,5本ないしは1ダース12本くらいの大根があったのではないかと連想します。もしこれが漬物にする大根であったならば、もっとたくさんかもしれません。

いずれにしても1,2本ではないと考えられます。だからこそ作者(詠み手)は次々と大根の葉の流れるさまを目の当たりにしたのです。

次々と流れてゆく大根の葉を見たからこそ、「流れゆく大根の葉」を「早さかな」と詠んだのでしょう。

この句は、一見なんでもないふうな句でいて、さまざまな刺激を持っています。まず一つには寒さです。冬の小川に流れゆく大根の葉を思い浮かべただけで、ぞくっとするような寒さに鳥肌がたちます。

水道でも構いません。冬の冷水で皿洗いなどをした経験があればすぐ分かることです。あっという間に手がかじかんで真っ赤になります。この句では戸外なのですから、当然足元からも冷えはのぼってくるでしょう。そんなふうにまず触覚が強い刺激にさらされます。

さらに上で述べたことですが、大根の葉が目にあざやかに映ります。冬ざれの、どちらかといえば色あせた感のある景色の中に、大根の葉の、生き生きとした緑がまぶしいほどです。これが視覚ですね。

小川があり、そこで大根を洗っているわけですから、当然水の音もしているはずです。何人かで洗っているならば、話し声もしていたでしょう。聴覚です。

触覚・視覚・聴覚と同時に刺激をする工夫された一句であることが分かりますね。

それでは、最後に今一度、句を見てみましょう。

流れゆく 大根の葉の 早さかな

 

ひたひたと 春の潮打つ 鳥居かな (碧梧桐)

第3句は河東碧梧桐の句です。碧梧桐も虚子と同じく子規の一番弟子といってよい存在でした。

季語は「春の潮」でもちろん春です。当たり前じゃないか、と思う方もきっとおられるでしょう。これが時に逆転することがあるので、念のため確認をしておくことは必要かと思います。

例えば、「竹の秋」とは春の季語です。竹は春に葉を落としますので、このように表現されます。竹落ち葉ともいいます。似た例として「麦の秋」もあります。こちらは夏の季語です。

あまり例のないこととはいえ、「秋」とあったら秋だと決めつけてしまうのは危うい、ということです。

本題に入ると、「ひたひたと春の潮が打」ち寄せている「鳥居」を詠んでいます。

ここも切れ字「かな」を用いて、鳥居だなぁと詠嘆をこめているわけです。

おそらく打ち寄せる春の潮と鳥居とを並べて一つの景としているので、鳥居の位置が定かではありませんが、安芸の宮島のような鳥居をイメージしても良いのではないかと思います。

ここで連想される海とは、どんな海でしょう。春ですから、陽光があふれるようになり、寒さもやわらいで、あちらこちらで様々な花芽がほころんで、いい香りの風が心地いい、そんな季節をイメージしてよいと思います。

海の色も、冬のそれとは変わって明るくなっているはずです。

その海の寄せては返す波打ち際と一つ景色の中に、朱もあざやかな鳥居が構えてあるというのです。

この句の刺激する感覚とはどんなものでしょうか。

そうです、まずは音がありますね。春の海の波打つ様子がかかれているのですから、まず耳の奥に波の音が聞こえてくるはずです。

ついで嗅覚です。答えを先に書いてしまったので後出しじゃんけんみたいですが、春という文字だけでも、すがすがしく甘い独特の香りがあります。そして忘れてならないのが、潮の香りです。このあたりは、一度でも海辺の町を歩いたことのあるものなら、簡単に連想できるところでしょう。

それでは、今一度、句を読み返してみましょう。

ひたひたと 春の潮打つ 鳥居かな

空をはさむ 蟹死にをるや 峰の雲 (碧梧桐)

今回の最終句である第4句も、碧梧桐の句です。

書中見舞いの絵葉書のような句です。季語は「蟹」「峰の雲(雲の峰)」であり、いずれも夏です。

「空をはさむ蟹」とは、オーバーな表現をしたものだと思います。そうとう蟹の近くまで顔をよせなければ、こうは見えません。

相変わらず場所が特定できませんが、この「蟹」は沢や磯にいる小さな蟹をさす季語だとされています。

そうすると、ある程度見えてくる連想があると思います。

夏の磯ないしは沢をイメージできたでしょうか。天候はどうでしょう。もちろん晴れていますね。「峰の雲(雲の峰)」とは入道雲ですから、この先はわかりませんが、現状は晴れています。

時間帯はどうでしょう。せっかく雲の峰をとり出してきているのですから、その背景は真っ青なスカイブルーがいいと思いませんか。それだれば、昼近くから午後の早い時間帯だろうと考えられます。

もちろん、空に朱の差してきた夕方の句という見方もあり得るとは思いますが、それではいかんせん雲の峰に力が感じられないのではと不安になるのです。

句のはじめと終わりが概ねイメージできたところで、この句の核心に触れる準備ができました。

「死にをるや」です。

切れ字の「や」を用いて、死んでいたのだなぁとなります。

死んでいたのは何でしょう。ここで蟹以外を連想された方はいないと思いますが、冗談ではなくうっかりすれば、二時間ドラマの事件現場のような光景が浮かんでしまいそうですね。

「空をはさむ蟹」は死んでいました。そのことを碧梧桐は観察によって気づいたのです。はじめは生きていると思って観察したので、その死に気づいたとき驚いたのです。

(何と、はさみを振り上げて空をはさんでいるように見えるこの蟹は、じつは死んでいたのか!)

その驚きを、雲の峰ととり合わせることによって、永遠に封じ込めることに成功した、そんな句であろうと思います。

それでは、この句が刺激するのは、身体のどの部分でしょう。

前の句と同様に、聴覚と嗅覚ということになろうかと思います。

磯や沢をイメージするとなると、欠かせないのは水ですね。磯では波が打ち寄せています。沢ではやはり水の流れが音をたてているはずです。

同時に、波にしろ沢の水にしろ、嗅覚を刺激するに違いありません。磯には磯の、沢には沢の匂いがあります。

この句の17文字には、いっさい水という字、波という字は含まれていませんが、連想によって句を深く見た結果、かくれた光景を見つけ出すことができたのです。これこそが連想をもって俳句を読む醍醐味といえます。それでは、最後にもう一度、句を眺めてみましょう。

空をはさむ 蟹死にをるや 峰の雲

 

いかがでしたでしょうか。

連想をもって俳句を読むことで、文字には書かれていない情景がさまざまに浮かんでくるということを実体験していただけたのではないでしょうか。

こうして読み続けていくと、これまでの俳句のイメージが一変すると思います。

そして、ほんのわずかでも、俳句っておもしろいな、と感じていただけたらこれにまさる喜びはありません。