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photo by Caleb G

 

※この記事は、特集「よくわからなくなるお金のはなし」の記事です。

 

春休みのある日昼寝をしていた私は「逃げるから早よ荷物をまとめ!」と叫ぶ母の声で一旦目が覚めた。でも私は「は~?何言ってんの?」と寝ぼけ眼をまた閉じて、呑気に昼寝を続けていました。

 

それも束の間、「行くで!早よしー!」の声で叩き起こされ、寝起きのぼやけた頭で訳がわからないまま車に乗せられた。暫くしてからわかったのは、父の会社が倒産して夜逃げしている最中だって事でした。

 

伯母を頼って行ったものの、伯母の所だとすぐ見つかってしまうので、伯母の紹介で同じ宗教の全く知らない人の家にかくまってもらいました。

翌日母は誰に紹介してもらったのか、今にも倒れそうな古いボロボロの長屋を見つけて来ました。その日からは見事なまでの超極貧生活が始まりました。

 

長屋には6畳2間と1.5畳程の台所しか無く、1部屋の真ん中にカーテンで仕切りを作り1歳上の兄と共用。16歳で思春期の私にはすごく嫌だったけど、諦めるしか無かった。おまけに私は悠長に昼寝していたので自分の服は無く、かろうじて下着を母が数枚入れてくれていたので良かったけど、暫く兄の服を着ていました。あの時母の言うことを聞いて逃げる準備をしていれば良かったと後悔しました。

 

 

今までめちゃくちゃ贅沢しててんな

父は倒産のショックからか、落ち込んでしまい無言で下を向いたまま。

しかしこんな時女は強い。母が一番先に、近所の製材所の仕事を見つけて来て働き始めた。私は大嫌いな勉強をしなくても良いと半ば嬉しかったので、働くのには抵抗が無かったけれど、とりあえず始めた内職は地味にコツコツする作業。それが嫌でスーパーのレジ打ちの仕事に早々に変わった。兄も自動車修理工で働き始めたけれど、父は相変わらず仕事もせず酒に逃げていた。

 

彼氏とも友達とも離れ、家に電話も無い上に、「知られたらあかんから絶対どこに居るか言ったらあかん」と言われ、どこに居るのか詳しい事は誰にも言えなかった。寂しさから小銭を握りしめ、近くの公衆電話から彼や友達に電話していた。稼ぎも少ないからそんなに喋ることもできず、公衆電話の小銭が落ちるのが、あまりにも早くて泣きそうになった。そしてその度に何でこんなことになったん?と腹立たしい気持ちが沸いていた。

 

必死で働いて買ってくる食材は質素で、母が作る食事は魚の缶詰をそのまま入れて炊いたご飯、キャベツがほとんどで具がほぼ無いお好み焼きなど、質素な料理だった。本当に涙が出る位の極貧生活だった。

 

そんな生活に「今までめちゃくちゃ贅沢しててんな」と母に呟いたのを覚えている。自分では貧乏と思っていた以前の生活が、実は贅沢していたのを実感したからでした。

 

小学校高学年頃に県営住宅から引っ越した先は、学校の先生や公務員など、ちょっと良い家庭の人ばかりが住む住宅地。子供達はピアノを習ったり塾に通ったり、豪華な誕生日パーティをするようなところでした。うちは月に一度家族で大好きなホルモンを食べに行くのが唯一の贅沢だったので、自分の家は近所と違って貧乏やと思っていた。でも超極貧生活をしてみて、つくづく贅沢してたんやなと実感して心の底から出た言葉でした。

 

 

母と父

家族で働いて、少しは生活がマシになった頃に、母が勤めていた製材所で人差し指の先を機械で切り落としてしまった。それでも母は強く泣き言も言わず、家事をしながら働き続けていた。その反面父はプライドが高くやっと働いた仕事も、何かと文句を言って辞めてくる。またお酒に逃げる。

父は何をしてんの?と怒りが込み上げて来て、とうとう我慢できなくなった私は「こんな生活になったのは誰のせいよ!全部父さんのせいやんか。友達も誰もいてないこんなとこ連れてこられて、うちはこんなとこ来たく無かった!!」と罵ってそのまま家出しました。後で思ったけれど、大好きだった父の情けない姿が嫌で、言ってしまったんだと思います。

それから暫くは友達のところを転々としていたものの、そんな生活は続かず数ヵ月後家に戻り、その後は仕事が楽しくなり生活も少し余裕が出てきました。

 

母は相変わらず毎日仕事と家事と一生懸命していましたが、プライドが高い父は、自分より年下の人に扱われるのも嫌だったのと、田舎ののんびりしたところがせっかちな父にはどうしても馴染めなかったらしく、働いては休むを繰り返し、職場を変わったりと数年間同じような生活を続けていました。

 

 

今では「夜逃げちゃうやん!昼逃げやん!」テレビドラマでやってるように、夜中にコソコソ逃げるんじゃ無くて、不渡り手形が出るのは銀行が閉まる15時。だから昼間に逃げるんや~!って笑い話をします。

 

 

大人になって知ったけど、父はギリギリまであちこち金策に走っていたから昼になったけど、倒産するのは目に見えていたので前日の夜中に逃げる事も出来たはず。後で聞いたのは親戚中を回っても借りる事は出来ず、ちょっとヤバイ人の所にまで借りに行ってたらしい。そこまでしてでも、諦めなかった父はすごいと今なら思えます。

そして父が金策に走っている間、母は常に冷静で父の帰りを待ちつつも、逃げる準備をしていました。その後多少不便でも雨風が凌げる家に住めて、貧乏ながらも何とか生活が出来たのは、常に冷静だった母のお陰だと思います。

 

この時の両親から、最後まで諦めないという事、どんな時も冷静で先を読んで準備をする事、大怪我をしても貧乏でも泣き言も言わず、前向きに生きていけば何とかなるという事を学びました。そしてそれらが、その後の私の人生の中でとても役立ち、大きな財産となっています。

 

債権者の執念

私が人間不信に陥った原因でもある出来事がありました。夜逃げならぬ昼逃げ後、債権者の執念の恐ろしさを知ったのです。

 

兄は新しい土地の生活に馴染めず、結局地元にいた祖父母を頼り、隠れながら高校に通っていました。そこへ債権者が来て、授業中に先生から逃げろと言われ逃げたり、私が通っていた高校の担任が、うちが倒産して逃げたのを知ったのも、債権者が来たからでした。債権者は私達兄妹の高校にまで探しに行ってたんです。さらに身内や近所だけでなく、私達の友達、知り合いなどあらゆる所に行き、血眼で探していました。

 

当時両親はいくら聞いても教えてくれなかったけれど、かなり後になって知ったのは、親会社が倒産して父もその煽りで数千万の不渡りを出していた。

 

債権者が血眼で探しても当たり前やと、大人になってからは思ったけれど、当時の私は若くてよくわからなかったし、知ってもどうしようも無かったから両親は言わなかったんだろうと思う。

 

そして数年後、私の友達づたいに居場所がもれてしまい、債権者が数人家に押し寄せて来た。その人達は見覚えのある顔で、いつも笑顔で人の良さそうな感じの良い人だったけど、執念で私達がいる場所を探しあてて来た姿は、鬼のような顔で口調も荒く両親に罵ってる姿を見た。

 

不渡りを出して逃げた父が悪いとはいえ、お金がからんだ時人は、鬼のような形相になる恐ろしさを知りました。

 

その後、父が破産宣告を出した事で、債権者も来ることが無くなり、怖い思いをしなくて済むようになりました。

 

 

生活が落ち着いて来ると、どうしても地元に戻りたくなり、18歳の時、私も兄と同じように祖父母を頼り帰ることにしました。

そしてその後、19歳で子宮外妊娠で卵巣摘出、20歳で結婚、2人の男子を出産、5つの会社経営のうち2つは私名義の会社、夫が働かない、妾を囲い常に女性の影、夫からのDV、離婚、子供達との別離と、人生の大きな転機をいくつか迎えました。(今回はこれについて書きませんが、これらも私のその後の人生に大きな影響を与えています。)

 

学んだのは笑うこと

今の主人と再婚した後、私が販売業でそんなに稼ぎも無かった頃、突然主人の勤め先が倒産して、次の職も中々見つからず働いたと思ったら辞めるを1年位続け、暫く収入が激減してしまいました。冷蔵庫の中が空っぽになり、あるものと言えばお米と缶詰など乾物が少々。

それでも10代に超極貧生活を味わっていたので、あまり不安は感じず空っぽの冷蔵庫を見て「見て見て~冷蔵庫空っぽや~」と笑っていました。

たぶんこの時主人は悲愴やったと思います。その後必死で職探ししてましたし、最悪自分がやりたい仕事じゃなくて、ガードマンでも何でもするって言ってたので、私の言葉が逆にプレッシャーになったのかもしれないですね(笑)

 

こうして食べるものが無くても、笑っていられたのは、父の倒産での超極貧生活よりずっとマシだし、頑張って働けばお金は何とかなるって思えたからです。

あの時にあの経験をしていなかったら、それなりに贅沢な生活をさせてもらって、甘えた人生を過ごしていたと思うし、お金で人の人生がこれだけ変わるんやと、お金で人がこんなにも変わるんやというのを知らずにいたと思います。そしてお金の大切さと怖さも知らなかっただろうし、何よりどんな時でも笑っていることは出来ず、空っぽの冷蔵庫を見て主人を責めていたかもしれません。

 

切っても切り離せないもの

その後、自分が化粧品の販売会社を設立して事業資金で国からお金を借りても、父の倒産の恐ろしさを思い出し、きっちり遅れる事無く返済して来ました。

引き落とし日に口座にお金が無いと怖いという恐怖感があって、とにかく引き落とし日よりかなり前には口座に必ず入れるようにしていました。

 

しかし、販売代金の不払いなどもあって、結果的には販売会社はうまく行きませんでした。借入に借入を重ね、気づいた時には借金が700万にも膨れ上がっていました。この時には月々の経費を含め、自分の給料以外に50万近い額を出さないといけなくなっていました。

同時期に同じ販売会社仲間の社長が破産寸前に陥っているのを見て、数年先の自分の姿を見ているようで「このままやと倒産してしまう!破産してしまう!対処しなくては!」と販売会社を降りる決断が出来ました。

 

その決断の結果、父のように倒産することも無く会社を整理することができて、借入金も数年かかったけれど、遅延する事なく完済する事が出来ました。

 

これも全て父の倒産を肌で感じ、経験したからこそだと思います。あの恐ろしさを二度と味わいたくないと思えたから、いつまでも代表取締役という名前にしがみつかず、踏ん切りをつける事が出来たんだと思います。

 

そして、何より大きかったのは、家族皆が地元に戻っても一人残った母は、仕事をいくつか変わり、アパレルで店長にまでなったのに、やりたかったと言って突然カラオケ居酒屋を始め、数年後世の中の流れを読んであっさりと閉店しました。その後は今まで一生懸命働いて貯めたお金で墓地を買い、中古だけど家まで買いました。

そんな母の姿から自分の人生楽しむ姿と、冷静に判断し決断する力、そして前向きに何事も成し遂げる強さ、変化に合わせる柔軟な姿を学べたからだと思います。

 

 

父の会社の倒産が無ければ、両親の姿から学ぶことも無く、元々プライドの高い私はいつまでも「何とかなるはずや」と思って地位にしがみつき、更に借金に借金を重ね、膨大な負債を抱えて倒産していただろうし、苦悩の中で自殺していたかもしれないと思うとぞっとします。

 

トラウマも捨てたものじゃない?

その後の生活の中でもこの経験は活かされていて、月々の光熱費など必要なお金が、年間通してどれだけかかっているか全て把握した上で、月平均を割り出し少し余裕をもって口座に入金しています。引き落とし日にお金が入っていないのが怖いのです。1度遅延した位では督促状も来ないでしょう。でもあの時の恐怖がトラウマになっているのか、支払いに関してはすごく敏感になっていて、遅延や返済不能が無いように気をつけています。

 

そのお陰か、会社の借入金の返済が終わる頃には、銀行や国から「お金を借りて下さい」と幾度となく手紙や電話があったり、銀行の支店長と担当が足繁く通ってくれたりもしました。これが「お金で得られる社会的信用」なんだと実感しました。

 

父の倒産。あの経験がその後の自分の人生の中で、あらゆる場面ですごく役に立っています。当時は父を憎み文句を言ったりもしたけれど、今では父の倒産があったからこそ、今の自分の金銭感覚があるんだと感謝すらしています。

 

そして今、お給料明細を持ち帰る主人に「1ヶ月ご苦労様でした。」と明細書を両手で頭上に持ち上げて、心の底から感謝の言葉が言えてるんだと思います。主人が働いてくれるから私は生活させてもらえてると、素直に言える事が出来るんだと思います。

 

出来る事なら倒産なんて経験はしなくて良いとは思うけれど・・・。

少なくとも私はこの経験が無ければ、たぶん甘ちゃんでお金の有り難さも知らずに生きて来たかもしれません。主人に対しても文句を言っていたかもしれません。苦しい時にこそ笑うと言う事が出来て無かったかもしれません。

 

お金で人生がよくなる人も、悪くなる人もいる。私達にとってお金が無ければ何も始まらないし、生きて行くことも出来ない。私は人が生きていく上でお金はとても大切で、空気のように必要なものだと思っています。私達人間にとって生きて行く上で、お金は切っても切り離せないもの。

 

そのお金で幸せになる人、不幸になる人もいるけれど、幸せと思っている中でも、不幸と思っている中でも、お金に纏わる出来事の中から何を学ぶかによっては、その後の自分の人生良くも悪くもなるのを実感しています。

 

こんな経験をしたから、さぞ大金を貯めているだろうと思うかもしれませんが、逆に人生いつどうなるかわからないと思う面もあって、今楽しむ事も大切にしています。何かあった時の為に、積立預金はしているけれど微々たる額です。

これは、必死で働けば何とかなるのを経験したからかもしれません。

明日から突然楽しみも無く、食べるものも無くなるかもしれないから、楽しめる時に楽しんでおこうと思う気持ちがあるのも、またこの経験から学んだ事かもしれません。

 

 

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