machine

 

機械であれ、生物であれ現実の世界で何かの目的を実現するシステムは、ハードウェアとソフトウエアの両方を備えている。

生物の多くは、そのソフトウエアを遺伝子の形で保持し、条件反射や本能と呼ばれる形でそれを発現する。人間はこれに加えて、脳を進化させることで、より柔軟で発展性を持ったソフトウエア(知能と呼ぶ?)を手に入れた(と信じられている)。

蒸気機関車や初期の自動車など、昔の機械には、ソフトウエアは存在しなかったのは確かだ。だがこれらの機械は、人間が機械を操縦することが前提であり、人間の持つソフトウエアを使って初めて、それは完成されたシステムとなると考えられる。このようなシステムは、Human側に大きく依存したHuman Machine Interaction(機械と人間の相互関係)で成り立っているといっていいだろう。

一方、これまでの第1回から第3回までの連載で書いてきたように人間のハードウェアとしての肉体は、人工の金属やプラスチックの機械に置き換えることが可能になりつつある。ソフトウエアもまた人工のもの(AI:人工知能)に置き換えることが可能と考えられるのは、ある意味自然なことだろう。

初期には、Human側に大きく依存したHuman Machine Interaction(機械と人間の相互関係)が、技術の発展とともに、どんどんMachine側に依存の度合いを大きくしているとも解釈し得る。

 

ソフトウエアと知能は同じだろうか?

AI(Artificial Intelligence)は日本語では人工知能と訳される。今までの話で、ちょっと引っかかるのは、ソフトウエアと知能は少し次元が違う言葉ではないかということではないだろうか。

知能とは、何を行うかを判断したり、どのように行うかという方法を創造したりすること、つまり知能は、意思や創造力を含んだ概念で、ソフトウエアは手段に過ぎないのではないか。このように知能はソフトウエアよりも高次の概念であるように思えるからだ。

だが一方で見方を変えて、知能も生存という非常に大きな目的のためのソフトウエアであるとすれば、それはそれで間違いではないような気もする。生存するという目的を達成することが、あまりにも複雑なプロセスを必要とするために、それに必要なソフトウエア自体が、通常の我々の持っているソフトウエアの概念からは、大きくかけ離れたものとなっているとも考えられるからだ。

 

強いAIと弱いAI

実はこのような知能とソフトウエアの定義に関する議論は、AI開発の歴史の中でも行われてきたものであり、明確な結論は出ていない。知能とは何かということ自体を、その知能自身が探索しているものであり、自分自身で自分自身を知ることができるのか、という哲学的領域に(つまり迷路に)踏み込んでしまうからだ。

このためにAIを、まずは強いAIと弱いAIに分けて議論しようとする考え方が存在する。強いAIとは、人間の知能そのものを持つ機械を作ろうとするもので、弱いAIとは人間が知能を使ってする行為を機械にさせようとするものだ。

言い換えれば、弱いAIとは、現在のコンピューターの延長線上で性能を進化させ、ある特定の問題解決に対して人間並み、あるいはそれ以上の能力を実現しようとするものだ。つまり、この場合の知能はソフトウエアの定義とほぼ重なるとものと考えても間違いではないだろう。

現在実現しているAIは、今話題のデープラーニングも含めて、すべてこの弱いAIの範疇にとどまっていると考えられる。

一方で、強いAIに関しては、そもそも人間の知能がどのようなものかもよくわかっていない以上、できるかどうかの議論さえできない状態で、今のところ棚上げしておきましょう、ということと考えても良いかもしれない。

 

AIの歴史

AI(Artificial Intelligence)という言葉が初めて使われたのは、1956年に米国のダートマス大学で行われたダートマス会議であるといわれている。

1958年に脳の構造を模擬したニューラルネットワーク1)の一種で、学習能力を持つパーセプトロン2)が発表され、第一次ニューラルネットワークブームが起きる。しかし、非線形の問題が解けない(実際に起こる多くの問題は非線形なのだが)という点が明らかになりブームは沈静化する。

1980年代になると、非線形の問題でも解くことができるバックプロパゲーション3)という学習アルゴリズムが発表され、第二次ニューラルネットワークブームが起きる。日本においても五世代コンピュータプロジェクトが進められた。しかし当時はコンピューターの能力が不足している問題もあり、期待されたほどの効果が出なかった。このため再びブームは沈静化してしまう。しかし少数の熱心な研究者は研究を続けており、1990年代中盤以降には、ビッグデータの活用やコンピューターの能力の増大により、この分野で地道な成果が出てくるようになっていた。

2012年、ディープラーニング(ニューラルネットワークを多層化したもの)が画像認識のコンテストで圧倒的な強さで優勝したことから注目されるようになる。2016年には同じくディープラーニングを使ったプログラムが碁の世界チャンピオンに勝ったことで大きな話題になり一般にも知られるようになったのである。

 

ディープラーニング

ディープラーニングの仕組みについては、下のリンクを呼んでいただいたほうが理解しやすいだろう。

 

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1507/27/news067.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0

http://stonewashersjournal.com/2015/03/05/deeplearning1/

 

ディープラーニングは、多層のニューラルネットワークを、オートエンコーダ4)というアルゴリズムで構成して、バックプロパゲーションという学習アルゴリズムを使って自己学習させることに特徴がある。データの特徴量5)を効率よく抽出することができるため、画像や音声などのビッグデータのパターン認識が得意である。

ここで注意しておかなければいけないのは、ディープラーニングの基礎となる技術は、ほぼ1990年代に出そろっており、それが急に注目されるようになったのは、インターネットの爆発的普及により、ビッグデータが簡単に利用可能になったことが大きく影響していることだ。

Googleのアルファ碁が人間の名人に勝った話題6)や、IBMのワトソン(ディープラーニングは使っていないようだが)が医者もわからなかった病名を探し当てた話7)は大きな話題になった。

これらはいずれも、人間ではとても扱えない巨大なデータを扱った点に特徴があるのであって、AIだけの成果というよりも、実はビッグデータ利用の成果といってもよい。

もちろん最新のAIにより、膨大なデータの処理をより早くより正確に行った点は、評価されるべきだろう。だが、そこに強いAIに向かうような知能と呼べるべきものは見いだせない、とするのが多くの研究者の見方のようだ。

もちろん、量が質に転嫁するという考え方もある。しかし意地悪い言い方をすれば、石を積むだけという単純な行為も、飽きることなく続けてピラミッドまで巨大になれば、人はそこには何かしら驚異を勝手に感じるようになる、ということに似ているといってもいいかもしれない。

だが一方で、ここで発見されたパターンの中には、これまで人間が気が付かなかったものも含まれているのは確かであり、これこそが知能の萌芽であるとする考え方もあることを付記しておこう。

 

AIは脅威だろうか

AI、特に強いAIが実現することについては、これによりユートピアがやってくるみたいなバラ色の未来を唱える人々がいる一方で、著名な科学者や実業家がAIによって、人類が危機を迎える可能性についての強い懸念を示している8)9)。

しかし、これらの懸念を読んでみると、老いたる王が自分の子供に王位を簒奪されるのではないかという恐怖を抱くという、古くはギリシャ神話から、身近なところでは、老舗企業のお家騒動に至るまで、老いたる王の悪夢という面もちらほら見え隠れするようにも思うのは私だけだろうか。

一方で、このような楽観、悲観どちらの意見にもくみしない別の意見もある。AIが加速度的に進歩して知能と呼べるものを持ったとして、それは我々の知能とは、本質的にまったく別のものになるだろう見解だ。これをエイリアンとの遭遇に例える人もいる10)。実は筆者もこの考え方を支持している。

筆者が、この考え方を支持している理由は、AIは我々の最も大きな関心事、すなわち「性と死」を知ることがない点にある。

当たり前だが、有性生殖で生まれるわけではないAIが、男性でも女性でもないのは当然だろう。時として個の生存よりも優先するとも思える、生物にとっての最も大きな性の問題を持たないAIとは、どのような存在になるのだろうか。

更に付け加えると、生物の宿痾とも言える戦いの根底には、配偶者をめぐる競争という問題があるのは明らかだろう。これを本質的に欠いているAIはもしかしたら、戦いという概念すらも理解することはできないかもしれない。

さらに、AIは死を知ることもないだろう。デジタルなAIは、完全なコピーが可能で老いることはない。もちろん電源の喪失などの事故で破壊されることはあるかもしれないが、それは確率的な事故の問題であり、我々人間のように、だれ一人避けることのできない運命として、死が定められているわけでないからだ。

性と死は、我々人間の営みの最も根源的な問題であり、知能もまたこれへの対処をその中心課題として発達してきたはずだ。とすれば、これを知ることのないAIが、我々の知能とはまったく別のものになる、と考えることは当然ではないだろうか。

これは恐ろしいことである。だが、この我々とは全く違う知性は、同じこの世界を我々とは全く別の視線で見るだろう。そして、我々には決して見出すことのできなかったような仕組みや原理を発見するかもしれない。

AIの本当の意味は、その能力が人間を超えることにあるのではない。それなら電卓ですらある意味で我々の能力(少なくとも私の計算能力)を超えている。AIの本当の意味はその異質性にあり、それゆえに我々が全く見ることも、考えることもできなかった別の世界を我々に前に開いてくれるのではいかという点にあるのではないだろうか。

もしこのような全く異質の知性と我々が共存できるなら、それは「Human AI Interaction」とも呼ぶべき、新しい物語が始まることになるだろう。

 

参考リンク

1)ニューラルネット

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF

 

2)パーセプロトン

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3

 

3)バックプロパゲーション

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

 

4)オートエンコーダ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%80

 

5)特長量

猫であればヒゲがあるとか、体が毛でおおわれているとか、そのものと他と区別できる特徴を表すもの

 

6)AlphaGoの完勝で世界を驚かせた「ディープラーニング」の可能性

http://wired.jp/2016/07/06/kk-column-1/

 

7)IBMの人工知能「ワトソン」が、日本人女性の命を救った

http://tabi-labo.com/274072/watson-saved-woman/

 

8)ホーキング博士「人工知能の進化は人類の終焉を意味する」

http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/03/stephen-hawking-ai-spell-the-end-_n_6266236.html

 

9)「悪魔を呼び出すようなもの」イーロン・マスク氏が語る人工知能の危険性

http://logmi.jp/69130

 

10)「エイリアン・インテリジェンス」としてのAI──ケヴィン・ケリー

http://wired.jp/2016/07/06/kk-column-1/